太田述正コラム#1222(2006.5.8)
<ガルブレイスの死(その4)>
1987年には、大企業への規制緩和の行き過ぎと放漫な銀行の貸し付け等により株式市場が過熱化しているとして、米国の株価が大恐慌以来最大の暴落を記録する6ヶ月前に、ガルブレイスは株価大暴落が目前に迫っていると警告し、的中させました。
5 ガルブレイス・経済・経済学・・終わりに代えて
前に、ガルブレイスの大企業論が事実と理論によって論駁されたと申し上げたところですが、本当にそうなのかどうかは皆さんにお考えいただくとして、ガルブレイスがいかなる経済観、経済学観を抱いていたかを最後にご紹介して本シリーズを終えることにしましょう。
彼は確かにケインズ主義者であり大きな政府の提唱者でもあったけれど、いわゆるリベラルのように市場は政府によって矯められなければならない悪だなどとは思っておらず、発明や発見や人間の本質的なニーズの充足の機会を提供してくれる存在であると思っていました。しかも、彼は大企業についても、決してこれをいわゆるリベラルのように敵視することなく、小企業ではできないところの、基礎研究・スケールメリットの追求・技術革新等を行う能力のある存在であると高く評価していました。その上ガルブレイスは、政府についても、一切幻想を抱いてはいませんでした。
このような経済観に立って、ガルブレイスが抱いた経済学観は次のようなものでした。
彼は、この世の中は余りにも複雑であるし、状況の変化に常に対応していくだけで息が切れるし、政府や市場についての見解は試練に晒され続けるし、という次第であり、黒板に書いた数式で分かった気になるわけには到底いかない、と考え、経済学は科学ではなく、その時その時の状況を絶え間なく解釈していく営みであり、経済学が有用な提言を行うに当たっては、数式など用いず、明晰で潤色のない分かりやすい文章だけで行うことが可能である、と主張したのです。
その彼には、「一般の米経済学者達(Economists)は、最も考えることを節約している(most economical about ideas)輩であり、大学院で学んだことが残りの生涯にわたって有効であると思いこんでいるおめでたい連中だ」としか思えませんでした。
そんなガルブレイスを、一般の米経済学者達が「確立された権威を根底から覆すもの」として敵視するのは、「真理探究の観点からではなく、既得権益の擁護のためであり、そうせざるを得ないのだ」とガルブレイス自身は冷笑していました。
このように見てくると、つい先だって(コラム#1220で)紹介した、収穫逓増に係る数理経済学者達も、まだまだ、ガルブレイスのそれに比べて経済観や経済学観が単純すぎるのではないかという気がしてきます。
非欧米人として、初めてノーベル経済学賞を授与されたアマルティア・セン(コラム#210、211、315、777)は、ガルブレイスの「豊かな社会」ををシェークスピアの「ハムレット」になぞらえて、「引用句だらけだ」と評しています。「豊かな社会」は、今やその随所が幾度となく引用され続けてきた古典的書籍と言ってよい、というわけです。
どうやらガルブレイスは、経済学において、シェークスピア的存在になりつつある、と言っても過言ではなさそうですね。
そのガルブレイスが、米国では忘れ去られようとしているのですから、現在の米国が、いかに異常な国になりはててしまったか、分かろうというものです。
(完)