太田述正コラム#12492006.5.22

<英米すら日本に「誤った理解」を抱いている(その1)>

1 始めに

 アングロサクソン、就中英国は、日本の最大の理解者ですし、米国は日本の外交・安全保障を担っている日本の宗主国であって、英国に次ぐ日本の理解者です。

 それでも私は、時々英米の主要メディアの日本「理解」に目を剥くことがあります。

 今までも折に触れて、彼らの「誤った理解」を批判してきたつもりですが、今回は、ガーディアン掲載記事(http://www.guardian.co.uk/india/story/0,,1777155,00.html。5月19日アクセス)とワシントンポスト掲載論考(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/18/AR2006051801085_pf.html。5月21日アクセス)を俎上に乗せ、その「誤った理解」を批判したいと思います。

2 ガーディアン記事

 ガーディアン記事の方は、チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose1897??1945年)が、終戦直後の1945年8月に台湾で航空事故死してなどいない、という何度も繰り返されてきたヨタ話がメインであるところ、この記事の中で、「誤り」が散見されます。

 まず、ボースについて、「第二次世界大戦において、日本及びドイツと協力して英国に敵対したインド国民軍、の指導者である」(注1)と紹介している部分は微妙だけれど「誤った理解」です。

 (注1Subhas Chandra Bose, leader of the Indian National Army which collaborated with the Japanese and Germans against the British in the second world war の関係代名詞がwho(ボース)ではなくwhich(インド国民軍)となっている。

インド国民軍が実際に戦闘を行った唯一の本格的作戦であるところの、日本軍主導のインパール作戦(Imphal Campaign1944年3月??)は、インド国民軍が日本軍(のみ)に協力し、共同作戦を実施したものであり、当たり前のことながら、当時ボースが行った戦意高揚演説中にドイツに言及したものなどないからです。

 しかも、インド国民軍自体、日本軍が装備を全面的に供与してつくられたものであり、ドイツ軍の関与はゼロでした(注2)(注3)。

(以上、特に断っていない限りhttp://www.yorozubp.com/netaji/academy/170imphal-j.htm(5月21日アクセス)による。)

(注2)ボースはドイツ滞在中に現地でドイツ軍の協力の下にインド人部隊(Indian Legion)をつくったが、インパール作戦開始直前に、インド臨時政府Provisional Government of Azad Hind (Free India))首班として、欧州に残してきたこの部隊をインド国民軍に編入している(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html。5月22日アクセス)。しかし、これは象徴的行為に過ぎない。

(注3)ちなみに、日本軍によるシンガポール落城の時の英印軍捕虜(インド人)のほか、東南アジア在住のインド人や印僑がインド国民軍に志願したし、ボース自身、印僑やインド人達からも軍資金を募っており、インド国民軍は決して日本の傀儡軍隊ではなかった。

またガーディアン記事が、ボースが日本と協力するに至った経緯について、「ボースはカルカッタで自宅軟禁状態に置かれていた1941年、カブール経由でベルリンにおもむき、ヒットラーと会った。総統はボースにアジアで進撃中の日本の軍隊の助けを求めよと助言し、ドイツの潜水艦に乗せるという形で東京への道行きをお膳立てした。」としている部分にも「誤った理解」に基づく歪曲と意図的省略があります。

ヒットラーは確かにボースに会った時(実際には日本の参戦前)にそう言ったようですが、それは口先だけで、日本が開戦し、実際に東南アジアで日本軍の快進撃が始まってからも、ボースのアジア行きを拒み続けたからです。ボースのアジア行きは、ボース自身が在ベルリンの大島日本大使や山本駐在武官に働きかけて、日本政府を動かし、ようやく1943年2月から5月にかけて実現に漕ぎつけたものだった、というのが真相だからです(注4)。(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html前掲)

