太田述正コラム#1232(2006.5.13)
<叙任権論争の今と昔(その3)>
(どうも、最近校正不十分のコラムを送ってしまうことが多く、反省しています。年ですかね?)
4 叙任権論争の今と昔・・終わりに代えて
まず私の見解を述べます。
現在の叙任権論争については、欧米の主要メディアの論調は宗教の自由の観点から中共側に厳しいものが多い(例えば、http://www.latimes.com/news/opinion/editorials/la-ed-china11may11,0,4124552,print.story前掲)のですが、ロサンゼルスタイムス掲載の論説(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-faison09may09,0,7354272,print.story?coll=la-news-comment-opinions前掲)が、「北京とバチカンは、一般に敵対者がそうであるように、主要な点で良く似ている。すなわち、どちらも反対意見に対して非寛容であり、どちらも融通の利かない正統性(orthodoxies)に従っており、どちらも統制に血眼になっている。つい、どっちもどっちだ、と言いたくなってしまう。」と両者を切り捨てていることは出色だと思います。
宗教の自由には、当然宗教教団の自決権が含まれるはずだ、という声が聞こえてきますが、ことカトリック教会に関しては、これは必ずしもあてはまらないのではないか、というのが私の見解です。
というのは、以前にも述べたことがありますが、法王(庁)を頂点とするカトリック教会は、バチカン市国という独立主権国家と表裏一体、というアナクロニズムを画に描いたような存在だからです。
つまり、中共から見れば、法王庁が中共内のカトリック教会に係る人事と宗教活動を取り仕切るということは、外国政府が中共内の民間団体の人事と活動を取り仕切るということであり、内政干渉である、ということになるわけです。
かかる形式論にかてて加えて、カトリック教会が、中国共産党のそれとは抵触する独自のイデオロギーと政策を持っていて、しかも、支那の歴史上宗教団体が内乱を起こしたり王朝を倒したりした事例に事欠かない、といった実質論も併せ考えれば、中共が叙任権論争で容易に法王に屈することができない事情はそれなりに理解できます。
誤解がないように付言しますが、中共は、近代国家を標榜したいのであれば、人権擁護の一環として、カトリックであれ、プロテスタントであれ、仏教であれ、更には法輪功であれ、公序良俗に反するものでない限りいかなる宗教宗派についても、その宗教の自由を保証し、教団内の自決権を尊重すべきことは当然であり、人事や活動に干渉することは止めなければなりません。
ただし、カトリック教会に関してだけは、法王がバチカン市国の主権を放棄するまでは、法王の叙任権の全面的否定は論外だとしても、司教等への任命等に係る発議権や教区運営に係る拒否権を中共が留保するのは咎めるべきではない、というのが私の意見なのです。(私は、カトリック教会が堕胎の否定・・一人っ子政策をまだ基本的に維持している中共の政策に抵触する・・といった世俗的政策を掲げることも止めるべきであるという考えですが、これは叙任権論争とは切り離すべきでしょう。)
最後に私の感想です。
私はかねてより、カトリック教会からカトリック教会主導のプロト欧州文明が生まれ、それが民主主義独裁(ナショナリズム・共産主義・ファシズム)の欧州文明へと衣替えをし、その欧州文明がアングロサクソン文明に敗れて福祉国家主義となったと指摘してきたところ、このうちの欧州文明の強い影響の下で中国共産党が生まれ、その中国共産党が支那を乗っ取り、共産主義からファシズムに乗り換えて現在に至っているわけです。
そうだとすると、古の叙任権論争がプロト欧州文明を確立する契機となった法王と皇帝との間の権力争いであるとすれば、現在の叙任権論争は、プロト欧州文明時代の化石のごとき法王と欧州文明を継受した中国共産党の主席との間の権力争いである、ということになりそうです。
現在のイスラム世界の体たらくや、この法王と主席間の叙任権論争を見るにつけ、フクシマの「歴史の終わり」はまだまだ遠い、とつくづく思います。
(完)