太田述正コラム#11648(2020.11.10)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その31)>(2021.2.2公開)
「ところで、在京武士に関しては長村祥知<(注80)>氏が詳細に論じている。
(注80)2083年~。同志社大文卒、京大博士(人間・環境学)、京都府京都文化博物館学芸員。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E9%95%B7%E6%9D%91%E7%A5%A5%E7%9F%A5_000000000641040/biography/
「専門は日本中世史。2011年、第12回日本歴史学会賞を受賞した。」
https://www.maimai-kyoto.jp/guides/nagamura/
氏によれば、後鳥羽は「在京御家人<(注81)>に武力基盤を分与して在京奉公を推奨する鎌倉幕府を、必須の要素として」組み込み、「京武者<(注82)>と在京御家人の双方を含む在京武士」を「公権力によって動員しえた」という。
(注81)「在京御家人(ざいきょうごけにん)とは、鎌倉幕府傘下の京都及びその周辺部に常駐する御家人のこと。在京人とも呼ばれている。ただし、短期間での交替勤務である京都大番役は除外される場合が多い。
初期の在京御家人は西国に所領を持つ御家人が主であったが、東国から派遣された御家人も存在していた。彼らは原則的には鎌倉幕府の指揮下で行動したが、当時の幕府の持つ検断権は朝廷の承認に基づくものであったから、幕府より上位に位置する朝廷からの命令を拒否できず、その命令に基づいて警固などの活動も行った。後鳥羽院はその事情を利用して在京御家人を検非違使や衛府の官人に任命して独自に所領を与えたり、北面武士・西面武士に加えることが多かった。それは、鎌倉幕府において京都の代表を務める京都守護にも言える事で一時期を除いて親幕派公家から選ばれている。在京御家人は鎌倉(幕府)よりも目の前にある朝廷の影響を強く受けるようになり、承久の乱ではその多くが後鳥羽院側について没落した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E4%BA%AC%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA
「検断<とは、>・・・非違を検察し,断罪すること。・・・鎌倉時代中期以降に現れる,幕府訴訟制度の一系統で,・・・刑事犯人の検挙,裁判およびその執行は検断沙汰といった。鎌倉幕府は,鎌倉の検断は侍所,京都では六波羅検断方,地方では各国の守護,地頭の任務とした。謀反,夜討,強盗,窃盗,山賊,殺害,放火,打擲(ちょうちゃく)などの犯罪があった場合,検断に処せられる規定であった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E6%96%AD-60855
(注82)「高橋昌明氏の『清盛以前-伊勢平氏の興隆』にはこうあります。
「・・・九世紀以降、中級官人や貴族が都に本宅をおいたまま、地方の別荘である荘家(宅)に下って居住し、私営田や私出挙を中心とする荘園経営にあたる動きが生じていた。この経営から生まれた営田の穫稲や私出挙の利稲、荘田の地子や牧場で産する牛馬、土産の物などは、一部荘家(彼の私宅)に留保蓄積され、残部は使者や荘預の管理のもとに都の本宅に搬入される。
彼らにとって京都は、地方の荘家経営を維持実現するための人的・物的手段獲得の場であり、本宅に運上された種々の物資を売却する市場でもあった。中級官人・貴族たちは、地方の荘家経営の成功を背景として、中央政界・官界にその地歩を築かんとしたのである。」・・・
そういう意味で在京の軍事貴族・京武者は全て「領地」をもっています。・・・
<伊勢平氏も>土着した訳ではありません。基本的には京武者です。しかし互いに伊勢に領地を持ち、対抗勢力(たとえ同族であっても)と抗争を繰り返し、相手を駆逐してその地盤を固めようとしています。
ここまで見てくると、平安時代の武士=「兵(つわもの)の家」にも、京武者、軍事貴族(受領層)、国衙の在庁官人と種類が有ること、しかしその境目は極めて曖昧であることが判ります。
その境目は京での栄達が可能であったか、実際にそれがなしえたのかではないでしょうか。・・・
<そして、>京に勤務<できた者はできた者で、その勤務を>しながら子達を荘家周辺に配置して勢力を伸ばそうとしていきます。」
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_37_41.html
もともと在京御家人は幕府と朝廷に両属する性格が強く、院宣によっても軍事行動を展開した。
また、西面の武士について長村氏は、後鳥羽が新たに組織・育成しようとした武力で、「有力な在京御家人とは別に、個々は弱体な武士が編成された部隊」であったが、次第に在京御家人も西面に組織されていったとする。
⇒西面の武士の「創設の時期は明らかでないが,1205年・・・以前らしい。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E9%9D%A2%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB-68271
ところ、恐らく、1204年の(前年の追放の後の)頼家の暗殺を知った後鳥羽が、北条氏打倒を決意し、最初に行ったのが、鎌倉幕府と関係のない、院直属の武力を確保であり、それが西面の武士の創設であった、ということでしょう。(太田)
さらに、後鳥羽が西面の育成を考えた契機は、・・・1205<年>閏7月の牧氏事件で、在京御家人が「関東の命」を受けて平賀朝雅を追討したことだったのではないか、との推測も示している。
⇒西面の武士の創設は、この事件よりも遡る、というのが私の見方であるわけです。
北条氏によるところの、現役の将軍の頼家の追放/殺害は、いくら、北条時政が平賀朝雅を将軍として擁立しようとし(て失敗し)たとはいえ、河内源氏の庶流の一有力武士に過ぎなかった朝雅の、同じく北条氏(政子/義時)によるところの、追討、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%9C%9D%E9%9B%85
とは深刻さが全く違います。(太田)
頼茂謀叛の場合、在京武士たちは後鳥羽の院宣を受けて追討に向かった。
幕府内の抗争、しかも将軍職に関わる重大案件にもかかわらず、「関東の命」をいっさい受けていない。
直訴・召喚命令・院宣という手順が踏まれていることから、鎌倉に指示を仰ぐ時間的余裕がなかったとは思われない。
むろん、7月25日、鎌倉に下着した伊賀光季の使者が、三寅の下向中であったため飛脚を出すのを控えたと報告しており、そうした特殊事情があったことは確かである。
しかし、平賀朝雅追討の場合と異なり、今回は在京武士たちが独自の判断で後鳥羽に直訴し、院宣を受けて軍事行動に踏み切った。
⇒そんなもの、後鳥羽が、腹心の西面の武士の一人または複数に言い含めて自分に「直訴」させる形をとっただけに決まっています。(太田)
在京御家人たちが鎌倉の幕府首脳部とは関係なく自律的に行動し、後鳥羽の公権力に結びついたわけである。
これまでも、後鳥羽が在京御家人に軍事行動を命じたことはあった。
寺社の強訴対策や京中の治安維持のためである。
しかし、今回の自立的な在京御家人の軍事行動をみたことで、後鳥羽が彼らを鎌倉と遮断し、幕府内の対立を煽って、自らの目的のために利用するのは容易いと感じ取り、自信を深めたとしても不思議ではない。・・・」(119~120)
⇒この個所については、坂井の推量はあたっているかもしれませんね。(太田)
(続く)