太田述正コラム#11646(2020.11.9)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その30)>(2021.2.1公開)
例えば、鎌倉/南北朝時代、西園寺家の公宗は、「関東申次の役目を預かっていた<ところ、>鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された(ただし、[後醍醐天皇の皇后(中宮)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E7%A6%A7%E5%AD%90 ]
大叔母禧子との関係から間もなく権大納言に復帰している)。建武元年(1334年)に公宗は地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、北条高時の弟である泰家を匿っていた。2人は後醍醐天皇を西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させることで新政を覆そうと謀略した・・・が、異母弟の公重の密告で計画が発覚し、日野氏光(資名の子で、公宗の義兄弟にあたる)らと共に、武者所の楠木正成と高師直によって逮捕され、出雲国へ配流される途中に名和長年に処刑された。・・・後に信濃国で北条時行が蜂起する中先代の乱が起こる。建武の新政が崩壊して後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立すると、公重は南朝に仕えたため、公宗の遺児実俊が室町幕府の「武家執奏」に任じられて、以後その子孫が西園寺家を相続することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%AE%97
という有様でしたし、幕末、九条家の尚忠は、「1858年・・・、幕府が日米修好通商条約の勅許を求めてきた時、幕府との協調路線を推進して条約許可を求めた。また、将軍継嗣問題では徳川慶福の擁立を目指す南紀派についた。しかし同年、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な抗議活動により条約勅許はならなかった(廷臣八十八卿列参事件)。更に尚忠が勅許を認めようとしていたことを知った孝明天皇は立腹し、関白の内覧職権を一時停止した・・・。その後、幕府の援助により復職を許されたが、その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の尊皇攘夷過激派から糾弾されて、・・・1862年・・・6月には関白・内覧をともに辞し、出家・謹慎を命じられて九条村に閉居した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0
という体たらくです。(太田)
「源三位(げんざんみ)頼政の孫である右馬権頭源頼茂<(注78)>(よりもち)は、実朝の横死後、大内の守護を代々務めてきた摂津源氏の名門として、また実朝の将軍親裁強化策で政所別当に就任していたことからも、「我将軍ニナラン」と望んでいた。
(注78)1179?~1219年。「上皇が突如頼茂を攻め滅ぼした明確な理由はわかっていないが、鎌倉と通じる頼茂が京方の倒幕計画を察知した為であろうとする説もある。・・・
子の頼氏は捕縛され[処刑され]た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E8%8C%82
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%B0%8F ([]内)
ところが、朝幕で三寅を後継将軍とする妥協が成立したことから、頼茂は「大内ニ候シヲ、謀反ノ心ヲコシ(大内裏に祇候して仕えていたが、謀反の心を起こし)」た。
これを「住京ノ武士ドモ申テ(在京武士たちが後鳥羽に訴え)」、頼茂が召喚に応じなかったため追討の院宣が下された。・・・
実朝の後継に頼茂を考えていた後鳥羽が、口封じのために頼茂を討ったとする見解もあるが、そうした確証もない。
事件の本質は、目崎徳衛<(注79)>氏が指摘するように、創設以来何度も繰り返されてきた幕府内の権力闘争、とくに将軍の地位に絡んだ内紛であったと考える。・・・
(注79)1921~2000年。東大文(国史)卒。「長岡工業高等専門学校助教授、文部省教科書調査官、聖心女子大学教授、のち同名誉教授、1980年に『西行の思想史的研究』で東京大学文学博士、第一回角川源義賞。1996年に『南城三余集私抄』で第三回(95年度)やまなし文学賞<研究評論部門>を受賞。また俳句同人誌「花守」を半世紀近く主宰し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E5%B4%8E%E5%BE%B3%E8%A1%9B
後鳥羽としても三寅を後継将軍と認めた以上、頼茂がその決定を覆そうとすれば追討の院宣を出さざるを得ない。
その結果、・・・あろうことか<頼茂の放火によって>大内裏を焼失させるという大失態<が>演じ<られ>たのである。」(116、118~119)
⇒そのほか、「鎌倉と通じる頼茂が京方の倒幕計画を察知した為であろうとする説」(「注78」)や、「おそらくは上皇の幕府に対する示威あるいは挑発ではなかろうか。」とする美川圭(前出)説
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E8%8C%82-1113210
更には、「頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったため」とする説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
もあるわけであり、坂井には、自分の幕府内権力闘争説の根拠の一端なりとも示すべきでした。
私は、もちろん、「実朝の後継に頼茂を考えていた後鳥羽が、口封じのために頼茂を討ったとする」説乗りであるところ、(私以外に)誰がこの説を唱えているのか、知りたいところです。
で、私の視点でこの説を敷衍すれば、後鳥羽は、頼茂に対し、お前の家こそ清和源氏の本来の嫡流であり、お前を次の将軍に任ずるので北条氏を討てと命じたのに対し、頼茂は、鎌倉幕府の内情に通じていたことから、北条氏とその他の幕府御家人達とを離反させることは基本的にできず、幕府側はほぼ一丸となって戦うであろうことから、勝ち目がない、だから、そんな計画は断念すべきだ、と答えたところ、このような頼茂の対応もあろうか、と、既に、内々準備させていた追討部隊を、間髪を入れずに、頼茂・頼氏親子が一緒にいる時に、そこへ追討部隊を派遣した、と、想像している次第です。
仮にそうだとすると、大内裏に火を放ったのが、頼茂である、ということになっているのも疑うべきであり、戦闘の際の失火を、追討部隊が頼茂側の放火であると言いふらしたのではないでしょうか。
頼茂が玉砕したかったのか逃亡したかったのかは分かりませんが、どちらだったとしても、公的な場所の最たるものである大内裏に放火して、彼にとって得になることは何一つありませんからね。(太田)
(続く)