(注41942年ないし1943年の段階で、仮にボースの協力を得た形で日本軍がインパール作戦を実施していたとすれば、成功した可能性が高い、と考えられている。

なお細かい点ですが、ボースは、マダガスカル沖でドイツの潜水艦から日本の潜水艦に乗り移ってスマトラまで行き、そこから日本の飛行機で東京に到着しています。http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/asia-indo.htm。5月21日アクセス)

更に、ガーディアン記事中の「学者達は、ボースは日本やナチスドイツが抱いていた人種的優越性の議論に対しては見解を異にしていたと指摘している。学者達の大部分は、ボースはプラグマティストであって、敵の敵は味方だとみなしていただけのことだ、と考えている。」というくだりは、かなり露骨な「誤った理解」です。

なぜなら第一に、ナチスドイツはアーリア人(実質的にはドイツ人)の人種的優越性を唱えていたかも知れないけれど、当時の日本は日本人の人種的優越性を唱えるどころか、人種差別の撤廃を唱えていたからです(注5)。

(注5194311月、東京における(日満支印比泰ビルマ七カ国首脳による)大東亜会議で採択された大東亜宣言に、「人種差別を撤廃」とある(コラム#221)。

また、アングロサクソンはアングロサクソン文明を頂点とする階層的世界観を抱いているが、少なくとも本家のイギリスでは人種差別意識はほとんど見られない(コラム#7681043)。これになぞらえて言えば、当時の日本も、日本文明を頂点とする階層的世界観を抱いていたが、人種差別意識は見られなかった。しかし両者が似ているのはそこまでであり、英国(イギリス)と当時の日本の植民地統治は決定的に異なっていた。英国が植民地ないし植民地の住民を一段低いものと見、同化政策をとらなかったのに対し、当時の日本は、植民地ないし植民地の住民を内地ないし内地の住民同様、日本文明の恩沢に浴す平等の存在と見、(正確に言えば、平等の存在と見るよう努め、)同化政策をとった。(この点は以前にも記したことがあると思うが、コラムのナンバーを思い出せない。)だからこそ、英国の植民地では経済的収奪が行われ、住民が餓死することがめずらしくなかったのに、日本の植民地では餓死など起こったことがないし、英国の植民地では住民の教育は疎かにされたが日本は植民地で住民の教育に力を入れた。なお、同化政策と言うとフランスのそれを思い出す人もいるだろうが、日本による同化政策は、植民地の住民の文化・言語を尊重する点でフランスとは異なる。しかも、フランスには紛う方なき人種差別意識がある。(コラムナンバーは省略)

 そして第二に、ボースは日本に対しては、単なるリップサービスとは思えない敬意と親近感を抱いていたフシがあるからです(注6

(注6)東京にやってきたボースと会った東条英機首相は、1943年6月に異例にも帝国議会にボースを招待し、「われわれはインドがいまだに英国の仮借ない圧政の下にあることに怒りを禁じ得なないのであって、インドの独立闘争に満腔の同情を寄せるものだ。われわれはインド独立の大義に対し、可能なあらゆる支援を行う決意だ。われわれはインドが独立を勝ち取り、自由と繁栄を享受する日が遠くないことを信じている。」と演説した(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html前掲)。ボースは同月、日本国民に対し、「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大國のロシアと戦い大敗させました。このニュースがインドへ伝わると昂奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりで、インドの子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました。(中略)日本はこの度、インドの仇敵イギリスに宣戦布告しました。日本は私達インド人に対して独立の為の絶好の機会を与えてくれました。」というメッセージを送っている(http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/asia-indo.htm上掲)。

    また、194310月にボースを首班とするインド臨時政府は、英米に対し宣戦布告したが、米国に対する宣戦は、同政府の閣僚の中から出た反対論を押し切ってボースが断行したものだ。ドイツに滞在中のボースは、直接的にインドを解放する戦い以外にインド人部隊を関与させないという約束をドイツからとりつけるのにこだわったものだが、その時の態度とは明らかに違っている。(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html前掲)

ボースにとっては、ドイツは敵の敵にすぎなかったけれど、日本は味方だったのだ、と私は思う。

(続く)