太田述正コラム#11666(2020.11.19)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その40)>(2021.2.11公開)

 「「慈光寺本」は、院宣を武田信光<(注105)>(のぶみつ)、小笠原長清<(注106)>(ながきよ)、小山朝政<(注107)>、宇都宮頼綱<(注108)>(よりつな)、長沼宗政<(注109)>(むねまさ)、足利義氏<(注110)>(よしうじ)、北条時房、三浦義村の8人に宛てて下したとする。

 (注105)1162~1248年?。「源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。・・・甲斐源氏の一族は逸見山や信光の石和館で頼朝の使者を迎え挙兵への参加を合意し、治承・寿永の乱において活躍する。信光は頼朝の信任が篤く、源義仲とも仲が良かったことから、義仲の嫡男に娘を嫁がせようと考えていたが、後に信濃国の支配権を巡って義仲と不仲になってこの話は消滅した。後に頼朝が義仲の追討令を出したのは、この信光が義仲を恨んで讒訴したためであるとも言われている。・・・1184年・・・、義仲追討軍に従軍して功を挙げ、直後の一ノ谷の戦いにおいても戦功を挙げた。・・・この時期には甲斐源氏の勢力拡大を警戒した頼朝による弾圧が行われており、一族の安田義定、一条忠頼、板垣兼信らが滅亡している。信光は・・・従兄弟にあたる小笠原長清らとともに追及を免れている・・・信光の孫の代には甲斐国に残留した石和系武田氏と安芸国守護職を継承した信時系武田氏に分裂している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%85%89
 (注106)1162~1242年。「甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。 信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。・・・源頼朝挙兵の際、19歳の長清は兄・秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許され、主家である平家を裏切り、・・・1180年・・・の富士川の戦いで頼朝の下に参じたと伝えられる。また同じく知盛の被官であった橘公長らを鎌倉御家人に引き入れる仲介を担った。
 治承・寿永の乱において戦功を重ね、・・・1181年・・・には頼朝の仲介で有力御家人であった上総広常の娘を妻としている。なお、2年後に広常は頼朝に誅殺されるが、長清夫妻は罪に問われず長清の妻が父・広常の所領の一部を継承している。その後、・・・1185年・・・、父・遠光は源頼朝の推挙で信濃守に任じられ、のちに長清も信濃守に補任された。また武田信光・海野幸氏・望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されて、26歳のときに頼朝に出仕し、鎌倉幕府の御家人としての小笠原氏の基礎を築いた。・・・頼朝没後、子の長経が二代将軍源頼家の近習であった事から、・・・1203年・・・9月の比企能員の変に連座して処罰されたため、一時小笠原氏は没落するが、姉妹である大弐局は二代将軍源頼家・三代将軍源実朝の養育係を務めて小笠原氏の鎌倉での地位を維持しており、嫡男の時長は次期将軍三寅の鎌倉下向の随兵を務めて鎌倉での活動が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%B8%85
 (注107)おやまともまさ(1155~1238年)。「[藤原北家秀郷流小山氏]<で>小山政光の子・・・承久の乱では宿老として上洛せず関東に在った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E6%9C%9D%E6%94%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E6%94%BF%E5%85%89 ([]内)
 (注108)1172~1259年。「藤原姓<下野>宇都宮氏5代当主。・・・源頼朝の乳母であった寒河尼に預けられ、その夫・小山政光の猶子となった。・・・ 承久の乱<の時>、頼綱は鎌倉留守居を務め<た。>・・・歌人としても著名で藤原定家との親交が厚<かった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%A0%BC%E7%B6%B1
 (注109)1162~1241年。「藤原北家秀郷流小山氏・・・小山政光の次男<で、>・・・長沼氏・皆川氏の祖。・・・承久の乱に・・・従軍した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B2%BC%E5%AE%97%E6%94%BF
 (注110)1189~1255年。「河内源氏義国流足利・・・宗家3代当主。母は北条時政の娘時子。・・・三男ながら、正室の北条氏の所生であったため家督を継ぐ。そのため終生北条氏とは懇意であり、要職には就かなかったものの、和田合戦や承久の乱など、重要な局面において北条義時・泰時父子をよく補佐し、晩年は幕府の長老としてその覇業達成に貢献した。自身の正室にも泰時の娘を迎えており、家督もその子である泰氏に譲っている。承久の乱で京(京都府京都市)と鎌倉(神奈川県鎌倉市)の間の東海道の三河国守護職を得て、日本の東西交流を牛耳る立場を獲得した。後に子孫の尊氏が京の六波羅探題を落としたときに関東から鎌倉幕府勢が海道を上洛するのを足利家が三河国で阻止できたのもこの為である。三河国では源頼政の孫大河内顕綱などを家臣に入れ勢力を拡大し、庶長子の長氏を幡豆郡吉良荘(現在の愛知県西尾市)に住ませて足利氏の分家吉良氏(後に今川氏が分家)を誕生させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%B0%8F_(%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AE%B63%E4%BB%A3%E7%9B%AE%E5%BD%93%E4%B8%BB)
 父親の足利義兼(よしかね。1154?~1199年)は、「幼い時に父・足利義康を亡くし・・・、伯父・源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる。
 ・・・1180年・・・に血縁的に近い源頼朝が以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、河内源氏の一族であり、また以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係からか、義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍していた。・・・
 父の義康は源義家の孫・義国の子で足利氏の祖となった。母は熱田大宮司藤原範忠の娘だが、祖父藤原季範の養女となった。藤原季範は頼朝の母由良御前の父でもあるため、義兼は父方でも母方でも頼朝と近い血縁関係にあった。・・・1181年・・・2月に頼朝の正室北条政子の妹・時子と結婚し、頼朝とさらに近い関係になったことも足利氏の嫡流を継いだ要素の一つと言える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%85%BC
 しかし、「義兼の娘のうち一人は将軍実朝の正室として縁談があ<ったが>、実朝はこの話を断って、1204年・・・大納言坊門信清の娘信子を正室に迎えて<おり、>このことは実朝の京文化へのあこがれを示す逸話として後世に伝わってい<るけれど、この縁談は北条氏によって阻まれたとする説もあ<る>。
 実朝と同じ源氏の名門で、北条氏とも血縁の濃い足利義兼の娘は、新将軍実朝の正室に相応しいと言え<るが>、かつて比企氏が頼家の外戚として権勢を伸ばして北条氏の地位を脅かしたように、足利氏が比企氏のような存在になる可能性は否定でき<なかった>。
 実朝に嫁いだ坊門信子の兄忠清には、時政の娘が嫁いでいることから北条氏と坊門氏は懇意にしてい・・・た。
 したがって、北条氏にとってどちらが危険かといえば、軍事力を持つ足利氏の方<だろう>。また、坊門忠清は後鳥羽上皇の近臣でもあ<ったので、>朝幕関係の調整を行いやすいといったことも考えられ<る>。」
https://www.chunengenryo.com/ashikagayosiuji1/
 祖父の源(足利)義康(1127~1157年)は、「平安後期に前九年の役・後三年の役で活躍した源義家の子・義国の次男。父から下野国足利荘を相続し、足利を名字とした。父・義国の本領である八幡荘を相続した異母兄の義重は、父と共に上野国新田荘を開墾し新田氏の祖となる。義康は熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶り、河内源氏の同族源義朝と相聟の関係になり同盟を結んでいる。
 ・・・1142年・・・10月、鳥羽上皇が建立した安楽寿院に足利荘を寄進、義康は下司となった。久安の頃に上洛し、所領の寄進が機縁となって鳥羽上皇に北面武士として仕え、蔵人や検非違使に任官した。また陸奥守にも任ぜられ、「陸奥判官」とも呼ばれた。
 ・・・1156年・・・、死期が迫った鳥羽法皇が特に信頼できるとして後事を託した五人の武士の中に義康の名もあった。法皇崩御後に起こった保元の乱では、源義朝と共に後白河天皇側に付き、平清盛の300騎、義朝の200騎に次ぐ100騎を従え、天皇方主力として最北方の近衛方面の守備を担当した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%BA%B7

