太田述正コラム#1251(2006.5.23)
<英米すら日本に「誤った理解」を抱いている(その3)>
その反対に、インド独立に大して寄与しなかったガンジーは持ち上げられることになります。
つい最近も、英BBCのワシントン特派員(前南アジア特派員)が、米ケネディ政権の高官達で公民権運動を支援した人々にインド滞在経験があるガンジー心酔者(Gandhiphile)が多い、という論説を上梓しています。
この特派員が例として挙げているのが、当時の国務副長官(Deputy Secretary of State)のボールス(Chester Bowles)、 駐インド大使のガルブレイス(J K Galbraith)、ケネディの初期の公民権問題顧問のウォフォード(Harris Wofford)・・1950年代初めにインドから米国に帰国し、キング(Martin Luther King,Jr.)牧師にガンジーの「哲学」を教えた・・です(注9)。
(注9)公民権運動が結実するのは、このケネディ政権の陣容を基本的に継承した次のジョンソン政権の時だが、こういう話を聞けば聞くほど、公民権運動は、「良識ある」白人が上から奏でた笛に「先覚的な」一部の黒人が踊った壮大なやらせであった、という感を深くするのだが、どんなものだろうか。
当然と言うべきか、この特派員は、「非暴力活動というガンジーの哲学は、英国のインドからの追放をもたらしたところの、高度に成功した戦略だった」という「誤った理解」を披露しています。
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4989356.stm(5月23日アクセス)による。)
ガンジーは、植民地住民でありながら、かなり個性の強い(という点でも典型的な)典型的イギリス人になりきろうとした人間にほかならず、彼の「哲学」にさして新しいものはない、と以前に(コラム#176で)私は指摘したことがあります。
ここでガンジーの「哲学」がもたらした悲劇を一つだけ挙げておけば、ボースが追求した「武力独立・インド亜大陸の一体性維持」路線(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html上掲)とは違って、ガンジーの「哲学」に染まった国民会議派は独自の軍事力を全く持っていなかったがために、独立直前のインド亜大陸は、英国の分割統治の「陰謀」に由来するイスラム教分離主義者の策動を押し止めることができず、インドとパキスタンに分裂した形で独立の日を迎えることになってしまったことが挙げられます。
その結果、独立時を含めて、インド亜大陸において、イスラム勢力とそれ以外の勢力の間で何度も戦乱が起こり、何百万にも及ぶ人的犠牲を生み出すことになったほか、独立以来パキスタンは、(バングラデシュをもぎとられた現在においてなお、)インド亜大陸において、英米の走狗として、インド牽制の任に当たらせられているのです。
このように見てくると、まことに欠点の多い人間であった東条英機ではあるものの(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F。5月22日アクセス)
、彼にも評価されるべき点があることを痛感させられます。
ビルマの第15軍司令官であった牟田口廉也中将は、東条の腹心の部下の一人であり(ウィキペディア上掲)、彼がインパール作戦をあえて立案したのは、インド独立にコミットしていた東条の心中を忖度したものであった可能性がある上、当初、ビルマ方面軍、南方軍、大本営などの上級司令部全てがその実施に難色を示したにもかかわらず、同作戦が最終的に認可された背景には、東条の強い意向があった可能性が大です(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6(5月22日アクセス)を参考にした)。
1947年のインド・パキスタンの独立・・英帝国の崩壊の始まり・・を心から喜んでいたはずの東条は、1948年の暮れにA級戦犯として死刑を執行されるにあたって、次のような遺書を残しています。
「英米諸国人に告げる 今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。」(ウィキペディア上掲)
その言やよし、と私は思います。
「事実を列挙していく時間」がなかった東条(注10)に代わって事実を列挙するのは後世のわれわれの使命でしょう。
(注10)「東条」は本来「東條」でなければならないが、新字体を用いた。
本コラム・シリーズを読まれた読者の中から、有志が輩出することを願って止みません。
(続く)
日本は多くの大国にとってトラウマの原因なんですね。とすれば、残念ながら、それらの国々に公平に評価してもらえる日は来ないような気もします。
ところで、メールアドレスを書かなくてもコメントできるようにしていただけないでしょうか。
個人のメールアドレスを公開できる人は限られていますし、毎回デタラメなアドレスを入力するのは中々心苦しいのです・・・。
それが無意味なコメントを抑制しているとお考えになるのなら、それもそうなので仕方ありませんけど。
メールなし。どうでしょう?
