太田述正コラム#11576(2020.10.5)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その29)>(2020.12.28公開)
「・・・帝王の諡<(おくりな)については、>漢風諡号<(注86)>は、新たに唐文化を受容し、唐代の尊号・諡号を日本化して、漢字2字に簡略化して摂取したものと評価でき、これが今日まで天皇名として通用しているのである。・・・
(注86)しごう。「立諡制度の起源は<支那>の周代中期(紀元前9世紀頃)といわれ、天子のみならず、諸侯・卿大夫・高官・名儒等に贈られ、時代が下って高僧も対象となった。・・・
初期の諡号には褒貶の義はなかったようであるが、次第に生前の行跡に照らして追号されるようになった。・・・
戦国時代に成立した『逸周書・諡法解』は諡法について定めた最初の書であり、長く諡号選定の準拠とされた。・・・
秦の始皇帝は「臣が君主の死後君主の業績を評価すべきではない。始皇帝、二世皇帝、三世皇帝……万世皇帝と自動的に決めるようにせよ」という意志を持ち、短時期ながら諡法を廃止した。
しかし、前漢の皇帝たちはこれを復活させ、さらに2通りの帝王諡号を制定した。文皇帝・武皇帝・明皇帝・元皇帝などの帝号と、高祖・太宗・世宗・宣宗などの廟号があるわけである。一般に言うと、隋以前は帝号をもって帝王の尊称としたが、唐宋以後は多く廟号を用いるようになった。唐以降も帝号もなくなったわけではなく、唐の初期には先例が踏襲されていた。例えば、唐の太宗は死後、「文皇帝」を諡された。しかし高宗の治世には、父帝の諡号を「文武聖皇帝」とし、古代からの制度を破壊した。後に太宗は玄宗によって「文武大聖皇帝」、さらに「文武大聖大広孝皇帝」と諡号が改められるなど、唐の歴代皇帝の諡号は長くなっていった。宋の時代には北宋の真宗の「応符稽古神功譲徳文明武定章聖元孝皇帝」のようにさらに長くなる傾向があり、呼びにくいので唐以降の皇帝は通常諡号で呼ばれなくなっている。この影響から高麗や李氏朝鮮、ベトナムの歴代王朝などでも王号・帝号が長くなり、廟号で呼ぶようになっている。なお、明王朝以降は一世一元の制が導入されたため、日本などでは明・清やベトナムの阮朝の皇帝は諡号でも廟号でもなく、その治世の元号+帝を使用することが多い。
・・・武帝・文帝など美諡は繰り返し贈られた。また、夭逝した皇帝には、それを悼む哀帝、殤帝など平諡が贈られた。悪諡を贈られた著名な例が隋の煬帝であるが、唐宋以降はよほどの暴君でもない限り悪諡は避けられた。美諡と悪諡(または平諡)の並び称は許可されている(武霊王ほか)。・・・また美諡でも、実際に皇帝を婉曲に批判している可能性を持つ。例えば、無能で政務を執り行うことが不可能の皇帝に対して恵帝の美諡が贈られた。末代皇帝に対して恭帝の美諡が贈られた。・・・
<前出の>廟号について<は、>・・・一族の祖、王朝の初代や再興を遂げた皇帝には「某祖」、その他の皇帝たちで特に称揚される者には「某宗」の廟号が奉られた。例えば、前漢の高帝劉邦は初代皇帝なので廟号を「太祖」(太祖高皇帝の略で、『史記』以来「高祖」と一般に呼ばれる)、漢の再興を果たした後漢の光武帝は廟号を「世祖」とされ、それ以外の漢代の皇帝には「某宗」という廟号を贈られた者がいた。清の初代ヌルハチは「太祖高皇帝」、初めて中原を支配した第3代順治帝は「世祖章皇帝」、その子で賢君の誉れ高かった康熙帝は「聖祖仁皇帝」とされ、一代三祖となっている。・・・廃帝や末帝には廟号が贈られなかった。廟号を得ることは、太廟(皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味する。一つの王朝が滅亡すればその王統の祭祀をする者もいなくなるのであり、廟号自体に意味がなくなってしまうゆえである。
上述の通り、唐以降は、諡号の形骸化のため廟号は諡号に代わって君主の生前の業績を評価する。太祖・太宗・高宗・中宗・世宗を除いて他の廟号は主な『逸周書・諡法解』を参照した。廟号も皇帝に対して婉曲な批判に用いられていた可能性がある。例えば、遊楽に耽って危うく国を傾けそうになった北宋の徽宗(実際に亡国)。その他、表向きは文宗・英宗・神宗は美称であるが、貶称である。廟号と諡号は微妙に使い方が異なるので注意。同じ「武」の諡字が贈られ、「武帝」が賛辞に使用されている一方、「武宗」は遊興にふけった暗君の廟号としてに使用された。・・・
<次に日本の場合だ。>
・・・天皇(その称号自体が諡である)<については、>・・・明治3年(1870年)以前は63代冷泉天皇から118代後桃園天皇まで(81代安徳天皇と96代後醍醐天皇を除く)は「某天皇」とは呼ばず、「某院」と称していた。・・・
漢風諡号の方は、<支那>とほぼ同様、生時の行いを評して、『逸周書・諡法解』などの定義によって選定された。諡を撰して奏上するのは明経道を学んだ明経博士や大外記などの儒家である。
ただし、日本では悪諡は適用せず、あえて評価を避けた諡号を贈った。・・・
漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである(いずれも怨霊を恐れられたゆえに「徳」の字を奉られた。なお、讃岐院、隠岐院、佐渡院はもちろん諡号ではない)。・・・
