太田述正コラム#11652(2020.11.12)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その33)>(2021.2.4公開)
「平岡豊<(注84)>氏によれば、これは国守(くにのかみ)(朝廷の地方長官である国司の筆頭)の調整を行い、秀康を大内裏の造営にあたらせるための人事であったという。・・・
(注84)とりあえずは、「藤原秀康について」(『本歴史 / 日本歴史学会 編 (通号 516) 1991.05』(吉川弘文館)p.p19~36)の著者、ということしか分からなかった。
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I3396083-00
<しかし、>王権の象徴<である大内裏>の再建に熱意を注ぐ後鳥羽に比べ、周囲は明らかに冷めていた・・・。
その温度差に後鳥羽は苛立ちを募らせたであろう。
そこへもってきて全国的な抵抗の嵐である。
国司・領家・地頭を問わず、諸地域・諸階層の抵抗は、後鳥羽の想像をはるかに超えていた。・・・
承久の乱について記す鎌倉期の史料から「倒幕」の二文字を読み取ることは難しい。
大内裏造営を進める中で苛立ちを募らせた後鳥羽が、幕府をコントロール下に置くために優先順位を変更し、大内裏の完成から問題の元凶である北条義時の追討へと方針を転換するに至ったのだと考えたい。
⇒大内裏造営に幕府が協力的でなかったので、幕府の権力を掌握していた北条氏を打倒し排除しようとした、という坂井の主張は、大内裏造営に協力的でなかったのは、幕府(地頭)だけではなく、朝廷(国司・領家)も同様であったにもかかわらず、後鳥羽は幕府だけを悪者に仕立てた、という主張であり、その点だけとっても成り立ち得ません。
そもそも、幕府にしてみても、本件で後鳥羽に協力的でなかったのは、大内裏焼失は、幕府があずかり知らないところで、後鳥羽が勝手に頼茂討伐を行ったためだったのですから、ある意味、当然なことだったのですからね。(太田)
・・・1220<年>12月11日・・・院近臣で法勝寺執行(しぎょう)の二位法印(にいのほういん)尊長<(注85)>が「出羽国羽黒山総長吏」に補任されたという記事がみえる。
(注85)?~1227年。「父は一条能保。母は不明。・・・妻は坊門親信の娘。・・・
承久の乱に当たっては、義兄弟ながら親幕府派の筆頭と目されていた西園寺公経父子の逮捕・監禁に当たるなど、上皇の片腕として行動する。幕府軍との戦闘においては、兄弟の信能とともに芋洗方面の守備に就くが、敗戦が明らかになると乱軍の中を脱出し行方不明となる。
6年の潜伏の後、・・・1227年・・・京において謀反を計画しているところを発見され、六波羅探題・・・に・・・逮捕され・・・六波羅で誅殺された(一説に自害したとも、傷により死亡したともいわれる)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E9%95%B7
「一条能保<(よしやす)は、>・・・藤原北家中御門流<の>・・・公卿<。>・・・源義朝の娘で源頼朝の同母姉妹である坊門姫<が>妻・・・
頼朝の威光を背景に・・・異例の栄進をする。また、・・・都に戻り北条時政の後任として京都守護となり、頼朝と対立した源義経やその係累の捜索の指揮を取った。<また、>後白河法皇に仕えて重用され、妻や娘の保子(花山院忠経の妻、母は坊門姫)は後鳥羽天皇の乳母となった。・・・
なお、鎌倉幕府4代将軍・九条頼経は、頼朝の同母姉妹(能保の妻)の曾孫であることを理由に将軍に擁立された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%83%BD%E4%BF%9D
再三述べてきたように、後鳥羽が行わせた修法(しゅほう)の多くは関東調伏ではなかった。
⇒「再三述べてきたように、後鳥羽が行わせた修法(しゅほう)の多くは関東調伏で」あった、というのが私見であるわけです。(太田)
ただ、羽黒山は修験道の本場である。
⇒修験道と調伏とがとりわけ密接な関係があるわけではなさそう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%E9%81%93
なので、このくだりは意味不明です。(太田)
しかも、過去には地頭の非法をめぐって幕府と対立したこともあった。
<1220>年末というタイミングを考えれば、尊長を通じて羽黒山に<関東>調伏の修法を行わせるための補任であったとみることもできる。・・・」(122、135~136)
⇒頼朝の甥もしくは義理の甥である尊長に北条氏調伏を行わせることに、後鳥羽は大いに意義があると考えた可能性があるだけに、ここは、坂井の推量に一票、ですね。(太田)
(続く)