太田述正コラム#11680(2020.11.26)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その47)>(2021.2.18公開)
「さらに、迎撃か出撃かという戦術の選択において、京下りの文士の御家人で宿老の大江広元・三善康信の進言を、北条政子や義時が採用した点も重要である。
もう一つの選択肢である迎撃戦術を取っていたら、幕府の基盤である東国武士が離反する恐れがあっただけでなく、長期戦となれば畿内近国・西国の武士たちが大量に追討軍として組織される可能性があったからである。・・・
一方、マルチな才能を持った多芸多才な後鳥羽<(注120)>は、すべてを一人でこなそうとする傾向が顕著であった<(注121)>。
(注120)「歌人としては当代一流であり、『新古今和歌集』の撰定(せんてい)には自ら深く関与し、琵琶(びわ)、箏(そう)、笛、蹴鞠(しゅうきく)、囲碁、双六(すごろく)にも打ち込んだ。また流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)、相撲(すもう)、水泳など武芸を好み、北面(ほくめん)に加えて西面(さいめん)の武士を置き、さらには自ら盗賊追捕(ついぶ)の第一線に加わったこともあった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87-65564
「自ら日本刀を打ち、後世に語り継がれる銘刀(銘の切ってある作品)まで残しています。」
https://www.touken-world.jp/tips/23399/
(注121)このことを裏づける記述をネット上で見つけることはできなかった。
⇒同時代人に、「ラテン語・ギリシア語・アラビア語などの6つの言語を習得し、・・・優れた詩人であり、・・・科学に強い関心を示<すとともに、>・・・馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示した・・・フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)<(1194~1250年)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%922%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
がいますが、後鳥羽同様、フリードリヒも、「彼は教皇庁や北イタリアの都市国家と対立し、ローマ教皇から2回の破門を受けた。治世をイタリア統一のために費やしたが、教皇庁と都市国家の抵抗によって悲願を達することなく没した。また、イタリアに重点を置いた彼の施策は帝国に混乱をもたらした(大空位時代)」(上掲)と、政治家としては成功を収めることができなかった点でも似ています。
しかし、それは、「多芸多才」であったこととは無関係ですし、フリードリヒ2世に関しても、「すべてを一人でこなそうとする傾向が顕著であった」形跡はありません。(太田)
確かに、後鳥羽が練った二段構えの戦略は杜撰でも楽観的でもなかった。
また、卿二位の進言を採り入れ、藤原秀康の報告を待って動くこともあった。
しかし、後鳥羽に異論を唱える人は少なく、周囲には秀康のようなイエスマンばかりが集まった。
そして、最終的な選択と決断は後鳥羽が一人で行った。・・・
要するに、京方は「チーム京都」ではなく、後鳥羽が監督・裏方・キャプテンを兼務する「後鳥羽ワンマンチーム」とでもいうべきものであった。
その上、・・・後鳥羽には鎌倉や東国武士に対するリアリティ(現実感)が欠けていた。
たとえば、押松派遣のタイミングである。
鎌倉は押松にとって不案内な地であり、平穏な時でも対象の御家人を探し出し、院宣を伝えるのは容易なことではない。
にもかかわらず、後鳥羽は伊賀光季の討伐後に押松を一人で鎌倉に送り込んだ。
⇒坂井自身が、道中、押松は三浦胤義の使者と一緒だったと記しているところ、これは、自分の兄への使者の派遣は兄を味方に引き入れることには役に立たないだろうが、院宣/官宣旨情報の拡散には資するだろうと考えたことに加え、道中、押松に、鎌倉内での諸目的地の土地勘を繰り返し叩きこませるのが狙いだったのではないでしょうか。
「一人で鎌倉に送り込んだ」わけではなかったでしょ、ということです。(太田)
ただ、すでにその時には、土地勘のある三浦胤義の使者や、緊急事態を報せる光季の使者の報告によって鎌倉は騒然たる状況になっていた。
その結果、押松は簡単に捕縛され、院宣は対象の御家人の目に触れることなく握りつぶされた。
⇒補足しつつ繰り返しますが、「以仁王・・・の令旨<が>源行家により、全国各地の源氏や八条院の支配下にある武士達に伝えられ<たことが、>・・・東国における<対平家>挙兵<を惹き起こした>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
ところ、平家打倒の令旨が発せられた、という伝聞だけで彼らが動いたはずがないのであって、承久の乱当時においても、鎌倉在の主要御家人達は、伝聞だけで、院宣/官宣旨を受け入れるか拒否するかを決めるはずがない、というのが私の見解であるわけです。(太田)
また、後鳥羽が東国武士の一族内の競合・対立を利用しようとした点は評価できる。
しかし、だとすれば、兄三浦義村と競合する胤義を用いて、当の義村を取り込もうと工作するのは自己矛盾である。
これも東国武士に対するリアリティの欠如のなせるわざといえよう。・・・」(169~170)
(続く)