太田述正コラム#11586(2020.10.10)
<大津透『律令国家と隋唐文明』を読む(その34)>(2021.1.2公開)
「・・・8世紀中葉から9世紀はじめにかけての天皇制の唐風化は、一面で専制君主化への模索だったのだが、実際にはそうならなかった。
⇒歴史は勝手に歩むわけではありません。
「そうならなかった」のではなく、誰か(複数)が「そうさせなかった」のです。(太田)
たしかに9世紀には、天皇が「文人」官僚を抜擢することで、伝統的な畿内氏族の枠組みを打ち破ったが、結局は菅原道真の失脚が象徴するように、藤原北家を中心とする貴族社会が成立する。
⇒だから、「藤原北家を中心とする貴族社会が成立する」のではなく、誰か(複数)が「藤原北家を中心とする貴族社会を成立させた」のです。(太田)
天皇は核ではあるが、摂政・関白や大臣(のちには院、将軍)が権力を代行する安定した体制が成立するのである。
⇒この「体制」、「貴族社会」より広いですよね。
どうして、「貴族社会」が「武家社会」に変わったんでしょうね、大津さん。(太田)
筆者は、安定した古典的国制というのは、10世紀になって中国文化の受容一段落して、貴族社会が成熟した摂関期のほうがふさわしいと思っているが、なぜ貴族社会が成立したかは難しい問題である。
⇒それ、ひょっとしたら、誰も、当時の日本史が、ということは、日本史の全期間にわたって、それがどうして、そのように進展したか、が、分かっていない、ということではありませんか?
これ、ゆゆしい問題ではありませんか、大津さん。(太田)
一つの理由として、唐の礼を受容して作られた宮廷儀式などの規範が、それまでの神話の力にとって代わっていったとき、天皇の制度化が進み、人格的役割が縮小し、もはや幼帝でもよくなると考えられる。
⇒話は逆で、私は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の完遂後も、いずれは日本を武家社会に代わる新しい体制に作り替えるべき時節が到来するであろうことを見越し、その折に再び体制転換の中心たりうるよう、天皇家を維持していかなければならない、また、その場合、上記コンセンサス/構想の実施過程が、天皇家権力/権威、天皇家権威/摂関家権力、天皇家権力/権威、という段階を辿ったことも踏まえれば、天皇家権威/摂関家権力、的、な形も組めるよう、摂関家を中心とする貴族も維持しなければならない、となると、それまでの間、かつて権力を持っていた天皇家とかつて権力を持ったことのある貴族、が、どのような「仕事」をして無聊をかこつ、いや悪くすると小人閑居して不善をなす、ようなことがないようにするか、と考えてきて、宮廷儀式を行い続けること、という結論を出し、そうしたのである、ということではないか、と思うのです。(太田)
そのとき儀礼が貴族の役割を大きくし、その方向を積極的に推し進めたのが藤原氏であり、公卿といわれる上級貴族だったように思われる。」(191~192)
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[日本独特の皇/王位継承儀礼]
「日本の場合、皇位継承儀礼が、古くから践祚(せんそ)―即位礼―大嘗祭の3部構成になっているのが特色だった。践祚とは、天皇代替わりの直後に、皇位のシンボルである神器を新帝に譲り渡すことを中核とする儀式であり、即位礼とはそれからしばらく期間をおいて行われる、新帝が大極殿の高御座(たかみくら)につき、百官に即位を宣する公的な儀式である。それからさらに日をおいて行われる大嘗祭は、厳冬の深夜、ひそやかに営まれる新天皇親祭の神事が儀式の中核となる。
遺著となった『日本古代の王権と祭祀』で、古代の皇位継承儀礼を包括的に考察しようと試みた故井上光貞東大名誉教授によると、この3部構成が践祚を一番最後に制度的に確立するのは、平安時代初頭以降のことらしい。井上氏が研究の基本文献とした養老令(718)中の神祇令には、いわゆる践祚の規定はない、というのが井上氏の解釈だ。だが、日本の皇位継承儀礼に影響を与えた<支那>や朝鮮では、先帝の死後大葬を待たずに即位するのが原則だったのに対し、死のけがれを嫌う観念が強い日本の場合は、先帝の大葬をすませた後に即位するのが通常の形だった。大葬をはさむことによる新帝即位までの空白期の政治的混乱を未然に防ぐ装置として、代替わり直後に神器を新帝に引き継ぐ践祚が行われ、定式化した、と井上氏は考えたようだ。
践祚の場合はそれとして、日本の皇位継承ではなぜさらに即位礼、大嘗祭が重複して行われたのだろうか。この点について、上山春平京都国立博物館長は「大嘗祭が確立したと考えられる律令国家形成期は、唐文化の影響の大きかった時代で、即位式も唐風になっていた。唐文化を精いっぱい模倣する一方で、それだけではあきたらず、日本古来の儀礼を即位儀礼に加えることにより、心理的バランスを保とうとしたのではないか」と考える。」(1989/02/06 朝日新聞夕刊)
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⇒上の囲み記事に出てきますが、宮廷儀礼中の最たるものと言うべき皇/王位継承儀礼が、世界標準に比して3倍の回数行われること一つとっても、私の言う復活天智朝下で、宮廷儀礼の過剰整備が行われたことが分かろうというものです。
(ついでに、ここでも、律令(養老律令)がいかに「軽んじられていた」かも分かりますよね。)
井上説は、践祚と即位礼の2回になったことの説明にはなるかもしれませんが、更に、大嘗祭を行うことの説明は放棄してしまっています。
結局のところ、私の記したように、宮廷儀礼の頻度、種類を増やすこと自体が目的だった、と解するほかないのではないでしょうか。
そして、このことが、復活天智朝が「整備」した、宮廷儀礼全体について言えるのではないか、とも。(太田)
(完)