太田述正コラム#11640(2020.11.6)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その27)>(2021.1.29公開)

⇒坂井は、このくだりといい、(前出の谷昇説が念頭にあるのでしょうが、)「後鳥羽は自らが支援する「右大将」実朝の安寧を祈禱させていたのであ<る>」(106)と書いていることといい、申し訳ないが、何たる甘ちゃんか、と、言いたくなります。
 後鳥羽は、親王を将軍の座に据えるなどという、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を蹂躙するようなことなど、最初から毛頭実行する気などなかったはずであることは、太田日本史修正史観に馴染んでこられた方々には自明でしょうが、そんな史観など知らなくても、並みの刑事程度の嗅覚を持ち合わせている人ならば、少なくとも、実朝の暗殺後の政子の使者の用向きを聞かされた時点以降は、後鳥羽は「既に北条氏打倒を考えていた」(上掲)、と推量してしかるべきでしょう。
 ところで、後鳥羽の(愚管抄が伝える)この時の言葉の意味ですが、将軍に据えた自分の子たる親王やその子孫を、新たな天皇、すなわち権威の担い手、として(権力を掌握した)北条氏が擁立するような事態になれば、当然それに反発する勢力も京都の天皇家を守らんとして立ち上がることが予想され、その結果として日本が二分されてしまう恐れがある、という意味でしょう。
 それは、ある意味、南北朝時代を予見したような発言であったわけです。
 もとより、それはタテマエ上の言明に過ぎず、後鳥羽のホンネは、これから北条氏と一戦を交えようとしている時に、人質として使われるであろう親王などを鎌倉に東下させるわけにはいかない、ということであったに違いありません。
 それにしても、一体、坂井等の日本史学者達は、この後鳥羽の言を、いかなる意味のものと受け止めているのでしょうね。
 とりわけ、坂井に問いただしてみたいところです。(太田)

 「<後鳥羽は、>1219<年>3月・・・院近臣の上北面(じょうほくめん)(北面の武士のうち、四位または五位の者)で、内蔵頭<(注68)>(くらのかみ)に取り立てた藤原忠綱<(注69)>(ただつな)を弔問使の名目で鎌倉に送り込んだ。

 (注68)「内蔵寮(くらりょう)の長官。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E8%94%B5%E9%A0%AD-485643
 「神武天皇のとき宮内に蔵を建て,神物・官物(みやけのもの)をあわせ納めて斎蔵(いみくら)と称したが,履中天皇のとき別に内蔵(うちつくら)を建てて官物を分納し,さらに雄略朝に諸国の貢献物を納める大蔵を分立したという伝承を載せ,三蔵の分立として名高い。養老令や延喜式の規定によれば,内蔵寮は大蔵省から割き送られた金銀・宝器・錦綾などを保管出納し,天皇・中宮の御服・靴履その他別勅の用物,および諸社祭・陵墓の幣物,祭使の装束,御斎会以下三会の布施,御在所殿舎の灯油などを調進するのを職掌とした。そのほか内侍所の供神物や装束を調達し,供御および公卿の饗饌を弁備した・・・
 令制では中務省に属し・・・平安時代中期から頭は四位の殿上人が任じられるようになり,南北朝期以降は山科家の世襲。」
https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E8%94%B5%E5%AF%AE-56613#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
 (注69)「後鳥羽院の北面としてつかえ,内蔵頭(くらのかみ),左馬頭などを歴任。細工所別当もつとめ,院の信任をえていたが承久元年(1219)・・・に上皇によって一方的に解官され,すべての権益を失った。」
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%B6%B1-1106167
 ちなみに、「日野<家に嫁いだ>・・・藤原忠綱・・・の娘は今上天皇の直系祖先」だ。
https://rekishi.directory/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%B6%B1%E3%81%AE%E5%A8%98%EF%BC%88%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AE%B6%E5%85%89%E3%81%AE%E5%A6%BB%EF%BC%89

 ・・・忠綱は「禅定二品(ぜんじょうにほん)」政子の邸宅で後鳥羽の弔意を伝え、その後「右京兆<(注70)>(うけいちょう)」義時の邸宅に移り、「摂津国長江・倉橋」<(注71)>二つの荘園の地頭改補<(注72)>を要求する「院宣」を伝えたという。

 (注70)「右京職(うきょうしき)、右京大夫の唐名。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%85%86-2010066
 (注71)在「大阪府豊中市」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E8%8F%8A
 (注72)廃止。(上掲)

 長江荘・倉橋(椋橋)荘は、後鳥羽が「寵愛双(ならび)ナキ」「舞女(まいおんな)」の「亀菊<(注73)>(かめぎく)(伊賀局(いがのつぼね))」に与えた<ものだった。>・・・

 (注73)「白拍子<で>・・・江口の遊女であったと見られ・・・後鳥羽上皇の愛妾<となる。>・・・父は刑部丞。・・・亀菊は乱後の上皇の隠岐島配流に同行したという。」(上掲)

 注目すべきは、両荘とも川を下れば大阪湾、瀬戸内海へ、川をさかのぼれば水無瀬・鳥羽、都へと至る開運・水運の要衝に位置していた点である。
 こうした交通の要衝に置かれた地頭職(しき)を手放すよう、後鳥羽は圧力をかけてきたのである。
 これはまた、実朝亡き後の幕府が圧力に屈して後鳥羽の意思を受け入れるか否か、後鳥羽が幕府をコントロール下に置くことができるか否かをみきわめる試金石でもあった。
 選択は幕府にゆだねられた。」(110~111)

(続く)