太田述正コラム#1233(2006.5.14)
<対外政策と宗教(その1)>
1 始めに
米クリントン政権時代の国務長官のオルブライト(Madeleine Albright)女史が、THE MIGHTY AND THE ALMIGHTY—Reflections on America, God, and World Affairs, HarperCollins を上梓しました。(抜粋がhttp://abcnews.go.com/GMA/print?id=1909959に載っている。)
彼女が何を言わんとしているのかをご紹介した上で、私のコメントを付したいと思います。
(以下、彼女の主張については、http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/11/AR2006051101323_pf.htmlhttp://www.panmacmillan.com/reviews/displayPage.asp?PageID=3715http://www.religionnewsblog.com/14553/The-Mighty-and-the-Almighty–Mixing-religion–politics-post-9-11http://www.pbs.org/newshour/bb/international/jan-june06/albright_5-10.htmlhttp://www.cfr.org/publication/10606/mighty_and_the_almighty_rush_transcript_federal_news_service_inc.html(いずれも5月14日アクセス)による。)
2 オルブライトの主張
 戦後米国の対外政策を支配してきたのは、モーゲンソー(Hans Morgenthau)、ケナン(George Kennan)、アチソン(Dean Acheson)らが打ち立てた世俗的リアリズムの考え方だ。
 私自身、複雑な対外政策案件に係る意志決定をする際には、問題を更に複雑にする宗教を持ち込まないようにせよ、と教わったものだ。
 だから、私が国連大使と国務長官を務めたクリントン政権においても、公的のみならず私的にも、バルカンの危機・イスラエル??パレスティナ紛争・アルカイダによる東アフリカの二つの米大使館の爆破、等は宗教とは関係のないできごとである、という主張がなされたものだ。
 しかし、個人や国家の意志決定に占める宗教の比重は、諸外国においても、米国においても次第に大きくなってきている。
 それはこういうことだ。
 リアリズムは、国家の行動に係る理論だ。
 国家は、その指導者が独裁者であれ民主主義者であれ、立派な国家であれ、ダメな国家であれ、その権威を維持するためには、国民に対し、基本的な安全とサービスを提供しなければならない以上、国益に則った行動をとるからだ。
 ところが、クリントン時代を例にとれば、当時の最大の外交課題は、非国家的アクターが引き起こしたものばかりだった。オサマビンラディンのテロリスト・ネットワークしかり、ソマリアといった破綻国家(failed state)のゲリラしかり、パレスティナの非国家団体の長たるヤセル・アラファトしかりだ。
 こうしたゲリラやテロリストは、その福祉を無視するわけにはいかない市民を抱えてはいないので、世界変革の夢・・その多くは宗教的なもの・・に向かって、実際的な現実と衝突することを厭わずに自由に行動する。
 また、相手が伝統的な国家の場合でも、その国家内の宗教的な民衆を結集したグループや運動が国家的アクターに大きな影響を及ぼす場合もある。
 だから、米国の対外政策に従事する人々は、宗教指導者や宗教専門家のアドバイスを得る必要がある。(例えば、エルサレムの帰属問題は、土地の問題ではなく、宗教の問題として取り扱われるべきだし、アルカイダもその「宗教」を理解すべきだ。)
 その上で、米国自身が、宗教(キリスト教やユダヤ教)が強い影響力を持っている国であることも顧慮し、そのことを良い意味で「活用」した(注1)対外政策を展開すれば、問題を更に複雑にするどころか、問題解決が促進されると考える(注2)。
 (注1)アブラハム系の宗教(Abrahamic religions)であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、正義・慈善・愛・平和、といった価値観を共有している。こういった共通点に着目すれば、宗教は抑圧と恐怖ではなく、自由と寛容をもたらす力になりうる。
 (注2)ただし、ブッシュ政権のように、神が自分を大統領にしたいと思っているとか神がわれわれ米国の側についているとか言ったりして、あたかも宗教原理主義の虜になっているかのごとき全能で傲慢な印象を与えては敵を増やすだけだ。クリントン大統領が引用したように、使徒パウロは「われわれは眼鏡を通してうすぼんやりとしか物事を見ていない」と言ったことを思い起こせば、われわれは宗教から直接政策を導き出してはならない。われわれは謙虚でなければならないのだ。
 (続く)