 いずれも錚々たる有力御家人であり、かつ在京経験が豊富であった。
 後鳥羽が彼らを選んだのは、在京中に接点があったからと考えられる。
 また、義時の弟時房と甥の足利義氏(母親が政子・義時の妹)が含まれているのは、同族内の競合・対立を利用して御家人たちの分断を狙ったものであろう。・・・」(153~154)

⇒源義家が、為義を自分の二代後の河内源氏の棟梁に指名した瞬間、為義と世代的には同じである、(新田)義重と(足利)義康は、庶流に落とされてしまったわけですが、為義の男系子孫の嫡流が根絶やしになれば、河内源氏の棟梁になりえたということであり、実際、ずっと後で、義康の嫡流子孫の尊氏は、義重の嫡流子孫の義貞を殺害することで、名実共に河内源氏の棟梁、ひいては武家の総棟梁になり上がったのでした。
 しかし、考えてみれば、武家の総棟梁になり上がる機会は、承久の乱の時に早くも訪れていたというのに、既に落ちぶれていた新田氏の新田政義はこの乱の時に動静すら定かではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%BE%A9
のでさておき、足利義氏が、(的確な情勢判断をした、ということではあるものの、)全く躊躇した気配もなく、北条氏方で活躍したのはいただけません。

(続く)