太田述正コラム#11664(2020.11.18)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その39)>(2021.2.10公開)
「かくして承久3年(1221)5月15日の朝が来た。
「慈光寺本」によれば、後鳥羽の命を受けた秀康は、まず京都守護伊賀光季<(注103)>に出頭を要請したとする。・・・
(注103)「伊賀・・・朝光は・・・鎌倉幕府の宿老として活躍し・・・娘は執権北条義時の室となって政村を出産<、>嫡男の光季は京都守護となり、承久三年(1221)の「承久の乱」で上皇方と戦い敗れて[<その(幼き?)次男の>光綱と共に]自刃している。
[後に北条泰時が光季の故地を遺子・季村に与えた。]
朝光の<次男の>光宗は政所執事とな<ったが>・・・、北条義時の死後に義時室とはかり将軍頼経を廃し、藤原実雅をたてようとして失敗、配流された(伊賀氏の乱)。。」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mino_iga.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%85%89%E5%AD%A3 ([]内)
むろん光季は召しに応じず、「一千余騎」が差し向けられることになった。
「古活字本」はもう一人の京都守護大江親広<(注104)>についても叙述する。
(注104)?~1242年。「父:大江広元、母:多田仁綱の娘・・・妻<は>北条義時の娘竹殿・・・政所別当、京都守護<を歴任。>・・・戦後は行方をくらましたが、祖父の多田仁綱が目代を務める出羽国寒河江荘に隠棲していたと言われている。・・・
嫡男佐房は鎌倉側東海道方面軍に加わり幕府軍の勝利に貢献した。佐房は戦後上田荘を与えられ幕府要職に就いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E8%A6%AA%E5%BA%83
多田仁綱(のりつな。?~1234年)は、「源満仲の弟・源満成の長男・左近将監満信の後胤であるという。・・・娘婿・大江広元が出羽国寒河江荘の地頭に任じられた際、広元の目代として寒河江に下向し同荘本楯、次いで吉川に居館を構えて統治にあたった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E4%BB%81%E7%B6%B1
召しに応じた親広は、後鳥羽から「義時ガ方ニ有(あら)ズルカ、又御方ニ可候(そうろうべき)カ、只今申(もうし)キレ(義時の側にいるつもりか、それともまた後鳥羽院のお味方となるつもりか、今すぐはっきりと申せ)」と迫られ、やむなく後鳥羽に従うことになったとする。
<同じ>日、三浦胤義・・・ら・・・が・・・光季の宿所に攻め寄せた。・・・
後鳥羽は、光季を味方に引き入れ、北条義時追討の大将軍にしたかったと、その死を惜しんだ。
⇒伊賀光季と大江親広の対応ぶりは対照的であったところ、光季にも、親広のように、生きながらえて天寿を全うできる可能性があったこと、また、それまでの北条氏による他の有力御家人達の累次の族滅からしてここで北条氏に忠節を尽くしたとて伊賀氏の将来は定かではなかったこと、を思えば、光季の頭は、いささか固すぎたのではないでしょうか。(太田)
次いで後鳥羽は、5月15日付「北条義時追討の院宣」を下した。・・・
院宣を被(こうむ)るに称(い)へらく、故右大臣薨去の後、家人等偏(ひとえ)に聖断を仰ぐべきの由、申さしむ。仍(よっ)て義時朝臣、奉行の仁(じん)たるべきかの由、思(おば)し食(め)すのところ、三代将軍の遺跡(ゆいせき)、管領(かんれい)するに人なしと称し、種々申す旨あるの間、勲功の職を優ぜらるるによって、摂政の子息に迭(か)へられ畢(おわ)んぬ。然而(しかれども)、幼齢未識の間、彼(か)の朝臣、性を野心に稟(う)け、権を朝威に借れり。これを政道に論ずるに、豈(あ)に然(しか)るべけんや。仍て自今以後、義時朝臣の奉行を停止(ちょうじ)し、併(しかしなが)ら叡襟(えいきん)に決すべし。もし、この御定(ごじょう)に拘(かかわ)らず、猶反逆の企てあらば、早くその命を殞(おと)すべし。殊功の輩(ともがら)においては、褒美を加へらるべき也。宜(より)しくこの旨を存ぜしむべし、てへれば、院宣かくの如し。これを悉(つく)せ。以て状す。 承久三年五月十五日 按察使光親奉る
内容は次の通りである。
「故右大臣」実朝の死後、御家人たちが「聖断」すなわち天子(この場合「治天君」後鳥羽)の判断・決定を仰ぎたいというので、後鳥羽は「義時朝臣」を「奉行の仁」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、「三代将軍」の跡を継ぐ者がいないと訴えてきたため、「摂政の子息」に継がせた。
ところが、幼くて分別がないのをいいことに「彼の朝臣」義時は野心を抱き、朝廷の威光を笠に着て振舞い、然るべき政治が行われなくなった。
そこで、今より以後は「義時朝臣の奉行」をさしとめ、すべてを「叡襟」(天子のお心)で決する。
もしこの決定に従わず、なお反逆を企てたならば命を落とすことになるだろう。
格別の功績をあげた者には褒美を与える。
以上である。
ここにみられるのは、後鳥羽の意思に従いたいとする御家人たちの願いに反し、奉行の北条義時が朝廷の威光を笠に着て政治を乱している。
義時の奉行をやめさせ、後鳥羽の意思で政治を行えば御家人たちの願いも叶えられる。
つまり義時排除という一点で、御家人たちと後鳥羽の利害は一致するという論理である。・・・」(150~153)
⇒当然、私は、この院宣を坂井のようには読みません。
「聖断を仰ぐべきの由、申さしむ」とは、幕府の奉行に任じた、北条政子/時頼に対し、次の将軍を武家の総棟梁にふさわしい人物群の中から候補者を選び、院の承認を得るように伝えた、という意味であって、それに対し、北条政子/時頼は、武家の中にはふさわしい人物はいないというので、仕方なく摂政の子を次期将軍候補として東下させたが、この子に対し、将来の将軍たるに相応しい武士たるべき教育訓練を行ってきておらず、この子が将来将軍になっても傀儡化し、自分達の権力を維持し続けることを図っているとしか思えないところ、これは院のみならず、(北条家を除く)幕府御家人達の意に反することである、というのが、私の読み方です。(太田)
(続く)