太田述正コラム#11672(2020.11.22)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その43)>(2021.2.14公開)
「思うに、・・・後鳥羽に院宣への過信がなかったとすれば、有力御家人たちを反義時に誘導できなかった場合のことも想定したはずである。
それを端的に示すのが官宣旨だったのではないか。
むろん院宣と同様、官宣旨によっても東国御家人たちの帰趨を決定できるかどうか定かではない。
そこで、官宣旨の発給対象を、後鳥羽の権力が浸透している畿内近国や西国、これらを含めた五畿七道の御家人たちにしたのだと考える。
つまり、義時を幕府から排除するため、後鳥羽は二段構えの戦略を立てていたのである。
さらに、最初に召集した一千余騎は、後鳥羽・土御門・順徳・雅成・頼仁らが入った院御所高陽院殿の警固にあてている。
本陣の防衛という戦略上の鉄則を守っているのである。
これを加えれば、後鳥羽は三段構えの万全の戦略を練っていたことになろう。
要するに、後鳥羽が立てた戦略は杜撰なものでも楽観論に基づくものでもなかったといえるのである。・・・
・・・院宣と官宣旨は、院の下部(しもべ)(雑事に使役される召使い)「押松(おしまつ)」に託された。
・・・1221<年>5月16日・・・押松は京都を発った。
直前の5月15日には、兄三浦義村を誘引する書状を携えた胤義の使者、伊賀光季が緊迫した情勢を報せるため、討伐を受ける直前に発進した使者、そして西園寺公経の家司(けいし)三善長衛が公経・実氏父子の幽閉と、官宣旨が五畿七道に下されたことを報せる使者が京都を発っていた。
4人の死者は、5月19日の午(うま)の刻(正午頃)から酉の刻(午後6時頃)にかけて相次いで鎌倉に入った。・・・
⇒京と鎌倉よりも遠い京と江戸の500kmを江戸時代の継飛脚で60~80時間かかった
https://mag.japaaan.com/archives/91254
ところ、この4人の使者は、それぞれ同じ1人が移動したようですから、当然騎乗したのでしょうが、替え馬が必要ではなかったかと思いますし、どう移動したかを、坂井には追求して欲しかったところです。
また、院宣はともかく、官宣旨の方は、広く流布させなければならないというのに、東国に、押松一人しか送り込んでいなかったようであるのは腑に落ちませんし、胤義が、気脈が通じていたわけでもない、兄の義村に誘引の書状を送ったことも軽率の極みですし、何よりもかによりも、東海道に関所を設けて、京と鎌倉との往還に目を光らせ、伊賀光季や西園寺家のような在京、畿内の武士、公家等が、幕府に情報を提供することを阻止しなかったのはどうしてか、等についも、坂井には説明して欲しかったところです。
この点については、後鳥羽方としては、情報が漏洩することをむしろ期待しつつ、様々なルート、形、で、院宣や官宣旨、発給の事実ないしはそれらの内容が鎌倉に伝わることによって、この事実や内容が幕府の御家人達に拡散することを期待したのではないか、と、私は見ています。(太田)
<西園寺家の家司の到着や、弟からの書状を受け取った三浦義村からの報告を受けた>幕府首脳部<は、>・・・即座に押松の探索を開始し、・・・潜んでいた押松を捕らえ、<院宣、官宣旨、そして源光行の副状(そえじょう)等>の押収に成功した。
幕府首脳部は、院宣・官宣旨が東国御家人たちに伝わるのを未然に防ぐことに成功したのである。
5月19日、御家人たちが北条政子の邸宅に参集した。
『吾妻鏡』同日条は北条時房・同泰時、大江広元、足利義氏、安達景盛<(注116)>、「慈光寺本」は院宣の宛先8人のうち6人、武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮朝綱、長沼宗政、足利義氏が参上したとする。・・・」(157~160)
(注116)?~1248年。「父の盛長は源頼朝の流人時代からの側近であり、幕府草創に功のあった宿老であった。・・・異父兄弟の島津忠久<と>は・・・同じ丹後内侍を母と<し、忠久と同じく、>・・・御落胤説があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、霜月騒動で一族誅伐に至る遠因となる。・・・
承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。・・・
<その後、>あらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族500余名を滅亡に追い込んだ。・・・安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%99%AF%E7%9B%9B
⇒北条政子が鎌倉幕府のトップであったことが如実に分かる史実です。
とまれ、院宣の宛先8人のうちの、『吾妻鏡』によれば(北条時房と足利義氏の)2人、「慈光寺本」によれば6人(時房を含めれば7人)、に、この時点で院宣・官宣旨が「伝達」されたわけであり、この他、8人のうちのもう1人の三浦義村、にも「伝達」されていたことから、少なくとも、「院宣」に関しては、後鳥羽側のほぼ思惑通りの結果になった、ということです。
なお、「官宣旨」に関しては、「院宣」が「伝達」された御家人達から、更には、幕府側の軍勢が招集された暁には、これら御家人達の何名かから軍勢の少なからぬ部分に、「院宣」と共に、そのさわりが「伝達」されたことでしょうから、その時点で、やはり、思惑通りの結果になったはずです。
ちなみに、(後ほど改めて言及しますが、)1331~1333年の元弘の乱の時には、院宣ならぬ綸旨すら出されなませんでしたが、後醍醐天皇を戴いて挙兵した京方に対し、鎌倉方として出撃した足利高氏(その後尊氏へ)と新田義貞は、その一年半後に、ようやく京方へ寝返っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%BC%98%E3%81%AE%E4%B9%B1 (太田)
(続く)