太田述正コラム#1221(2006.5.8)
<ガルブレイスの死(その3)>
(本篇は、コラム#1212の続きです。)
ガルブレイスの活躍ぶりは次のとおりです。
(以下、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,,1769166,00.html、及びhttp://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-op-parker7may07,0,3657849,print.story?coll=la-news-comment-opinions(5月8日アクセス)にもよった。)
1941年にガルブレイスは価格管理局(Office of Price Administration)のナンバー2に任命され、戦時中の価格統制に辣腕をふるうことになります。
彼は、ケインズの1940年の部分的価格統制で足りるとの主張を一歩進め、1942年に全面的な価格統制を導入します。戦争が終わるまでに、米国の経済規模は3割も増え、その間ほぼ完全雇用状態が続いたのに、インフレ率は年2%程度にとどまり、彼の価格統制策は大成功を収めるのです。
この経験が、ガルブレイスに、政府が経済に価格政策/所得政策等で介入することによって、完全雇用と価格安定を維持しつつ公的財・サービスと私的財・サービスの供給をともに増加させていくことができる、という牢固たる確信を与えるのです。
もっとも、この価格統制策は当時の経済界には悪評さくさくであり、目の敵にされたガルブレイスは1943年に辞任に追い込まれます。
彼は終戦後の1945年には、今度は戦略爆撃調査団の団長(director of the United States Strategic Bombing Survey)に任命され、戦略爆撃の効果は、ナチスドイツに対しても日本に対してもほとんどなかった(注1)し、そもそもドイツの戦争経済の効率はもともと悪かった(注2)、という驚くべき結論を出します(コラム#423及び#831、とりわけ後者参照)。
(注1)米国にとっての戦略爆撃を行うコストの方がナチスドイツが戦略爆撃によって受けるコストを上回っていた、とさえガルブレイスは指摘した。
(注2)女性をほとんど労働力として活用していなかったし、1944年9月の段階でなお、100万人以上のお手伝いさんが家庭で働いていた。
ガルブレイスは、戦争がウソとそのウソによる惨禍を生み出すこと、そして軍産複合体の存在がこれらのことと無関係ではないことを自覚するのです。
以上のような行政官としての原体験が、彼をして、私的財・サービスの供給は充実しているけれど公的財・サービスの供給は不十分(=教育・環境投資等不足)である戦後の米国経済への批判・・1958年の「豊かな社会」上梓・・、及びベトナム戦争への批判へと駆り立てることになるのです。
1961年の夏という早い段階で、ガルブレイスは当時のケネディー大統領(ハーバード時代の不肖の教え子)に、側近としてはただ一人、ベトナム派兵はすべきでないと警告しました。その後も、ケネディによってインドに大使として赴任することになったガルブレイス(注3)はベトナム派兵に反対し続けました。
(注3)27ヶ月間の駐印大使生活中、彼は時間をもてあましたが、1962年の中印紛争の際には、ホワイトハウス・米国務省・国防省のいずれもが、キューバ危機で手一杯であったこともあり、米国は抑制された対印支援を行うとともに、国境線についてはインドの主張を認める、という政策をガルブレイスが自分で立案し、実施する、という大活躍をした。
1963年春には、ケネディはついに恩師の警告を受け入れ、彼が既にベトナムに送り込んでいた15,000人の部隊の引き揚げ準備を命じるのです。ケネディは1964年に再選されてから、十分国民に説明した上で本格的な引き揚げを行うつもりだったのですが、暗殺されたためにこの話は消えてしまいます。
ケネディの後を襲ったジョンソン大統領に対しては、ガルブレイスは、黒人等の貧困解消をめざした「偉大な社会」計画の立案や大統領のこの計画に係る主要演説を書いたり、全面的に協力します。
しかし、ベトナム介入を拡大したジョンソンと1965年の初期にガルブレイスは袂を分かちます。「大統領閣下。逆のばかげた話が公に出回っていますが、われわれはベトナムで敗れますよ」という言葉を残して・・。この警告通りの結果になったことは、ご存じのとおりです。
その20年後、共和党による保守反動的経済革命の嵐が吹き荒れているただ中で、ガルブレイスは、連邦準備制度理事会がマネーサプライの管理というフリードマン流マネタリストの実験に乗り出そうとした時に、彼はそれは失敗し、景気回復どころか景気を更に悪化させるだろうと警告しました。この警告も的中し、爾来、連邦準備制度理事会は、二度とこんな火遊びは行おうとしていません。
2003年にフリードマン(Friedman)自身が、自分の理論の誤りを認め(注4)、この勝負はガルブレイスの勝利で決着しました。
(注4)‘The use of quantity of money as a target has not been a success… I’m not sure I would as of today push it as hard as I once did.'(FT, 7 June 2003)
(続く)