太田述正コラム#11612(2020.10.23)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その13)>(2021.1.15公開)
「一方、清盛は・・・1180<年>6月、摂津国福原への遷都を強行した。
そして、京都周辺の反平家勢力を叩くと、源家の嫡流頼朝に鉾先を向けた。
母親が頼朝の乳母の妹だった三善康信<(注37)>(みよしやすのぶ)から急報が届く。
挙兵の決意を固める時が来た。
(注37)1140~1221年。「元々は太政官の書記官役を世襲する下級貴族で、算道の家柄の出身。・・・
母が源頼朝の乳母の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていた。・・・<但し、>比企尼、寒河尼、山内尼など頼朝の乳母は複数おり、いずれの乳母の妹かは判明していない。・・・
1180年・・・5月の以仁王の挙兵の2ヶ月後、康信は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝えるなど、頼朝の挙兵に大きな役割を果たした。・・・
1184年・・・4月、康信は頼朝から鎌倉に呼ばれ、鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼されると、これを承諾した・・・。同年10月には貴族の家政事務をつかさどる役所の名を取った「公文所」の建物が新築され、大江広元がその長官となり、康信は初代問注所執事(長官)として裁判事務の責任者となった。
頼朝死後、2代将軍・源頼家の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加。承久3年(1221年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元の即時出兵論を支持した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E5%BA%B7%E4%BF%A1
8月17日、頼朝は平氏一族の山木兼隆<(注38)>に夜襲をかけ、血祭りにあげた。
(注38)?~1180年。「<坂東平氏(桓武平氏)国香流の>大掾<(だいじょう)>氏の庶流・・・。・・・検非違使少尉(判官)として<堂上平氏の>別当平時忠の下で活躍し<た>・・・が、・・・罪を得て(理由は不明)・・・1179年・・・1月に右衛門尉を解任され、伊豆国山木郷に流される。治承三年の政変の後、懇意があった伊豆知行国主・平時忠により伊豆目代に任ぜられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%A8%E5%85%BC%E9%9A%86
⇒山本兼隆を「平氏一族」で片づけるのはいささか乱暴では?(太田)
治承・寿永の内乱の勃発である。・・・
⇒治承・寿永の乱の始まりは、頼朝の「東国における挙兵」ではなく「以仁王の挙兵」とするのが絶対多数説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
であり、坂井が異説を唱えるのであれば、若干の説明を行う必要があったと思います。(太田)
1180<年>11月、清盛は不評の福原から京都に還都した。
しかし、直後の12月、子の重衡が東大寺大仏をはじめ南都の寺社を焼討する失態を演じ、状況は悪化した。
翌<1181>年閏2月4日、頼朝の首を墓前にかけよという苛烈な遺言を残し、清盛は熱病で死去した。
享年64。・・・」(33~36)
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[福原遷都・平安京還都]
表記の背景についての説を紹介しておく。
「源頼政の挙兵などによる政情不安や寺院勢力の圧迫を避けるために・・・<1180>年6月清盛は突如天皇,上皇を伴ってみずからの根拠地福原への遷都を強行した。遷都後,延暦寺の衆徒の蜂起,また平宗盛など一門の主張によって,同年 11月には新都未完成のまま再び京都に還都せざるをえなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E9%81%B7%E9%83%BD-124123
下掲の不詳の、清盛の大ファンと思しき筆者は、上記通説を補足し、拡張している。↓
「以仁王の謀反を鎮圧した直後の治承四年五月末、清盛は安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇の福原遷行を発表した。この時点ではこの遷行が“遷都”であるとは公表されておらず、そういう噂はあったものの、なぜ福原へ行くのかということはまだ誰も知らなかった。しかし、六月二日には福原に入り、同十一日には内裏となった頼盛の邸で遷都についての議定が開かれ、ようやく人々はこれが遷都であったことを知るのである。三井寺、興福寺が以仁王に荷担したことで、寺院勢力の反平家運動がいよいよ抜き差しならないものになってきていると感じた清盛だったが、これら寺院勢力を武力によって弾圧することは避けたかったのである。
この時代、寺院勢力の朝政への干渉が頻繁に行われ、朝廷への賢しらな要求は度々におよんでいた。何か不満があるごとに、強訴を強行し狼藉を繰り返し、その被害は罪のない都民にまでおよんだ。そして、無法な要求を突きつけられるたびに、朝廷はその対応に苦慮せざるを得なかったのである。今回、延暦寺は謀反に加わらなかったものの、平家と友好的だった上層部の力が弱まり、これもいつ平家に反旗を翻すか分からないという情勢であった。このような、有力な寺院勢力に挟まれた京都ではいざというときの防衛もままならない。遷都の理由のひとつはそこにあった。
<もう一つの理由>は、・・・貴族一般に染みついている古い慣習や考え方・・・束縛からの解放であった。・・・平安京は法皇をはじめとする貴族と寺社勢力が団結して、新しい独裁者である平氏を閉め出すための・・・砦であった。新しい政治を始めるには、・・・院政の基盤となる古代的貴族社会そのものを否定する必要があったのである。つまり、平安京を捨てることが前年のクーデターの総仕上げであり、それによって平家のめざす真の意味での武家政権の樹立が成るのである。
しかし、この福原遷都は半年で終わりを告げる。周囲の貴族たちばかりではなく、宗盛をはじめ一門の多くが、京都への帰還を希望していたのである。特に宗盛とは口論になるほどであった。一門のうち還都に反対したのは平大納言時忠一人だけだったという。またちょうどこの頃、干ばつと疫病の難が人々を襲った。七月下旬には九条兼実や摂政基通など多くの人が病気になり、特に高倉上皇の病気は重かった。さらに延暦寺の衆徒が、遷都を止めなければ山城・近江を占領するとまで言い出したのである。さすがの清盛も、還都を認めざるを得ない状況になっていた。こうして平家の威信は地に墜ち、武士の平家離れは一挙に進み、比叡山も源氏に与力するようになった。また、公卿の間でも後白河法皇の院政を復活させようという意見がでるなど、清盛のクーデターを真っ向から非難する姿勢も見えだした。
<このように、>福原遷都は伝統的な公家政治を否定し、新たな軍事独裁政権の樹立を目指すものだった<のだが、>・・・結局、「平家最大の悪行」といわれる福原遷都は失敗に終わった。」(Misturu Nakamaru。参考文献 山下宏明・梶原正昭校注『平家物語(二)』(岩波文庫)/ 五味文彦著『人物叢書・平清盛』(吉川弘文館)/ 上横手雅敬著『源平の盛衰』 (講談社学術文庫))
http://www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/jikenbo/fukuharasento.html
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⇒危機において、平時に長期的視点で企画し実施すべき遷都などという大事業に着手した清盛が、翌年の死とは直接関係ないにしても、(60歳で決行した、院政停止のクーデタ(成功)の時に既に認知症にかかっていた、と、私は見ているところ、その)認知症が一層亢進していた状況下で福原遷都(失敗)を独断専行的に行うことによって、たった一人で平家の滅亡を大幅に加速化してしまった、ということでしかないでしょうね。(太田)
(続く)