太田述正コラム#11598(2020.10.16)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その6)>(2021.1.8公開)
「信西は、・・・1158<年>8月、守仁を養子とする美福門院の要請により後白河から守仁への譲位を実現させた。
⇒とんでもない。
聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を踏まえたところの、白河が、院政という「新常態」への早期復帰を図ったということでしょう。(太田)
二条天皇である。
後白河は院政を開始したが、中継ぎであっただけに治天の君としての権威が足りない。
天皇親政に意欲を示す二条も弱冠16歳、同年齢の関白基実と美福門院の後見では力不足であった。
院政派・親政派ともに決め手を欠き政局が不安定になる中、後白河の近臣で二条にも影響力を及ぼし、急速に台頭してきた信西に両派から批判が集中する。
その急先鋒が後白河の院近臣藤原信頼(のぶより)であった。
⇒私は、藤原道長から始まる御堂流摂関家以外の、例えば、信頼の中関白家等には、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想(「構想」)は伝えられなかった、と見ており、藤原南家貞嗣流の信西に至っては、その匂いもかがせてもらってはいなかったと思いますが、後白河院制の近臣の最重臣となった時点で、そんな信西に対し、後白河から直々この「構想」が伝えられた・・そうしなければ、信西が二条天皇の朝廷との連絡役が全うできない・・のに対し、信頼は後白河の男色相手としてその寵臣となっただけの人物であって、後白河は信頼には最後まで「構想」を伝えなかった、と見ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A5%BF ←信西
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E9%A0%BC ←藤原信頼
また、後白河は、いくら「二条天皇は美福門院に育てられたこともあり、実父・後白河上皇との関係は冷淡なものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
とはいっても、その後白河は、「構想」を即位前の二条天皇に伝え、院が権力を担い天皇が権威を担う意義と必要性も伝え、理解させた上で院政を開始したはずであり、「二頭政治が行われた」だの「<やがて、二条が>実権を掌握した」だの、「政治から排除された後白河上皇は信仰の世界にのめりこみ、蓮華王院を造営して供養の日に二条天皇の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、天皇が拒んだことから恨みを抱いたという<だの、>蓮華王院には荘園・所領が寄進され、二条天皇は後白河上皇の院政復活の動きに警戒心を抱くことにな<った>」だの、「上皇との対立は生涯に亘って解消されることはなく、「孝道には大に背けり」という世評もあった」、といった諸物語(いずれも上掲)は、全て風評の類に過ぎない、と、私は思っています。(太田)
藤原信頼は妹が後白河の乳母であったことから近臣となり、後白河との男色関係を利用して昇進を重ねた。・・・
⇒「妹が後白河の乳母であった」は、坂井の勘違いではないでしょうか。(太田)
一方、・・・伝統的な院近臣たちも、院政派・親政派の枠を超えて反信西で結束した。
さらに、主要な軍備である馬を管理する院御厩(いんのみうまや)の別当(長官)となった信頼は、保元の乱後、同じく馬の官吏を行う佐馬寮の頭(かみ)を兼ねた源義朝の武力に目をつけ、配下に取り込んだ。
⇒その他、信頼の武蔵守時代以来の義朝との密接な関係、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E9%A0%BC 前掲
や、「武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E9%A0%BC-124677
といったことが(それぞれ本当であるかどうかはともかく、)指摘されており、頁数の制約を考慮しても、坂井の平治の乱の背景説明は簡単過ぎます。(太田)
平治元年(1159)12月9日、信頼・義朝は、平清盛が熊野詣で都を留守にした隙をついて院御所に夜襲をかけ、信西を排除するクーデターを敢行した。
平治の乱である。
信頼は後白河・・・を内裏の・・・書庫に幽閉し、二条の身柄も掌握した。
逃亡を図った信西は、南都に向かう途中で自害・・・。
信頼が二条に行わせた臨時の除目で義朝は播磨守に昇進、義朝の嫡子で初陣を飾った13歳の頼朝も従五位下、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に叙任された。」(19~20)
⇒ここでも、坂井には、頼朝の長兄の義平は官位を与えられた形跡がないけれど、次兄の朝長は従五位下・中宮大夫進に任じられたことを併せて記して欲しかったところです。
なお、頼朝は、既に、前年の1158年に皇后宮少進に任じられていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%B9%B3
この3人の差は、義平の母が不詳(上掲)であること、朝長の母が、「摂関家領相模国波多野荘を所領とする・・・波多野氏の一族の波多野義通・・・の妹」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%BE%A9%E9%80%9A
であること、に対し、頼朝が正室の子達のうちの長子であることから嫡男と見なされていたからです。(太田)
(続く)