太田述正コラム#11644(2020.11.8)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その29)>(2021.1.31公開)

 「交渉の結果「二歳ナル若公(わかぎみ)、祖父公経ノ大納言がモトニヤシナヒケル(祖父の大納言西園寺公経<(注76)>のもとで養育されている道家の二歳の若君)」を下向させることに落ち着いた。

 (注76)1171~1244年。「官位は従一位・太政大臣<で、>西園寺家の実質的な祖<。>・・・源頼朝の姉妹・坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから、鎌倉幕府とは親しく、・・・1219年・・・に3代将軍・実朝が暗殺された後は、外孫にあたる藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。同年右大将、右馬寮御監。・・・1221年・・・、承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されるが、事前に乱の情報を幕府に知らせ幕府の勝利に貢献した。・・・
 処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く 、その死に臨んで平経高も「世の奸臣」と日記に記している。
 なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B5%8C

 後鳥羽と幕府の間で妥協が成立したのである。
 「寅月ノ寅ノ歳寅時ムマレ」の「三寅」、のちの摂家将軍藤原頼経<(注77)>である。・・・」(113)

 (注77)1218~1256年。「両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にある。・・・<1219年に鎌倉に下向。>・・・1226年・・・、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。・・・1230年・・・12月9日、2代将軍・源頼家の娘で16歳年上の竹御所を妻に迎える。・・・将軍としての実権はなかった。しかし、年齢を重ね官位を高めていくにつれ、義時の次男・朝時を筆頭とした反得宗・反執権政治勢力が頼経に接近し、幕府内での権力基盤を徐々に強めていく。また、[九条兼実の孫である]父の<九条>道家と外祖父の西園寺公経が関東申次として朝廷・幕府の双方に権力を振るい始めた事も深刻な問題と化してきた。特に北条氏との関係に配慮してきた公経が死去し、北条氏に反感を抱く道家が関東申次となると道家が幕政に介入を試みるようになってきた。そのため、頼経と執権・北条経時との関係が悪化し、・・・1244年・・・経時により将軍職を・・・藤原親能の娘<との間にできた>・・・嫡男の頼嗣に譲らされた。・・・その後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けるが、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され、執権時頼により・・・1246年・・・に京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。また、この事件により父道家も関東申次を罷免され籠居させられた(宮騒動)。
 その後、・・・1247年・・・三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るが失敗する(宝治合戦)。また、・・・1251年・・・足利泰氏が自由出家を理由として所領を没収された事件も、道家・頼経父子が関与していたとされる。・・・1252年・・・、頼嗣が将軍職を解任され、京都へ送還された。 まもなく父・道家は失意の内に没した。
 4年後の<1256>年8月11日・・・、赤痢のため39歳で京都で薨去。翌月には頼嗣も死去している。この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患したものと思われるが、奥富敬之は九条家3代の短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AE%B6 ([]内)
 奥富敬之(たかゆき。1936~2008年)。早大教卒、同大院博士課程修了(国史)、日本医科大専任講師、助教授、教授、名誉教授。「日本中世の武士を専門に研究、清和源氏、北条氏、鎌倉幕府、源平争乱、姓氏などについての一般向け書物を多数執筆し、大河ドラマ『北条時宗』、『義経』などで時代考証、監修を行った。学界の定説と異なる解釈をすることもある。・・・苗字や名前の歴史学についての専門家でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%AF%8C%E6%95%AC%E4%B9%8B

⇒奥富については、その苗字についての説に疑義を呈したことがあり(コラム#11523)、「注77」内で引用されている奥富の説についても、慎重な評価が必要ですが、直感的には正しいように思います。
 清和源氏は、武士の総棟梁家を生み出すべく臣籍降下の時に天皇家/藤原宗家から言い渡され、それ以来、最も弥生性を発揮した子を次の嫡流とすることを繰り返した、と、私は想像しています。
 その結果、その嫡流を、武力を伴う紛争を、同族内外で最も引き起こした者が担っていくことになり、頼朝は、その「精華」であるところの、猜疑心と冷血さの塊のような人物だったのであり、その傍らにあって最もその感化を受けたのが、(結果として北条家で最も年長者となった)政子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%97%E6%99%82
を始めとする北条姉弟達であり、頼朝同様のやり口で、今度は頼朝の血統を根絶やしにしつつ、北条宗家以外の有力武家を全て滅ぼすか隷属させ、最終的には朝廷までも隷属させるに至った、というのが私の見方なのです。
 なお、ルーツは同じ藤原北家ながら、九条家、西園寺家に共通に見られるところの、権力者へのすり寄り姿勢や無定見さ、は、その末代の子孫まで受け継がれたように私には見え、近衛家とは対照的だな、と、思います。

(続く)