太田述正コラム#11674(2020.11.23)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その44)>(2021.2.15公開)

 「尼将軍<は>、聞く者の魂を揺さぶる名演説<を行>った。
 しかもそこには、北条義時一人に対する追討を、三代にわたる将軍の遺産「鎌倉」、すなわち幕府そのものに対する攻撃にすり替える巧妙さがあった。

⇒政子の演説が概ね史実であったとしてですが、当然、「院宣」と「官宣旨」の内容は参集者に開示されたはずであり、政子の「すり替え」を単なる修辞である、と参集者達全員は受け止めた、と、私は想像しています。
 つまり、いずれも海千山千のツワモノであるところの参集御家人達の中で、政子の演説によって義時追討拒否を決意するに至った者がいた、とは考えにくいということです。(太田)

 武田信光が政子に味方する旨を表明すると、誰一人異議を唱える者は出なかった。
 幕府存続の危機感を煽られ、御家人たちは異様な興奮の中で、「鎌倉方」に付いて「京方」を攻めるという選択をしたのである。・・・

⇒まさか。(太田)

 『吾妻鏡』の記事をもとに幕府の対応をみていくことにしよう。
 5月19日の評議では様々な意見が出た。
 その結果・・・足柄・箱根という東海道の二つの関所を固めて防衛に専心し、追討軍を迎撃する戦術をとることに決まりかけた。
 ここで広元が異議を唱えた。・・・
 東国武士が心を一つにしなければ、関を守ったまま日を送ることは、逆に敗北の原因になるだろう。
 運を天に任せ、早く軍兵を京都に出撃させるべきだ・・・というのである。・・・
 広元は・・・院宣や関東分の官宣旨・・・<の>文面からまだ追討使が任命されていないことに気づいたのではないか。・・・
 これまでの経験から、追討使が任命され、追討軍が京都を進発するまでには時間があると踏んだのである。
 一方、東国御家人たちが、院を頂点とした朝廷の権威・権力、迫りくる朝敵追討の大軍、こうした目に見えぬ虚像に恐怖を覚え、委縮することも、長年の鎌倉在住の経験から広元にはわかっていた。
 そこで、畿内近国・西国の武士らで組織された追討軍が京都を進発する前に、逆に攻勢をかけるのが最善の、しかも唯一の戦術だと結論したのである。

⇒『吾妻鏡』で「意図的な顕彰<が行われているのは、> 実務官僚(文筆の家)では・・・三善康信、三善康連、二階堂行光、大江広元であ<り、>それ以外には得宗家を除くと北条時房、平盛綱、北条実時らである<ところ、>・・・実務官僚としては、・・・1295年・・・の寄合出席者・・・に大江氏の長井宗秀、二階堂行藤、三善氏の矢野倫景らが見えており、・・・1302年・・・11月段階では二階堂行藤の後任として二階堂行貞が加わったと推定され<、また、>・・・1309年・・・の寄合衆には、他に姻戚で安達時顕、得宗被官では長崎高綱、尾藤時綱らが見え<、>・・・1302年・・・当時の幕府要人には得宗被官は現れないが、その裏で得宗家を支える存在であったろう<が、>その長崎氏の祖平盛綱には顕彰記事があり、尾藤氏は北条泰時の代に最初の家令として記されている<、といった具合に、>・・・1302年・・・前後の幕府・得宗家を支える主要メンバーの家の形成が『吾妻鏡』の中にきちんと織り込まれている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E5%A6%BB%E9%8F%A1
ということから、「大江氏の長井宗秀」(注117)が、大江広元の事績を、「意図的に顕彰」するために、承久の乱の時の広元の、武勇ならぬ弁舌による活躍ぶりを誇張して記述した、ないしは記述させた、と受け止めるべきでしょう。
 
 (注117)むねひで(1265~1327年)。大江広元-長井時広(兄が京都方の大江親広)-泰秀-時秀-宗秀。「母は安達義景の娘。北条実時(金沢実時)の娘を妻とし<た。>・・・1285年<の>・・・霜月騒動で安達氏と親族であったため失脚したと<される時期を除いて、>・・・北条貞時政権の重要メンバーであ<り続けた。>・・・『吾妻鏡』編纂者のひとりとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E5%AE%97%E7%A7%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E6%99%82%E5%BA%83 等
 「霜月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代後期の・・・1285年・・・11月17日・・・に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、9代執権北条貞時の時代に、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱ともいう。
 源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95

 なお、「注117」の後段で紹介した霜月騒動のウィキペディアの記述ぶりは、幕府創設以来の有力御家人の一つであるところの、大江家(長井家)はその後復活したこと、いや、そもそも、同様であるところの足利家は(常に幕閣外にとどまったけれど)健在であり続けたこと、に鑑み、誤りに近い、というべきでしょう。
 とまれ、大江家の生き残り術の巧みさ、逞しさ、は大変なものです。(太田)

(続く)