または、
echeron@nsa.govとかウソメールを
単語登録しておくとか。^^;
あのですね、欧米メディアと一緒で先生も「歪曲や意図的省略」をしてますよ。まず冒頭の飛行機事故ですが、これは台湾経由で大連(ソ連占領下の満州)に向かう途中で起きた事故ですね。「日本の味方」がなぜその日本を敗戦に至らしめた敵に協力を求めに行くのかということですね。ボースの目的は徹底的にインドの武装独立です。「敵の敵は味方」をこれほど地で行った人は他に知りません。指摘された最初の間違いですけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E8%BB%8D%E5%9B%A3
ではボースを指揮官として自由インド軍団が存在し、ボースが日本に向った後、…ドイツ軍と共に…ノルマンディ海岸に配備された。」と書いてありますよ。インド人も欧州でD-Day戦ったのと違いますかね。あと「当時の日本は、植民地ないし植民地の住民を内地ないし内地の住民同様、日本文明の恩沢に浴す平等の存在と見(正確に言えば、平等の存在と見るよう努め、)、同化政策をとった」と「日本による同化政策は、植民地の住民の文化・言語を尊重する」は何か矛盾していて何を言いたいのかよくわからないのですが、朝鮮では日本語風の名前を奨励し、日本語で教育していたのと違いますか?英国は曲がりなりにもインド人部隊を組織してますよね。日本が結局そうやって徹底的に「同化政策」を何十年もやっても朝鮮半島には43年まで徴兵制を敷くことができず、戦闘にも参加させられなかったのは反乱を恐れたからだと言われています。結局、朝鮮人を皇国臣民に仕立て上げることに失敗したんですね。それと日本は収奪しなかったって何を言ってるのですか?中国戦線がそうですけど日本軍の原則は現地調達ですよ。インパール作戦がその典型ですね。東條は一切補給はせんぞ、ですよ。物資は現地で収奪するしかない。現地の人にとったら収奪者の肌の色が変わった、くらいのもんですよ。それと大東亜宣言はお題目ですね。綱領と実態がかけ離れるということはままあることで。それよりもずっと前、関特演の時点では日本は中国の次にソ連とやるのか米英とやるのか態度が煮え切っていなかった。米英との戦争をはっきりと決定したのが1941年9月3日の帝国国策遂行要領ですね。
http://www.jacar.go.jp/nichibei/popup/19410903a.html
ここでは南方に戦線を拡大することも決めています。そして大事なことは「八紘一宇」のはの字も出て来ないということですね。なぜかというとこの戦争は太平洋をかけた資源を巡る争いであって、八紘一宇・大東亜は戦意高揚のための後付のプロパガンダだからです。大量破壊兵器が出てこなかったらほんとの大義はイラクの民主化なんだ、とか言ってみるようなもんですよ。先生の言い分じゃあ、米国の若者がイラク戦争はイラク人を自由にするための戦いだってまじで信じて志願するようなもんですよ。大日本帝国の悲劇は東條のようなプロパガンダをまじで信じ込んでいる将校上がりが政権を牛耳っていたことですね。自分ででっち上げたものをまじで担ぎ上げ始めたら目も当てられません。まあ、権謀術数に長けた偉大なインド人がばかな日本人を利用したって話ですね。
インパール作戦を語るときに絶対に省略してはいけないのは無茶で杜撰な計画のため参加した8万名余りの兵隊のうち4分の3以上が戦死、そのほとんどが餓死という事実ですね(ウィキペディア)。見るに見かねて独自に退却を始めた佐藤幸徳以下3師団長を牟田口が勝手に解任(師団長は天皇が任命するので現地の一司令官が勝手に解任できない)。東條、牟田口のしょうもない面子のために多数の兵士が犠牲になった。重大な軍隊の規律違反にもかかわらず、その責任を押し付けあって結局、佐藤は精神病扱い、誰も責任を取らなかった。こんな作戦のどこにも名誉もへったくれもありません。インドの独立を助けたというのはあくまでも結果論ですよ。それで亡くなった英霊も少しは浮かばれたというのが正しい解釈です。それがこの作戦の目的では断じてありません。
最後に、長崎暢子(元東大の歴史学者)著「インド独立・逆光の中のチャンドラ=ボース」にあるボースの言葉を掲げておきます。熟読玩味していただければ幸いです。
東条はYes/Noがハッキリしているところが非常に良い。日本という国が偉いことは認める。良い兵隊がいて良い技術者もいる。ただし良い政治家がいない。