江戸時代後期の光格天皇の時に漢風諡号が復活し、仁孝天皇、孝明天皇の3代を数えた。また・・・明治3年(1870年)<に>・・・、淡路廃帝を47代淳仁天皇、九条廃帝を85代仲恭天皇とし、大友皇子を即位したものとして39代弘文天皇とし・・・た。
大正時代には、南朝の寛成親王の即位の事実が判明したとして98代長慶天皇としたがこれは漢風諡号ではなく院号からとった追号である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%A1
⇒「注86」を長々と紹介したのは、様々な意味で啓発的だったからです。
「日本では悪諡は適用」しなかった点はとりわけ興味深いですね。
怨霊化を恐れたということもあったでしょうが、死ねば善悪を超越するという考え方があり、かつまた、実際問題として、出来不出来はあっても、歴代天皇はみな、人間主義者で人間主義統治を行い、或いは祈念した人ばかりだった、からではないでしょうか。
なお、光孝天皇までは漢風諡号が続いたということは、宇多天皇が、当時、先代「天皇に対して最後の諡号付与を行ったということであり、即位直後にそれを行ったであろうことから、想像するに、藤原基経の反対を押し切ってそうしたのではないでしょうか。
基経の方は、そろそろ、天武朝の末裔たちが朝廷から姿を消しつつあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87 ←末裔の一端が分かる
ことから、天武朝の支那かぶれから脱する営みの一環として、漢風諡号付与慣行の取り止めを図っていた、と、見るわけで、基経の子の忠平が、宇多の子で宇多の次の醍醐天皇が930年に崩御し朱雀天皇即位と同時に関白に任じられた際、まだ存命であった宇多・・当時法皇・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%B9%B3
の説得に成功し、醍醐への諡号付与を止めることに成功した、ということではないでしょうか。(太田)
中国では『周礼』などの経典に、正月の吉日をえらび天子は籍田の儀(みずから田を耕し祖先をまつる)、三月の吉日に皇后は、親蚕の範を示すわけで、漢代<にも>・・・唐代にも・・・行なっている。
これにならって仲麻呂が中国風の儀式と宴会を行な<った。>・・・
しかし平安時代以降にこのような儀式は行なわれず、籍田はこの時だけだったらしい・・・。
日本の天皇は、中国皇帝と異なり、みずから農耕をする存在ではなく、豊作を祈るにしても祭祀のあり方が違い、籍田は本質的に古代天皇制になじまなかったのだろう。
⇒弥生人が渡来した時、縄文人に稲作技術を伝え、弥生人は、縄文人が捧げる贄で生活しつつ縄文人を統治する、という形で両者の関係がスタートした、という意識が残っていたのかもしれませんね。(太田)
なお現代の天皇・皇后は「お田植え・ご養蚕」<(注87)>を行なうが、これは明治になってはじめられたものである。」(172、175)
(注87)「明治政府は、重要な輸出品目として生糸の品質向上と需要の拡大のため、リヨン近郊出身の技術者ポール・ブリュナーを招き、1872年群馬県の富岡に官営の「富岡製糸場」を設けた。
この製糸場で、蒸気機関を動力に用い、25人分の繰糸機を12連備えるという最先端技術を誇った。渋沢<栄一>は富岡製糸場の設立に向けた計画や調整を行ない、設置主任としてかかわっ<てい>た・・・。
宮中養蚕は1871年(明治4年)に、明治天皇の皇后美子 (昭憲皇太后)が要望し、「その道の知識経験のあるものに聞くように」と促して、<上出の>渋沢栄一が回答したことに始まるという。
明治政府の高官には下級武士出身者が多く、養蚕にかんする知識があるのは、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)生まれで当時大蔵大丞を務めていた渋沢栄一しかいなかったためだと考えられている。・・・
1879年、英照皇太后は青山御所内に「御養蚕所」を新設して、養蚕を再開。・・・
昭和初年頃には、米の生産高は明治10年代の2倍以上に増加したものの、幕末の3倍近くにまでなった人口増加のため、日本は深刻な米不足に陥り、朝鮮や台湾からの米の移入で不足分をまかなっていた<が、>・・・1927年3月3日、侍従次長兼皇后宮大夫になった・・・河井弥八・・・は即位したばかりの昭和天皇に、皇居での稲作を提案した。この提案を受け入れ、赤坂離宮内苑菖蒲池のほとりの水田で、昭和天皇はお田植えをされたのである。・・・
天皇の稲作と皇后の養蚕は「ご公務」ではない。また、稲作によってできた米が新嘗祭に使われるものの「宮中祭祀」でもない。・・・
ここまで見てきたように天皇の稲作と皇后の養蚕は、近代日本の殖産興業としての側面が強かった。」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56263?imp=0
⇒大津の「明治になって」は、田植えに関しては不正確です。
とまれ、この話も面白いですね。
明治以降に、結果的に過去の支那の諸皇帝が行った儀式とほぼ同じ儀式が、日本で天皇・皇后によって、殖産興業的観点から行われるようになったとは・・。(太田)
(続く)