太田述正コラム#11608(2020.10.21)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その11)>(2021.1.13公開)
上の囲み記事で紹介した論文の執筆者の清水由美子氏ですが、その論文の論旨といい経歴といい、見上げたものです。
私は、(私のいう)聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想は、秘匿されなければいけない一方で、忘失されても絶対いけないことから、天皇家の嫡流と藤原氏の嫡流、だけが、二重に相伝し続けることにした、と想像しています。
例えば、摂関政治の下では歴代天皇と摂関家の当主、院政の下では歴代治天の君と摂関家の当主、が、それぞれ、相伝を「担当」したのであろう、と。
そして、清和源氏に対しては、経基王の武家創出含みの臣籍降下の際、爾後、代々、当主が誰であるかが外から見ても分かるようにするよう、時の天皇・・朱雀天皇?・・が(時の関白の藤原忠平との調整の下?、)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%B5%8C%E5%9F%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E9%9B%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%B9%B3
命じ、また、できるだけ早期に分家のうちスペアたる一系統を選び、そちらについても、代々、同じことをさせるよう、同じ天皇が命じたのであろう、とも。
そうしておけば、本家の当主が次代の当主を指名しないまま亡くなった場合、スペアたる分家の当主が本家の一族に対し、その新たな当主・・場合によっては当主たるべき者の目星を付けた上で、その当主・・への就任を促すことができますし、万一、最悪の事態が出来して本家の男子が根絶やしになったとしても、この分家の当主がこの分家を本家化した上で、新たなスペアたる分家並びにその当主の事実上の指名を行うことだってできるからです。
以上のような想定を前提にして、上の囲み記事の清水論文を読んだので、私は、摂関家嫡流の近衛家が、(大いにありうることだと思うのですが、)九条兼実には聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を相伝しなかったとすれば、彼には、多田行綱の事績が変節の連続に見えてしまうだろうな、と膝を叩いた次第です。
それにしても、清水論文を踏まえれば、後白河/近衛家、は、権力を移譲すべき武家の棟梁を、頼朝から義経に真剣に切り替えようとしていた、ということになるわけであり、その場合、それが叶わなかった無念さを、後鳥羽は後白河から聞かされたはずですから、頼朝家が北条氏によって事実上乗っ取られてしまったのを目撃させられた後鳥羽が、後白河が果たせなかったところの、より適任の武家の棟梁を指名して鎌倉幕府を「再起動」させようと承久の乱を起こした、としても、何の不思議もない、と、私には思えてきました。(太田)
「とはいえ、反平家の動きを封殺することは難しかった。
治承3年(1179)11月、清盛は自ら数千騎を率いて福原から上洛、後白河を鳥羽殿(とばどの)に幽閉して院政を停止する挙に出た。
⇒清盛は与り知らぬことながら、これは、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想への真っ向からの挑戦だったのであり、この瞬間、平家の急速な没落が必然になった、と言えるでしょう。(太田)
治承三年の政変<(注33)>である。
(注33)「鹿ケ谷の陰謀の前後から続く後白河と延暦寺による「王法」と「仏法」の衝突の問題、後白河の近臣で一定の武力を有した頼盛との確執など、清盛と後白河の対立は個人的なものに留まらず、平氏一門の分裂、更には国政全般まで広がりかねない深刻な構図になっていた。・・・頼盛との間に和戦両方の可能性が存在したために、大軍をもって都を制圧する必要が生じたと見られている。頼盛が清盛に屈したことで衝突は回避された・・・。・・・
太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官される。この中には一門の平頼盛・・・などが含まれており、・・・諸国の受領の大幅な交替も行われ、平氏の知行国はクーデター前の<全国66ヶ国中の>17ヶ国から<実に>32ヶ国にな・・・った。・・・
後白河を幽閉して政治の実権を握ったことは、多くの反対勢力を生み出した。・・・
新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が巻き起こった。特に、この時に交替した上総・相模では有力在庁の上総広常・三浦義明が平氏の目代から圧迫を受け、源頼朝の挙兵に積極的に加わる要因となった。中央で一掃された対立は地方で激化することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
⇒治承三年の政変についてはもちろんですが、「注33」に登場する平頼盛についても、多田行綱と併せ、次の東京オフ会「講演」原稿中で改めて取り上げたいと思います。(太田)
順調に復興を続けていた王権は傷つき動揺し、かつてない危機にさらされた。
故建春門院が産んだ天皇(高倉)のもと、多数の院近臣が解官(げかん)され、反平家の立場を取った関白・・・松殿基房<(注34)>・・・も流罪に処された。
(注34)1144/45~1231年。「<1157年、>兄・近衛基実が早世すると、基実の遺児基通が幼少のため、後任として摂政に補任された。・・・1168年・・・2月、六条天皇は皇太子憲仁(高倉天皇)に譲位したが、高倉も幼年であるため引き続き摂政を務めた。・・・1170年・・・12月には太政大臣を兼ね、・・・1172年・・・12月には関白に転じた。・・・
1179年・・・2月に基房の妻・忠雅女が皇太子言仁親王<(後の安徳天皇)>の養母となった。これは基実の妻の盛子も高倉天皇の養母となっており、その先例にならったことと、基房と平家の連携をはかった後白河院の意向であったとされるが、清盛は基房が基通から摂関家当主の地位を奪おうとしているとみて反発した。同年6月に盛子が死去すると、後白河と基房はその遺領を後白河の管領とした。さらに10月には基房の子・師家が、右中将であった基通を超えて中納言となった。基実-基通の系統に代えて基房-師家を摂関家の正統に位置づけようとする措置であった。基通を擁立して摂関家領の実質的な支配を維持するつもりだった清盛はこれに激怒し、11月、軍を率いて福原から上洛し、クーデターを起こす。清盛の怒りはまず基房に向けられ、関白を解任されて、大宰権帥に左遷された。基房の身柄は実際に大宰府に送られることになったが、その途上に出家したことで備前国への配流に減免された。・・・1180年・・・12月になってようやく罪を許されて京都に帰還している。
清盛の死後、平氏が急速に衰退して・・・1183年・・・に源義仲の攻勢の前に都落ちすると、基房は娘(伊子とされる)を義仲の正室として連携した。同年11月、義仲の勢力を背景にして摂政基通を退け、子・師家を内大臣とし摂政に補任させることに成功する。だが、・・・1184年・・・1月に義仲が源義経らによって討たれると、師家はたちまち罷免され、基通が摂政に復帰した。以後、基房は政界から引退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%9F%BA%E6%88%BF
⇒同床異夢の摂関家の近衛基通に入れ込んでいた清盛もそうですが、清和源氏本家の当主でもスペア分家の当主でもなかった木曾義仲などに接近した松殿基房も、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、を教えてもらっていなかったようですね。(太田)
後任の関白は基実の嫡子で清盛の娘を正室とする基通であった。
⇒基通に聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を教えたのは、恐らく後白河でしょうね。(太田)
翌<1180>年2月、高倉と清盛の娘権礼門院徳子の皇子、言仁(ときひと)親王が践祚した。
安徳天皇、時に3歳である。
天皇の外戚となった清盛は主要な官職や知行国主(一国の収益を得る権利を持ち、国守(くにのかみ)を推挙することができた有力者)を一門で固め、その栄華は頂点に達した。
平氏政権の成立である。・・・」(25)
(続く)