太田述正コラム#11634(2020.11.3)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その24)>(2021.1.26公開)
「後鳥羽は政子・時房に破格の待遇をもって応えた。
政子は出家していたにもかかわらず、・・・11218<年>4月14日、従三位に叙された。
出家後の女性の叙位は「准后(じゅごう)」の場合のみであるから、極めて稀有な例であった。・・・
(注57)「「じゅさんごう(准三后)」の略。」
https://kotobank.jp/word/%E5%87%86%E5%90%8E-77668
<そして、>同年10月13日、政子を従二位に昇叙した。
異例のスピード、破格の待遇である。
また、政子の鎌倉下向後も、・・・時房には院の鞠会への出席を許した。・・・
むろん実朝にも後鳥羽は破格の待遇をした。・・・
すでに1月13日、実朝は権大納言すなわち亡父頼朝の極官(ごっかん)(生涯で到達した最高の官職)に達していたが、3月6日には頼朝の右近衛大将を超える左近衛大将に昇任して左馬寮御監(さまりょうごかん)を兼ね、・・・10月9日、内大臣に昇って大臣の壁を突破すると、2か月後の12月2日には右大臣に昇進、・・・後鳥羽は慶賀の儀式のため、檳榔(ヤシ科の高木)の葉で飾った檳榔毛の牛車<(注58)>(ぎっしゃ)、九錫<(注59)>(きゅうしゃく)の彫弓(ちょうきゅう)など豪華な調度や装束を下賜し、公卿・殿上人を参列させた。・・・
(注58)「白く晒 (さら) した檳榔の葉を細かく裂いて車の屋形をおおったもの。上皇・親王・大臣以下、四位以上の者、女官・高僧などが乗用した。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%AA%B3%E6%A6%94%E6%AF%9B%E3%81%AE%E8%BB%8A/
(注59) 「(「錫」は賜わる意) 昔、<支那>で、特に功労ある者を優遇するために天子が与えた九種の品物。すなわち、車馬・衣服・楽器・朱戸(しゅこ)・納陛(のうへい)・虎賁(こほん)・弓矢・鈇鉞(ふえつ)・秬鬯(きょちょう)。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%9D%E9%8C%AB-2028837
(注60)彫り刻まれた弓。
https://www.moedict.tw/%E5%BD%AB%E5%BC%93
実朝の異例の官位昇進は人々を驚かせるとともに、社会に定着した家格秩序を崩す、・・・として反発を呼んだ。・・・
慈円は、実朝が暗殺された後、愚かにも武士としての用心もしないで大臣・大将の名誉を汚したと『愚管抄』に批判を書きつけている。
さらに、「古活字本<(注61)>」は後鳥羽が実朝を「官打<(注62)>(かんうち)」にしたと記述する。
(注61)「近世に入ってから行われた活字版をいう。代表的な活字版には2種あり,朝鮮から入ってきたものと,イエズス会の宣教師がもたらしたものとである。文禄1(1592) 年の文禄の役に際して,遠征した日本軍が朝鮮から活字による印刷術を伝えた。それによって,後陽成天皇が同2年に勅版「古文孝経」を印刷した。一方,イエズス会の宣教師は,天正 18 (90) 年活字印刷技術を伝え,教義書の翻訳や日本の古典の印刷に使用された (→キリシタン版 ) 。古活字版は,江戸時代前期の慶長~慶安 (1596~1652) の頃まで印刷の主流であり,主として木活字が使われた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E6%B4%BB%E5%AD%97%E7%89%88-63564
(注62)「官職の等級が分不相応に高くなりすぎて負担が増し,かえって不幸な目にあうことをいう。《承久記》には,後鳥羽上皇が討幕を決意した確実な証拠として,源実朝が希望する以上に彼の官位を昇進させ,〈官打〉にしようとしたこと,ほかがあげられている。・・・《承久記》の説を承久の乱後の付会とする見方もあるが速断できない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%98%E6%89%93%E3%81%A1-1156705
官打とは、身に過ぎた高い官職に任じて災いが及ぶようにする呪詛のことである。
しかし、後鳥羽には実朝を呪詛する理由も必要もない。・・・」(97~98)
⇒頼朝は、正二位であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
二代将軍の頼家も、1202年1月に正三位、7月に従二位・征夷大将軍宣下、翌1203年1月に正二位へ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%B6
と、急速に官位昇進をしており、実朝のどこが「異例の官位昇進」なのか、私にはさっぱり分かりません。
他方、誰でも知っている、藤原道長やその子の頼通、は従一位
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E9%80%9A
であり、既に、権力を院に「返納」してから久しい、当時の廷臣筆頭の九条兼実ですら、従一位
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
だったのですから、院から日本の権力の移譲を受けたにもかかわらず、征夷大将軍が正二位でいいのか、というくらいの話です。
但し、政子の場合は、やや異例です。
例えば、藤原道長の正室の源倫子(りんこ。964~1053年)は、長女が天皇(一条)の中宮になったので従二位、で、孫たる親王(後の後一条天皇)誕生により従一位になっている
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%90%E5%80%AB%E5%AD%90-1113229
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%80%AB%E5%AD%90
けれど、政子にはそのような「功績」はなかったからです。
もっとも、政子はその子三幡(さんまん。1186~1199年)の頼朝による入内工作の成功で、「女御の称を与えられ、正式の入内を待つばかりとな<っていたにもかかわらず、>・・・それを待たずに・・・<三幡は>死去した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B9%A1
ところ、を後鳥羽天皇の中宮含みの「婚約」が成立していたと見て、頼朝の死から5カ月半後に追い打ちをかけるように三幡の死(上掲)に直面させられた政子を思いやり、特別に、政子に従二位を与えた、と、見れば、それから19年弱も経過しているので、随分待たせたものだ、と言いたいところではあるけれど、それほど破天荒なことではない、とも言えそうです。
いずれにせよ、「官打」云々は、ナンセンスというべきでしょう。(太田)
(続く)