太田述正コラム#11660(2020.11.16)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その37)>(2021.2.8公開)

 「続けて「慈光寺本」は城南寺の仏事を、また「古活字本」は流鏑馬揃えを名目に征討命令が下されたことを叙述する。

⇒「古活字本」は、本来普通名詞であり、何らかの註釈を加えて欲しかったところです。(太田)

 以下、「慈光寺本」を中心に経過を追ってみた。
 まず、院近臣の貴族・僧侶に後鳥羽直々の「勅定(ちょくじょう)」が出され、在京御家人や西面衆(さいめんしゅう)、畿内・近国の武士には「廻文(めぐらしぶみ)」(複数の人物に順次廻らせて通知する命令書)が出された。
 前者には坊門忠信、源有雅(ありまさ)、中御門宗行(なかみかどむねゆき)、一条信能、高倉範茂(のりもち)、刑部僧正長厳(ぎょうぶのそうじょうちょうごん)、二位法印尊長、後者には藤原秀康・秀澄兄弟と甥の能茂(よしもち)・・・、三浦胤義、大内惟信<(注94)>、佐々木広綱<(注95)>(ひろつな)・同高重(たかしげ)、後藤基清<(注96)>、八田知尚<(注97)>(ともひさ)、大江能範<(注98)>(よしのり)ら、また丹波・丹後・但馬・播磨・美濃・尾張・三河・摂津・紀伊・大和・伊勢・伊予・近江の武士がいた。

 (注94)?~?年。「清和源氏義光流平賀氏の一族で、大内惟義の嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。・・・帯刀長、検非違使・・・美濃国守護」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E4%BF%A1
 (注95)?~1221年。「近江源氏・・・在京の御家人として鎌倉幕府に仕えるが、次第に後鳥羽上皇との関係を深め西面武士となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%BA%83%E7%B6%B1
 (注96)?~1221年。「藤原北家、秀郷流の嫡流とも言える佐藤義清(西行)の兄弟・佐藤仲清の子で後藤実基の養子となった。・・・源頼朝に仕え<たが、>・・京都守護一条能保の家人<とな>り、在京御家人として活躍<し、>・・・讃岐守護・・・西面武士・検非違使・・・播磨守護<。>・・・
 <その>子・基綱<は、在鎌倉で、>・・・幕府方についた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%B8%85
 (注97)?~1221年。「八田知家の子。・・・のち後鳥羽上皇につかえ,左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられ西面の武士となる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E5%B0%9A-1101505
 「八田知家<は、>・・・一説に源義朝の子。常陸茨城県)八田を本拠とする。源頼朝の挙兵に応じ,平家追討では源範頼にしたがう。常陸守護となり,・・・1189<年>の奥州攻めで東海道大将軍をつとめる。2代将軍源頼家のとき宿老として幕政にくわわった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%94%B0%E7%9F%A5%E5%AE%B6-1101503
 (注98)「西面の武士で大江一族、廣元との縁戚関係はない。」
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/1215.html

 <そして、>1221<年>4月28日、「一千余騎」が院御所に集結し、四面の門を諸国の兵が警固する中、「上皇」後鳥羽、「中院(なかのいん)」土御門、「新院」順徳、「六条宮」雅成、「冷泉宮」頼仁が御所内に入<り、北条時頼の調伏や陰陽師達による占い、を行った>。・・・
 <その後、>後鳥羽は秀康を召すと、義時の縁者である京都守護伊賀光季<(注99)>を討つよう命じた。」(147~149)

 (注99)いがみつすえ(?~1221年)。「藤原北家秀郷流伊賀氏・・・姉妹・伊賀の方が鎌倉幕府2代執権・北条義時の継室である事から、北条氏外戚として重用された。・・・1212年・・・、常陸国内に地頭職を与えられる。・・・1215年・・・、左衛門尉、検非違使。・・・1219年・・・2月、大江親広と共に京都守護として上洛。
 [1219年・・・7月<には、>後鳥羽上皇の命により、源頼政孫で大内守護の源頼茂を討った。]
 ・・・1221年・・・の承久の乱で<は、>倒幕の兵を挙げた後鳥羽上皇の招聘に応じず、[西園寺公経の報告を得て、事を鎌倉に急報<した上で、>]「職は警衛にあり、事あれば聞知すべし、未だ詔命を聴かず、今にして召す、臣惑わざるを得ず」と答えた。再び勅すると、「面勅すべし、来れ」と言った。「命を承けて敵に赴くは臣の分なれども、官闕に入るは臣の知る処にあらず」と言って行かなかった。このため、同年5月15日に官軍によって高辻京極にあった宿所を襲撃され、子・光綱と共に自害を余儀なくされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%89%E5%AD%A3
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%89%E5%AD%A3-1052193 ([]内)

⇒何らかの事情があったと推察されるけれど後鳥羽が光季を追討したタイミングが遅過ぎたこと、また、光季がもっと早い時点で後鳥羽の挙兵計画を察知できなかったこと、は、どちらも、大いなる手抜かりですが、光季による鎌倉への急報を許してしまったことについての私見を後ほど記します。(太田)

(続く)