太田述正コラム#11580(2020.10.7)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その31)>(2020.12.30公開)

 「・・・桓武天皇<は、>・・・母<が>・・・百済系帰化人の出身であり、血統の上で劣っていたこともあり、従来の神話と血統による天皇の権威とは異なる権威づけを求めた。

⇒桓武天皇は、自分が、百済の国王の血も引いている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E6%96%B0%E7%AC%A0
ことに、むしろ誇りを抱いていた、と、私は思っているのですが・・。(太田)

 天武系から天智系に替わったこともあり新たな王朝を開いたという意識が強く、平城京を捨てて山背国の長岡そして平安京へ遷都したのも、そうした意識の表れだろう。

⇒私は、かねてより、鎮護国家仏教の中心地から逃れるために平城京から遷都する、というのが最大の目的だったと考えているわけです。(コラム#省略)

 桓武は、長岡遷都ののち、・・・785<年>と<787>年の冬至の日に、昊天上帝(こうてんじょうてい)(中国の天、天帝)を南方の円丘にまつる郊祀<(注92)>(こうし)を交野(かたの)で行なった<(注93)>。・・・

 (注92)「郊祀とは、<支那>において天子が王都の郊外において天地を祀った祭。円丘を築いて併せて皇祖を祀ったことから、円丘祭(えんきゅうさい)とも称する。
 冬至の際には天子が自ら王都の南郊に至って天を祀り、夏至の際には天子が自ら北郊に至って地を祀る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%8A%E7%A5%80
 「前漢代より始まった。・・・前32<年>・・・に丞相匡衡・・・の建言によるもので、翌年の・・・前31<年>・・・正月にはじめて南郊祭が実施された。その理論的根拠となったのが、『書経』にみえる周の文王・武王・成王が行なった郊の祭りであり、また『礼記』祭法篇にみえる円丘で柴を燃やして埋めて天を祀り、方丘で絹と犠牲を埋める祭祀であった・・・。
 天子たる皇帝のみが実施できる祭祀であると観念づけられており、当然のことながら、皇帝以外は実施することは原則としてはできなかった。中華思想においては皇帝は天に一人のみ、すなわち<支那>にしかいないことになっていたが、<支那>以外の東アジア各国で南郊の祀りを行なう場合が多かった。・・・
 百済では・・・伝説的な始祖王温祚王の時代から行なわれていたとされ・・・高麗初期の国王は外(<支那>)に対しては国王を称したが、内に対しては皇帝・天子号を用いており、以後の国王も郊祀を実施していた。」
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page016g.html
 (注93)「その後、文徳天皇の斉衡3年<(856年)>11月22日から翌日にかけて同じく柏原で郊祀が行われている(『文徳実録』)。だが、この時には既に平安京に遷都して久しく、一応柏原も平安京の南郊ではあるとは言え距離的には離れており、なぜ、平安京からみて、より近い土地に新たに祭壇を設置しなかったのか、延暦6年以来70年余り行われた記録の無い郊祀が復活したのかなど謎が多い。しかも、日本の歴史上郊祀が行われたと確認できるのは、延暦の2回と斉衡の1回を合わせた計3回のみであり、実際にこの3回しか行われなかったとみられている。」(上掲)
 「日本における郊祀は、・・・いずれも天皇親祭ではないことに特徴があった。しかも唐では定期的に実施される「正祭」であったのに対して、日本では臨時に行なう「告祭」となっていた。」
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page016g.html 前掲

 <その>祭文・・・は『大唐郊祀録』に載せるのとほぼ同文であり、冬至の日に動物の犠牲をささげて火をたいて昊天上帝をまつったのである。
 北京の天壇公園<(注94)>が有名であるが、中国におけるもっとも重要な天を祀る皇帝祭祀を日本の天皇制に輸入したのである。

 (注94)「明・清の皇帝が天を祭ったところである。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8A%E5%A4%A9%E4%B8%8A%E5%B8%9D-1165081

 瀧川政次郎<(注95)>氏が早く指摘したように、桓武の即位は、天武系から天智系に替わる、中国的な天命思想に基づくある種の革命による新王朝の創始であると考え、中国的な皇帝像を追求していたことがわかるのである。

 (注95)たきがわまさじろう(1897~1992年)。一高、東大法卒。満鉄、中大、法大、日大講師、九大法文助教授、教授、九大事件で休職・免官、中大法教授、同大博士、「大化改管見」発禁で再び大学を追われる。在支、戦後弁護士、明大講師、國學院大教授、近畿大兼任教授。専門は法制史。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%B7%9D%E6%94%BF%E6%AC%A1%E9%83%8E

 しかも、祭文で唐では天とともに王朝の創始者(高祖・太祖)をまつるのだが、それに代えて「高紹<(たかつがす)>天皇<(注96)>」(光仁天皇)をまつっていることは、光仁を始祖とする新王朝という意識を示している。」(179~180)

 (注96)「光仁天皇<の>・・・諱は白壁(しらかべ)。和風諡号は天宗高紹天皇(あまつむねたかつぎのすめらみこと)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒私は瀧川説に賛成なのですが、付け加えるとすれば、「天皇親祭ではな<く>・・・正祭<でもない>」形で郊祀を行ったのは、支那かぶれの天武朝への決別宣言を兼ねたものだったからではないでしょうか。
 で、想像ですが、桓武天皇(天皇:781~806年)による郊祀は、1回目(785年)は桓武天皇構想が策定された記念、2回目(787年)は同構想実施着手の祈念、そして、文徳天皇(天皇:850~858年)による郊祀は藤原良房の発意によるもので、天武朝復活の可能性がゼロになったことの宣言、プラス、桓武天皇構想中の摂関政治への移行が成就したことの記念、ということではないでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87 (←文武天皇/藤原良房)
 更に、やや牽強付会気味ながら、あえて申し上げれば、桓武天皇としては、祀る対象を厩戸皇子にしたかったけれど、皇子は天皇ではなく、また、天智天皇にするのは露骨過ぎていまだ「健在」であった天武朝系皇親達の憤怒を買いかねず、止むなく父親の光仁天皇にしたのではないでしょうか。
 いずれにせよ、文徳天皇による郊祀を説明しようと試みた日本の歴史学者が今までいなかったというのは怠慢だと思うと共に、私の、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想なる補助線の有効性がここでも裏付けられたという思いがします。(太田)

(続く)