太田述正コラム#11628(2020.10.31)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その21)>(2021.1.23公開)

 「1213<年>5月に起きた和田合戦<(注53)>は、鎌倉が2日にわたって戦場となり、将軍御所も焼け落ちた鎌倉初期最大の武力抗争である。

 (注53)「和田義盛は鎌倉幕府草創の功臣で侍所別当として権勢を有していたが,初代将軍源頼朝没後,勢威を高めてきた北条氏と対抗するようになった。同年2月に発覚した泉親衡の・・・源頼家の遺児千寿を擁して大将軍となし,義時を除こうとする・・・陰謀の加担者として・・・義盛の子息義直・義重,甥の胤長が<逮捕されたので、>義盛は和田一族をあげて彼らの赦免を懇請したが,胤長だけは赦されず,一族の面前を縛縄のまま陸奥に流罪,鎌倉の彼の屋敷も,慣例に従っていったんは義盛に与えられたものの,間もなく没収され義時が拝領してしまった・・・ことから両者の関係が悪化した。義盛は同族三浦氏,姻族横山氏を語らい,相模その他に多数の味方を得て北条氏を打倒しようとした。しかし開戦に際して<従弟の>三浦・・・義村<・胤義兄弟>・・・が違約して北条氏につき,また北条氏が3代将軍源実朝を擁して多数の御家人を集めたため,勝負は2日間で決し,和田氏は滅亡し,北条氏が権勢を伸ばすこととなった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6-154125
 泉親衡(いずみちかひら。1178?~1265年?)は、「信濃国小県郡小泉荘(現長野県上田市)を本拠としたと言われる泉氏は、源満仲の五弟満快の曾孫・信濃守為公の後裔と伝えられ、親衡は満快の十代孫に当たる。・・・捕縛の使者と合戦に及び、その混乱に乗じて逐電し・・・小泉荘は北条泰時に没収され、泰時が荘内の室賀郷を善光寺に寄進した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E8%A6%AA%E8%A1%A1

 背景には北条氏の相模支配に対する相模の御家人の反発があった。
 反北条の中心は、梶原景時<(注54)>・畠山重忠<(注55)>・比企能員ら有力御家人が次々と滅亡する中、侍所別当として力を維持していた三浦氏の長老和田義盛であった。

 (注54)「1199年・・・10月25日から翌・・・1200年1月20日・・・にかけて鎌倉幕府内部で起こった政争。初代将軍源頼朝の死後に腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた・・・梶原景時の変<が起こった。>・・・
 合議制成立の半年後の秋、将軍御所の侍所で結城朝光が、ありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた・・・。翌々日、・・・阿波局が朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言し、あなたは殺される事になっている」と告げた。驚いた朝光は三浦義村に相談し、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業に糾弾状の作成を依頼した。
 10月28日、千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・三浦義村・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・比企能員・所左衛門尉(藤原)朝光・二階堂行光・葛西清重・八田知重・波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・渋谷高重・山内首藤経俊・宇都宮頼綱・榛谷重朝・安達盛長入道・佐々木盛綱入道・稲毛三郎重成入道・安達景盛・岡崎義実入道・土屋義清・東重胤・土肥維平・河野通信・曽我祐綱・二宮友平・長江明義・毛呂季綱・天野遠景入道・工藤行光・中原仲業以下御家人66名による景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成され、将軍側近官僚大江広元に提出された。景時を惜しむ広元は躊躇して連判状をしばらく留めていたが、和田義盛に強く迫られて将軍頼家に言上した。
 11月12日、将軍頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めたが、景時は何の抗弁もせず、一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向した。謹慎によって御家人たちの支持を得たので景時は12月9日に一端鎌倉へ戻ったが、頼家は景時を庇うことが出来ず、18日、景時は鎌倉追放を申し渡され、和田義盛、三浦義村が景時追放の奉行となって鎌倉の邸は取り壊された。29日、結城朝光の兄小山朝政が景時に代わって播磨国守護となり、同じく景時の所有であった美作国の守護は和田義盛に与えられた。
 翌・・・1200年・・・正月20日、景時は一族とともに京都へ上る道中で東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで偶然居合わせた吉川氏ら在地武士たち、相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受け、狐崎において合戦となる。子の三郎景茂(年34)・六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連が討たれ、景時と嫡子景季(年39)、次男景高(年36)は山へ引いて戦ったのち討ち死にし・・・た。頼朝の死から1年後のことであった。・・・
 『吾妻鏡』では、景時弾劾状に北条時政・義時の名は見られないが、景時の一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付けた女官の阿波局は時政の娘で、実朝の乳母であった。この事件では御家人達の影に隠れた形となっているが、景時追放はその後続く北条氏による有力御家人排除のはじめとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%99%AF%E6%99%82%E3%81%AE%E5%A4%89
 (注55)畠山重忠の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%87%8D%E5%BF%A0%E3%81%AE%E4%B9%B1
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 ただ、三浦氏は大武士団ならではの問題も抱えていた。
 惣領の地位をめぐって、義盛より20歳近く若い従弟の<三浦>義村・胤義(たねよし)兄弟が不満を抱いていたのである。
 とはいえ、義盛は北条氏にとって脅威であった。
 長く侍所別当の地位にあって御家人たちから支持を得ていただけでなく、実朝とも親密な関係を築いていたからである。
 幼くして父を亡くした実朝は、頼朝と同年生まれの義盛に親近感を抱いていた節がある。・・・」(76~77)

⇒先回りして書いておきますが、梶原景時・畠山重忠・比企能員・和田義盛、が、それぞれ誅殺された間、大江広元は、一貫して、御家人達の中の最上位官位を持つトップとして、北条氏を支え続けています。
 彼は、「頼朝の在世中、鎌倉家臣団は<、総>棟梁<たる頼朝>の最高正二位という高い官位に対し、実弟の範頼、舅の北条時政をふくめ最高でも従五位下止まりという極度に隔絶した身分関係にあったが、参入以前に既に従五位下であった広元のみは早くから正五位を一人許されており、名実とも一歩抜きん出たナンバーツーの地位が示されていた。頼朝死後も、最高実権者である北条義時を上回る正四位を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83
のであり、それに見合う働きを、頼朝将軍家ならぬ北条氏のために、私の見立てでは次第に幻滅の度合いを募らせつつも、果たし続けたわけです。(太田)

(続く)