太田述正コラム#11642(2020.11.7)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その28)>(2021.1.30公開)
⇒坂井が喉まで出かかっているけれど飲み込んだ、と、好意的に解釈してあげたいのですが、後鳥羽が(現在の豊中市在の)長江荘・倉橋荘を完全にコントロール下に置くことができれば、その北西の摂津源氏(広義)の嫡流たる多田源氏の旧根拠地である(現在の川西市在の)多田荘、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%8D%98
また、淀川を挟んでその南南東の摂津源氏(広義)の諸流たる摂津源氏(狭義)の故源頼政が郎党としていた嵯峨源氏の渡辺氏の本拠地である(現在の大阪市中央区在の)渡辺津、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E6%BA%90%E6%B0%8F
とがほぼ一本に繋がり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA_(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82)#/map/0
対北条氏/鎌倉幕府への強固な軍事拠点たりうることから、後鳥羽は、ダメ元で、上出の要求を北条氏につきつけた、と、解釈するのが自然でしょう。
後鳥羽は、摂津源氏(狭義)または多田源氏の中から鎌倉幕府の後継将軍を指名しようとしていた、という私の前出の説を想起してください。
となれば、亀菊に長江荘・倉橋荘を与えたのは、こういう要求を北条氏に行う時が来ることを予期し、それがいかにも軍事とは全く無関係の情痴に基づく要求であるかのような印象を与えることを狙ったものだった、ということになりそうですね。(太田)
「3月11日、帰洛する藤原忠綱に、追って回答する旨を伝えた政子・義時・時房・泰時・広元ら幕府首脳部は、翌日から政子の邸宅で審議を重ねた。・・・
⇒頼朝が亡くなった時点から彼女の死まで(1199~1225年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E5%AD%90
の四半世紀の間、日本の最高権力者は北条政子であった、と言っていいでしょう。
女性が日本の最高権力者になったのは、孝謙/称徳天皇(在位749~770年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87
以来のことであると同時に、絶後のことでした。
しかし、どちらの「治世」も芳しいものではありませんでした。
孝謙/称徳天皇は、聖徳太子コンセンサスの担い手たる天智朝の復活を阻止し続けただけでなく、すんでのところで天皇家を断絶させるところでしたし、北条政子は、(意識せずしてですが、)聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を換骨奪胎してしまったからです。
そして、現実に日本史に対して及ぼした悪い影響は、北条政子が孝謙/称徳天皇をはるかに上回っている、と言えそうです。(太田)
そして、たどり着いたたった一つの選択とはこうであった。
時房が政子の使者として千騎の軍勢を率いて上洛し、地頭改補を拒否した上、親王の早期下向を後鳥羽に要請するという強硬策であった。・・・
その時房が3月15日、千騎の軍勢を率いて鎌倉を発ち、京都に乗り込んだ。・・・
<しかし、>後鳥羽<は>親王の下向は認めない、という態度を崩すことはなかった。
最初の駆引きは痛み分けに終わった感がある。・・・
『愚管抄』によれば、後鳥羽は親王の下向は国を二分することになるから駄目だが、「関白摂政ノ子ナリトモ、申サムニシタガフベシ(関白・摂政の子であっても申請通りにしよう)」と語ったという。
⇒より的確な「訳文」としては、「関白・摂政の子などであれば申請通りにしよう」ではないでしょうか。(太田)
これを知った三浦義村<(注74)>は、摂関家九条道家の十歳の長男教義<(注75)>(のりざね)を迎えるか、「頼朝ガイモウトノムマゴウミ申タリ(中略)ソレヲクダシテヤシナイタテ候テ、将軍ニテキミノ御マモリニテ候べし(頼朝の妹の孫が産んだ子[教実の同母弟]を下してもらって養育し、将軍に立てて君[後鳥羽]のお守りにいたしましょう)」と提案した。」(111~112)
(注74)1160~1170年?。「桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。・・・公暁討伐の功により、同年駿河守に任官した。・・・承久の乱では、後鳥羽上皇の近臣だった弟の三浦胤義から決起をうながす使者を送られるが、義村は直ちにこれを義時に知らせた。義村は幕府軍の大将の一人として東海道をのぼり、京方を破って上洛。胤義は敗死した。・・・1224年・・・、北条義時が病死すると、後家の伊賀の方が自分の実子である北条政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとした伊賀氏の変が起こる。政村の烏帽子親であった義村はこの陰謀に関わるが、尼将軍・北条政子が単身で義村宅に説得に赴いた事により翻意し、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾した。だが伊賀氏謀反の風聞については執権となった北条泰時自身が否定しており、・・・伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後家・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件とする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%BE%A9%E6%9D%91
(注75)1211~1235年。「摂政関白太政大臣・九条道家の長男。官位は従一位摂政関白左大臣。・・・九条家はこの教実の代に分裂し、三弟の良実が二条家、四弟の実経が一条家のそれぞれ祖となったため、教実以後の九条本家の系統を特に後九条家と呼ぶこともある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E6%95%99%E5%AE%9F
(続く)