太田述正コラム#11650(2020.11.11)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その32)>(2021.2.3公開)

 「そもそも頼茂を追討しなくてはならなくなった責任は、実朝の暗殺を許し、将軍職をめぐる内紛を起こした幕府にある。
 摂関家の子を後継将軍とするという妥協までしてやったのに、権力闘争を都に持ち込むとは何事か。
 後鳥羽は思いをめぐらすうちに、コントロール不能な実朝亡き後の幕府に敵意を募らせていったのではないか。
 承久元年(1219)8月から9月にかけて、大内裏の焼失が契機となり、後鳥羽は妥協から敵対へと大きく舵を切ったと考える。・・・

⇒北条氏の意向を受けたわけでもなく、また北条氏の意向を問うたわけでもなく、自分自身が決めたところの、頼茂の追討が大内裏の焼失をもたらしたことで北条氏を逆恨みした、とすれば、後鳥羽はよほど性根のねじ曲がった人物だということになってしまいます。
 坂井のこの説は全く説得力がありません。(太田)

 焼失の三週間後、後鳥羽は早くも再建事業を始動させている。
 ・・・1219<年>8月4日、臨時の除目(じもく)を行い、下北面(げほくめん)(北面の武士のうち、六位の者)でありながら院近臣として厚遇され、文武両面で後鳥羽を支えていた藤原秀康<(注83)>に、北陸道・山陽道諸国の国務を担当させることにしたのである。」(121~122)
 
 (注83)「和田義盛の弟・宗実(宗妙)の子で、藤原北家秀郷流の養子となった藤原秀宗の子として誕生。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7
 「和田氏は、・・・桓武平氏の流れをくむ三浦氏の庶流。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%B0%8F
 「三浦氏(みうらし)は、坂東八平氏の一つで、平安時代の相模国の「みうら」の地を本拠地とする武家<だが、>・・・祖<が、どちらも>平高望(高望王)の子<を租とするところの、>良文流か良兼流か・・・特定することは困難である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B0%8F
 「後鳥羽院の近臣で、西面・北面・滝口の武士などを勤めた。父は河内守秀宗(ひでむね)。母は伊賀守源光基(みつもと)の女(むすめ)。紫宸殿をはじめ鳥羽殿の厩(うまや)など諸殿舎造進の功をたてて院の信任を得、備中(びっちゅう)、備後(びんご)、美作(みまさか)、越後、若狭、淡路、伊賀、河内、能登など諸国の国守となり、衛府の官を歴任した。1221年(承久3)の承久の乱にあたっては総大将に任ぜられ、弟秀澄(ひでずみ)とともに院方の軍勢を率いて戦った。秀康は在京中の御家人三浦胤義(たねよし)を味方に引き入れ、その兄三浦義村(よしむら)と連携して執権北条義時を討つ計画をたてた。胤義は院宣に従い畿内の兵を集め<、もう一人の>京都守<であった>護伊賀光季(みつすえ)を急襲。秀康は義村に院宣と胤義の書状を送って義時追討を促したが、義村はこれに応ぜず、幕府を支持し逆に幕軍を西上させた。秀康は尾張川、宇治川と、もろくも防戦に失敗。逃亡したが同年10月河内国讃良(さんら)(大阪府寝屋川(ねやがわ)市)で捕らえられ、六波羅に送られて斬殺された。」(田中博美)
https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7-124683
 「秀康<は、>・・・従四位下に昇った<のだが、>この位階は鎌倉幕府の執権北条義時と同等で,武士としては破格のものである。白河上皇が平氏を用いて源氏を牽制したように,後鳥羽上皇は秀康を新たな武士の棟梁に擬して,幕府への対抗を企図したといわれる。」(本郷和人)(上掲)
 ちなみに、<彼の>母方の祖父である「源光基<についてだが、>・・・保元の乱においては、『尊卑分脈』に「保元乱候内裏」と記され、また叔父の光保が後白河天皇方として鳥羽殿に伺候していることなどから・・・、光基も天皇方に加わっていた可能性があるが、その動静は明確でない。
 続く・・・平治の乱では、叔父光保と共に三条殿襲撃に加わり、戦闘後の後白河上皇移送に際して源重成や源季実らと共に車を護衛した・・・。・・・その後も光保と行動を共にし、所謂「六波羅合戦」では当初源義朝方として陽明門を守備したが後に官軍に寝返ったという。
 国房流美濃源氏の嫡流であった光信の長子であり土岐氏の先祖にあたる人物とされるが、理由は不明ながら土岐氏の嫡宗を甥にあたる光衡を養子に迎え「相続」させたといい、実子とされる頼基の子孫は伊賀氏を称している・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E5%9F%BA 

⇒本郷和人説は、いくら、秀康が、武家たる桓武平氏と清和源氏の血を引き、父の代に武家たる藤原秀郷流の養子になったとはいえ、いずれの系統においても、嫡流から遠く外れており、到底、武家の総棟梁たるべき条件を満たしていないので、成り立ち得ないでしょう。
 他方、頼茂亡き時点で、私が、新しい武家総棟梁に後鳥羽が指名するつもりだったと想像している、多田基綱については、「多田源氏の惣領であった父・行綱は、源頼朝の粛清により累代の所領多田荘を奪われ没落しており、以降の行綱及びその子らの動向は不明となっているが、・・・1221年・・・に後鳥羽上皇が・・・兵を挙げると基綱は上皇方として参加し、その敗北と共に討ち取られ梟首された・・・。上皇方への参加は多田荘の奪回を図ったものであろうと考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E5%9F%BA%E7%B6%B1
ところですが、「動向<が>不明」であったにもかかわらず、後鳥羽の北条氏追討挙兵の情報が基綱に伝えられ、基綱が挙兵に参加している、ということからして、かねてから、後鳥羽と基綱は連絡を取り合っていた、と考えられます。
 すなわち、基綱の挙兵参加目的は、「多田荘の奪回を図った」程度のものではなかった、と私は見ているわけですが、後鳥羽がそんな基綱を挙兵の総大将にしなかったのは、「動向<が>不明」であった基綱は、挙兵に参加した他の武士達の大部分と長年接触がなかったはずであり、彼がそんな連中をいきなり指揮するのは不可能だったことも理由の一つではないでしょうか。」(太田)

(続く)