太田述正コラム#11636(2020.11.4)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その25)>(2021.1.27公開)

 「<1219年の実朝の公暁による暗殺事件についてだが、公暁が>実朝の首を打ち落とした<時、>別の3、4人が、前駆(ぜんく)(行列の先導役)として松明をかざしていた実朝の側近源仲章<(注63)>を義時と思って切り殺した<ところ、>実朝から「中門ニトドマレ(石段よりずっと手前の中門のところにとどまっていよ)」と命じられ<てい>た義時は、・・・難を逃れた。・・・ 

 (注63)なかあきら(?~1219年)。「宇多源氏・・・院近臣の家に生まれて後鳥羽上皇に仕えるが、早くから鎌倉幕府にも通じて在京のまま御家人としての資格を得る。京都では、・・・1200年・・・頃から在京御家人としての活躍が記録され、盗賊の追捕や幕府との連絡係を務めた。・・・1203年・・・には阿野全成の三男・頼全を処刑している・・・。その後、鎌倉に下って・・・1206年・・・頃より、3代将軍となった源実朝の侍読(教育係)となる。・・・
 その一方で、廷臣としての地位も保持して、時折上洛して後鳥羽上皇に幕府内部の情報を伝えるなど、今日で言うところの二重スパイの役目を果たした。・・・
 1216年・・・には政所別当に任じられた。別当は一人ではなく、2人~5人制で職務を担当した。当時の別当は、大江広元と仲章以外には、源頼茂、大内惟信等がいる。一方、官位も相模守から大学頭を経て、・・・1218年・・・には幕府の推薦という名目で従四位下・文章博士と、順徳天皇の侍読を兼務して昇殿を許されるに至った。・・・
 五味文彦<は、>・・・実朝は北条氏の傀儡ではなく将軍親裁が機能しており、後鳥羽上皇との連携を目指した実朝に対し、北条義時・三浦義村ら鎌倉御家人が手を結んで、実朝および後鳥羽と実朝を結びつける後鳥羽の近臣・仲章の排除に乗り出したとの説<を唱えており<、>・・・仲章・・・自身が初めから襲撃の目標に含まれていたのではと<している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E7%AB%A0

 この・・・命拾いした義時こそ実朝暗殺の黒幕だったとする説が唱えられるようになった。
 ただ、後継将軍構想を実朝と一緒に進めてきた義時が、ここにきてすべてをご破算にする行動を取るはずもない。
 北条義時黒幕説は成り立ち得ない。

⇒五味の主張に私は与せず、あらゆる意味で実朝は蚊帳の外だったと見ていますが、そんな実朝は無視するとして、既に、互いには気付かないうちに、後鳥羽上皇側と政子/北条義時側とは一触即発状態に入ってしまっていた、と、私は見るに至っています。
 すなわち、(「北条義時黒幕説な成り立ち得ない」どころか、)政子/義時は、実朝暗殺計画を練っていたところへ、実朝が言い出したところの、親王を第四代将軍に迎えるという話を、実朝暗殺後に朝廷と調整しなければならないことを、前倒しでできるとほくそ笑み、政子/義時は大真面目に推進した、と、私は想像しており、他方、後鳥羽の方は、既に北条氏勢力を打倒、除去した上で、後白河から申し受けていたところの、意中の、新武家総棟梁を4代目将軍に据える計画、を練っていたまさにその時に、幕府側からこの話が舞い込んできたので、心中を気取られないよう、その話に乗ったふりをした、と。
 では、後鳥羽の意中の人物とは一体誰だったのでしょうか?
 先回りして私の想像を申し上げておきますが、第一候補は源頼政の孫の頼茂であり、第二候補は多田行綱の子の基綱、です。
 なお、私は、1204年に源頼家が暗殺された頃までには、後鳥羽は、源仲章や源頼茂らから得た情報に基づき、鎌倉幕府の実質的最高権力者は北条政子であるとの認識に到達するとともに、北条氏打倒を決意した、と見るに至っています。
 その理由としては、光仁天皇から始まる復活天智朝の歴代天皇/上皇は、天武朝下の諸女性天皇が、天智朝出身者達に関しては天智朝が追求した聖徳太子コンセンサスを放擲した天武朝の人間になり切ってしまい、かつまた、天武朝の最後の天皇にして女性であった孝謙/称徳天皇が天皇家の断絶をもたらすところだった(コラム#省略)、ことから、再び女性が日本の最高権力者になったことに強い嫌悪感を抱かざるを得なかった、ということが大きいと考えるに至っています。
 それに加えて、北条政子を筆頭とする北条姉弟達が、清和源氏の棟梁家ないし棟梁家候補家の有力武士達を次々と殺害して北条氏による日本の最高権力掌握状態の恒久化を図っている、とも後鳥羽は見、これが、ついに、後鳥羽をして、北条氏打倒を決意させた、と。(太田)
 
 また、公暁の乳母夫三浦義村を黒幕とみる作家永井路子氏の説もある。
 公暁の門弟駒若丸は義村の子、義村自身はこの日に限って姿をみせていない。
 永井氏は、実朝・義時の殺害を公暁に任せ、義村は北条氏の小町邸を襲う「大勝負」に出ようとしたのではないかとする。・・・
 しかし、・・・義村の姿がこの日みえないのは、前年の直衣始の儀で長江明義(ながえあきよし)とトラブルを起こし、右大臣拝賀のメンバーから外されたからだと考える。
 和田合戦のような北条氏を潰す絶好の機会においてすら義時に味方した義村である。
 右大臣拝賀の儀で「大勝負」に出るとは考えにくい。・・・
 雪の日の惨劇は、追いつめられた公暁のほぼ単独の犯行と考えるしかない。・・・」(100~102)

⇒以上の、北条義時黒幕説、三浦義村北条氏打倒陰謀説、公暁単独犯行説、のほか、「注63」に出てくる五味文彦の鎌倉御家人共謀説、更には、後鳥羽上皇黒幕説、があります。
 一番最後の説は、「谷昇<(注64)>・・・が提唱し、実朝暗殺と前後する1月22日から28日にかけて上皇が国家安泰とともに政敵の調伏を祈願する五壇法が実施され、実朝暗殺の報が届いた直後の2月6日に五壇法が再度行われた他、同日に他に4つ、10日も2つの修法が行われていることを指摘して、後鳥羽上皇が京都で育った公暁を利用した実朝暗殺に加担し、自らは京都にて暗殺事件を機に幕府が崩壊することもしくは宮将軍の擁立による幕府掌握を祈願していたと主張している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81
ものです。

 (注64)「滋賀大卒業後、県立高で化学を教えてきた。堅田高、東大津高の校長を務めた後、かねて興味のあった日本史を学ぶために立命館大文学部に入学。・・・<9年後に同大>博士(文学)」
https://unipro-note.net/archives/51299543.html

 それに対し、私の新説は、北条氏黒幕説、とでも名付けられるべきでしょうか。
 谷氏の(これまた、そのご経歴を含め、お見事な)指摘は、私見では、実朝暗殺事件に直接つながるものではないけれど、後鳥羽上皇側と政子/北条義時側とが既に一触即発状態に入ってしまっていた、との私の主張を補強するものです。(太田)

(続く)