太田述正コラム#11658(2020.11.15)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その36)>(2021.2.7公開)
「4月23日、順徳に太上天皇天皇の尊号が奉られ、4月26日、「新院」順徳は「一院(いちのいん)」後鳥羽の院御所高陽院殿(かやのいんどの)に御幸した。
並行して後鳥羽は、御家人の取り込み工作を秘密裏に進めた。・・・
ターゲットに選んだのは和田合戦後、北条氏に対抗し得る唯一の勢力となった三浦氏、なかでも在京中の「平判官(へいはんがん)」三浦胤義であった。
なお、・・・<胤義>が「造内裏米」の徴収を拒んでいる旨を、上総国司藤原清国が造内裏行事所・・・に訴え<ている>。
胤義は造内裏役を拒んだ地頭だったのである。
その胤義を後鳥羽は取り込もうとしたわけである。
大内裏造営中止の原因が地頭の抵抗だけにあったのではない、ということの証左だろう。
⇒そりゃあそうでしょう、という話ですよね。(太田)
「慈光寺本<(注93)>」は、後鳥羽の命を受けた能登守藤原秀康が三浦胤義を自邸に招き、酒を酌み交わしながら、後鳥羽に従うよう勧めたと叙述する。
(注93)「承久3年(1221年)後鳥羽上皇の挙兵によって起こされた承久の乱を記した公武の合戦記である・・・『承久記』(じょうきゅうき)<の中で、>・・・慈光寺本<は、>もっとも成立が早いとされる。鎌倉中期頃の成立で、山城の慈光寺に伝わったとされることから、慈光寺本と呼ばれる。承久記の流布本とは内容、思想的な違いが見え、序文で仏説に基づき、日本における神武天皇以来のそれまでの国王兵乱について述べてから承久の乱への記述を始める。他にも承久の乱に対する後鳥羽の姿勢が流布本にかかれる姿より消極的である、宇治合戦の記述がないなど、流布系と記事の内容が違う場面がいくつか見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E8%A8%98
胤義は、自分が三浦・鎌倉を振り捨てて在京しているのには理由があると答える。
自分の妻は「一法執行(しぎょう)」の娘、胤義と契りを結ぶ前は「故左衛門督(さえもんのかみ)」、すなわち二代将軍頼家の「御台所」として「若君」を産んだ女性だという。
ところが、頼家が北条時政に殺害され、若君も時政の子義時に殺されてしまった。
胤義との再婚後も毎日涙を流す妻をみて、胤義は都に上って院に仕え、鎌倉に一矢放って夫妻の心を慰めたいと思っていたというのである。
「一法執行」は成勝寺執行の一品房法橋昌寛(いっぽんぼうほっきょうしょうかん)、「若君」は禅暁である。
禅暁は先にみたように、・・・1220<年>4月15日、北条義時の幕府によって京都の東山で誅殺された。
野口実氏<(コラム#11557)>は、こうした情緒的な要因はあったにしても、より重要なのは「在京奉公」と「在地経営」という東国御家人に一般的にみられる分業体制であったとする。
胤義は・・・1218<年>6月以降、翌年1月の実朝暗殺以前には在京奉公を始め、・・・1220<年>11月25日以前に「判官」すなわち衛門尉で、かつ検非違使の宣旨を受けるという地位を得ていた。
当時、胤義の兄三浦義村は左衛門尉にすぎず、「スティタスの点からすれば、検非違使の宣旨を蒙った胤義が上位」になったと野口氏は指摘する。
これは、義村にとって胤義が「族的分業の担い手」というより「一族内の競合者」としての意味合いが強くなったことを意味する。
同様のことは他の御家人にもみられる。・・・
後鳥羽はこうした御家人の一族内、とくに「兄弟間の競合・対立」を利用して、幕府内に義時排除の動きを起こさせようとしたと考えられる。
「慈光寺本」は、胤義が兄義村に書状を送り、義時を油断させる計略を授ければ討つのも簡単だと秀康に語ったとする。
報告を受けた後鳥羽は「急ギ軍(いくさ)ノ僉議(せんぎ)仕(つかまつ)レ(急いで合戦についての評議を開始せよ)」と命じた。」(144~147)
⇒私は、後鳥羽は、鎌倉幕府の有力御家人達の間に、頼朝家の男子達や競合する北条氏内外の御家人達を次々に殺害することで事実上権力の座に座り、その座を維持してきた北条宗家に対する反発があると見、そこに付け入ることができると考えていた、と見ています。
秀康もそう見ていたのでしょうし、実際、それは、胤義の見方でもあったはずです。
それに対し、近衛家実/島津忠久は、非北条氏たる有力御家人達の大部分は、院側につくか、北条氏側につくか、の選択を突き付けられたら、1221年の時点では北条氏側につく、と、読んでいた、と、私は見ている次第です。
御存じのように、後鳥羽/秀康/胤義の見方は間違っていて、近衛家実/島津忠久の見方は正しかったところ、その違いが何に由来するかと言えば、秀康は鎌倉在であったことがなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7 前掲
また、胤義は、1218年以来在京していて、しかも、野口/坂井自身の指摘のように胤義は在鎌倉の兄の三浦義村とは微妙な関係にあって、的確な鎌倉の情報が得られていなかった、のに対し、島津忠久は、1203年から1213年にかけて10年近く在京した後、再び鎌倉に戻ったまま1221年を迎えており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E4%B9%85
近衛家に対し、鎌倉の最新情報を的確に掴んだ上でそれを伝え続けていた、からでしょう。
なお、忠久は、薩摩国に荘園を持つ近衛家とのご縁の所以であるところの、薩摩の守護・地頭であり、九州、ひいては西国の非御家人を含む諸武家についての情報も把握し、近衛家に伝えていたと思われます。(太田)
(続く)