太田述正コラム#11686(2020.11.29)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その50)>(2021.2.21公開)
「6月5日、大井戸・河合で木曽川を渡った武田・小笠原の鎌倉方東山道軍に対し、京方は奮戦したものの、子の帯刀左衛門惟忠(たてわけさえもんこれただ)を討たれた大内惟信は戦場から逃亡、蜂屋入道は負傷して自害、その子蜂屋三郎も戦死し、京方東山道軍は悉く退却した。
そこで、武田・小笠原軍は下流の鵜沼渡に向けて進撃を開始した。
「慈光寺本」によれば、鵜沼を防禦していた京方の神地(こうづち)頼経<(注122)>は、人の身にとって命ほどの宝はないから、降参した方がいいという上田刑部の勧めに従い、泰時のもとに参上した。
(注122)美濃源氏(『吾妻鏡』)。
http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/371488746.html
ところが、泰時は・・・弓矢の道に生きる武士となっては、京方に付くならが専ら京方になり、鎌倉方に付いたならば専ら鎌倉に味方すべきなのに、そうはせず、のこのことやってくるとはけしからん・・・といって見せしめのために神地父子ら9騎を梟首(さらし首)にしたという。
もっとも、『吾妻鏡』6月20日条に、神地頼経は乱後に生け捕りにされたとあり、この時に梟首されたかどうか定かではない。
「慈光寺本」が泰時の正義感・純粋さを称揚するために挿入した感もある。
⇒「慈光寺本」の信頼性について語るに落ちた、とはこのことですね。(太田)
しかし、武田・小笠原のごとく、恩賞のために行動し、場合によっては裏切りも辞さないという価値観と、忠臣二君に仕えずといった、裏切りを許さない価値観とが当時の武士社会に混在していたことの表れとみることはできよう。
⇒こうなると、話は逆で、鎌倉時代末以降ならともかく、「当時の武士社会に」は、まだ、「裏切りを許さない価値観」しか基本的になかったのではないか、と言いたくなります。(太田)
<なお、>「慈光寺本」には宇治・瀬田の合戦の叙述がない・・・。・・・
6月13日、宇治に向かった北条泰時は、・・・翌朝に開戦する心づもりであった。
ところが、三浦泰村<(注123)>と足利義氏は泰時に告げず、勝手に宇治橋に攻め寄せた。・・・」(177~178、184、188)
(注123)1184/1204~1247年。「三浦義村の次男。・・・烏帽子親である泰時の娘を娶って北条氏の一門衆となり、・・・1238年・・・には幕府の評定衆の一人にまでなって幕政に参与するようになる。さらに泰村は三浦氏の幕府内における権勢を強めようと、鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経に接近して親密な間柄にまでなるようになり、その権勢は北条氏をも凌ぐようになったと言われている。・・・
宝治元年(1247年)、時頼と・・・北条<時頼>の外戚になった・・・安達景盛の策謀にかかった泰村は鎌倉で挙兵した。しかしこの反乱は結果的に失敗で、北条軍と安達軍の前に三浦軍は大敗し、追いつめられた泰村は妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害して果てた(宝治合戦)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B3%B0%E6%9D%91
「<安達>景盛の娘松下禅尼は3代執権北条泰時の嫡子北条時氏に嫁ぎ、4代執権北条経時、5代執権北条時頼を産む。宝治元年(1247年)の宝治合戦で有力御家人三浦氏を排斥し、執権北条氏の外戚として安達氏の地位を固めた。・・・
4代泰盛は、時頼の嫡子北条時宗に年の離れた実妹(覚山尼)を養女(猶子)として嫁がせた。覚山尼は9代執権北条貞時を産み、泰盛は時宗の舅、貞時の外祖父として北条氏以外では最有力の御家人の一人となる。元寇に際して越訴奉行、恩賞奉行を務めた。・・・
<しかし、>北条得宗家に仕える御内人の代表である内管領の平頼綱と対立し、・・・1285年・・・の霜月騒動で頼綱の讒言により、執権となった貞時の命で討たれ、一族の多くが殺害された。
平頼綱が平禅門の乱で貞時に滅ぼされた後、・・・<泰盛の兄の子である>安達泰宗の娘(覚海円成)が貞時に嫁いで14代執権北条高時を産み、再び北条得宗家外戚として長崎円喜らと共に幕政に関与した。幕府滅亡にあたり時顕は北条一門と共に東勝寺で自害した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E6%B0%8F
⇒北条氏から嫁を貰い続けた足利氏、と、北条氏に嫁を提供し続けた安達氏、は、前者は無傷で、後者は傷だらけになりながらも、鎌倉幕府の滅亡時まで、生き残ったところ、この滅亡時に、前者は反逆して日本の権力を奪取し、後者は反逆せずして北条氏と共に滅びたわけですが、初代の忠久が、「1203年・・・頼朝亡き後起こった比企能員の変に連座し一時、<薩摩以外の>守護職を失うことにな<ったものの、>・・・忠久の長男である島津忠時は承久の乱では鎌倉幕府方の有力武将として相当の武功を挙げたとみられ、薩摩国・大隅国・日向国の他、若狭国守護職や伊賀国・讃岐国・和泉国・越前国・近江国など各地の地頭職も得るなど鎌倉幕府でも巨大な御家人とな<った>」島津氏は、「3代・島津久経が元寇を機に下向して以来一族の在地化が本格化し、4代・島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没し・・・1333年・・・に5代・島津貞久が後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加<し、>・・・九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し、鎌倉幕府滅亡後に・・・大隅・日向の守護職を回復<する>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
という具合に、足利氏、安達氏、のどちらとも違って、鎌倉時代には足利氏を上回る存在であり続け、鎌倉幕府滅亡後は、南九州の地方勢力として、実に、室町、安土桃山、江戸、の各時代を通じて生き残り続けるわけです。(太田)
(続く)