太田述正コラム#11578(2020.10.6)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その30)>(2020.12.29公開)

「・・・仲麻呂を滅ぼしたあと重祚した孝謙、つまり称徳天皇の政治は、道鏡による政権とされることもあり、西大寺造営や百万塔に象徴される仏教政治だと考えられることが多い。
 しかし渡辺晃宏<(注88)>氏は、決して仏教一辺倒だったのではなく、神祇も重視し、伊勢や宇佐八幡などの神々をその頂点である天皇のもとに位置づけて序列化しようとした<(注89)>とする。

 (注88)1960年~。東大院博士課程単位取得退学、奈良国立文化財研究所研究員、主任研究官、都城発掘調査部資料研究室長、同部副部長、同研究所副所長、奈良大教授。
https://www.kuba.co.jp/nabunken1020/profile02.html
http://www.nara-u.ac.jp/about/overview/staff/let/watanabe/
 (注89)「伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87

 さらに前政権から受け継いだものとして、儒教的な礼秩序をあげる。
 神護景雲2年(768)には、人々の名・字の称を礼典に従わせるとして、「真人」「朝臣」を名としたり、「仏・菩薩・聖賢(孔子・老子)」の名を改めさせたりしている<(注90)>が、仲麻呂時代の避諱政策の延長上にあるだろう。

 (注90)「名前や言の葉(=言葉)は一つ一つ、思いがこもった霊であり、大切にしなければならない、という孝謙天皇の考えがあった。」(上掲)

 また・・・767<年>2月には称徳はみずから「大学に幸(みゆき)して釈奠<(注91)>したまふ」(続日本紀)。

 (注91)釋奠(せきてん/しゃくてん/さくてん)。「孔子および儒教における先哲を先師・先聖として祀る儀式のこと。儒祭(じゅさい)、孔子祭(こうしまつり)とも。・・・
 日本における釈奠に関する最初の記録は・・・701年3月27日・・・のことである・・・。大宝律令学令に大学寮及び国学において、毎年春秋二仲(すなわち、春と秋の真中の月である2月と8月)の上丁の日(上旬の丁の日(十干))に先聖孔宣父(孔子)を釈奠する事が規定された。・・・
 次第に簡略化されていくとともに日本独自の様式に変容していく。・・・
 また、これとは別の問題として、穢れや不殺生戒という神道や仏教に由来する観念によって、釈奠の場において動物を犠牲として捧げるという考えがなかなか受容されなかったことも知られている。・・・
 1127年・・・8月10日に殺生禁断を理由に釈奠での牲を止められた・・・を機に行われなくなった。・・・
 そして、日本の釈奠に関して特筆すべきは、<支那>においてはしばしば行われていた皇帝による釈奠親臨が、日本の天皇に関しては神護景雲元年しか知られていないこと、これに準じるものとされた皇太子の参加も 恒貞親王(仁明天皇の皇太子)が親しく釈奠に臨んだこと(『恒貞親王伝』)以外には確認できない。『延喜式』には『開元礼』に基づいて皇太子が参加を想定して規定が定められているものの、『開元礼』の釈奠における皇太子は主催者であり学生の一人として講読を行うことが想定されていたのに対して、『延喜式』の釈奠における皇太子は他の参加者からは超越した立場に立つ賓客であった(代わりに上卿が主催する)。そして、平安時代以後において釈奠翌日に内裏にて開かれた内論義の慣習自体が儒教思想と相反する側面を有していた。それは、儒教においては天子と雖も師に対しては北面(臣下の礼)を取り(『礼記』学記篇・『呂氏春秋』孟夏紀勧学篇)、釈奠の儀式もそれを前提にして行われたのに対して、日本の天皇は天子が北面する釈奠への参加を事実上拒否して、内論義という形で学者たちを召還することで南面(主君の礼)を取り続けたのであった。これは律令法を超越する存在とされていた日本の天皇の<支那>皇帝とは違った立場に由来すると考えられている。・・・
 釈奠の簡略化・日本化が進むとともに、釈奠そのものは儒教祭祀としての色合いを薄め、公家政権における文芸・学芸にまつわる重要な公事の1つとして定着をみた。・・・1177年・・・の太郎焼亡・・・で大学寮が事実上消滅した後も場所を移して続けられ、・・・中世に入ると多くの朝儀が廃絶していく中で、釈奠は南北朝の混乱期に一時的な中断を挟みながらも、15世紀の応仁の乱の頃まで継続されていた。その後も、地方においては足利学校や九州の菊池氏の聖堂などで独自に釈奠が行われた他、公家社会でも三条西実隆などが釈奠の代わりとなる詩会を開いており、釈奠の伝統が完全に途絶えた訳ではなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E5%A5%A0

 これは天皇が釈奠に参列した、つまり孔子をまつった唯一の例である。
 その背後には、右大臣となって政権をささえた吉備真備の存在があったと考えられる。
 藤原仲麻呂による唐風化政策は、一時的で根づかなかったものもあるが、律令法の徹底や学制改革、天皇制の唐風化など、律令制展開の基礎となっていくものも多いのである。」(177~178)

⇒私は、吉備真備(695~775年)は、藤原北家の永手(714~771年)らと密かに手を取り合って、(天武朝への迎合に徹しきれなかった仲麻呂とは違って、)徹底的に天武朝に迎合することでその信頼を得続けつつ、天智朝復活の機会をうかがい続け、ついに、自分の子(または妹)の吉備由利を使って称徳天皇の遺志を「偽造」して、光仁天皇を即位させ、それを成就した、と、前にも主張したところです。(コラム#省略)
 吉備真備のウィキペディアも、「永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した」としていますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99
 それはそれとして、天武朝は、仏教、神道、儒教、のいずれをも、国家鎮護の手段として用いようとし、それぞれによる国家鎮護儀式の実施に血道をあげた、というのが私の見方です。(太田)
 
(続く)