太田述正コラム#11688(2020.11.30)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その51)>(2021.2.22公開)
「『吾妻鏡』で注目すべきは、後鳥羽が今回の大乱を「叡慮」からではなく「謀臣」の企みで起きたと主張した、としている点である。
帝王の責任回避、家臣への責任転嫁を図ったものである。
<「慈光寺本」によるところの、逃げ帰った時に>門前払いを受けた三浦胤義らが失望し憤った無責任な姿勢である。
しかし、所詮、帝王とはこのようなものである。
かつて源義経に強要されて頼朝追討の院宣を発給するという失策を冒した後鳥羽の祖父後白河も、詰問の使者として上洛してきた北条時政に似たような対応をし、責任回避・責任転嫁を図った。
この祖父と孫に<は>類似点が多い<わけだが、>・・・今回も期せずして類似の行動を取ってしまったのである。
⇒「慈光寺本」はフィクション文学なので、門前払いの話は恐らくなかったと言っていいでしょうし、『吾妻鏡』の方についても、鎌倉幕府、すなわち、北条宗家、が作った公的史書なのですから、このくだりの記述は、後鳥羽を矮小化し貶める狙いの下で脚色されている、と、見た方がいいでしょう。(太田)
ただ、大乱を起こした後鳥羽が支払う代償は、祖父とは比べものにならないほど大きかった。・・・
7月9日、仲恭から茂仁<(ゆたひと)
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87-66035 >
への譲位が行われた。
後堀河天皇<(注124)>、10歳の践祚である。
(注124)1212~1234年。天皇:1221~1232年。「後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)の三男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)を即位させた。また、茂仁の母である持明院棟子(北白河院)の存在も注目される。彼女の父・基家は源頼朝の妹婿である一条能保の叔父、母は平頼盛の娘(平治の乱の際に源頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる)であり、鎌倉幕府にとっても彼女が生んだ茂仁は皇位継承者として望ましい存在であったと考えられる。
茂仁王も十楽院僧正仁慶(松殿基房の子)の弟子となり、すでに十楽院に入室していたが、まだ正式に出家していなかった。立太子礼を経ずして、仲恭天皇廃位後同日の・・・1221年・・・7月9日・・・践祚、同年12月1日・・・即位。
後堀河天皇はこのとき10歳であったので、父親の守貞親王に太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行わせた。この時代は、主に承久の乱の後処理が行われていた。・・・1223年・・・5月、守貞親王薨去。
・・・1232年・・・10月4日・・・、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位。・・・太上天皇となる。しかしながら、元来病弱であり、院政開始後2年足らず<で>・・・23歳で崩御した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
「王朝の権威の維持に努め,また藤原定家に『新勅撰和歌集』を作らせた。・・・
1232年・・・に・・・勅により編纂に着手したが,<後高倉>上皇の他界を悲しみ稿本を焼却したり,再度の作業過程中にも,対幕府関係をおもんばかる関白道家・教実父子の意向により100首余(おそらく後鳥羽院らの歌)を切り出すなどの経緯を経て,35年・・・成立。・・・内容的には,俊成,良経,家隆,西行ら新古今歌人以外,親幕派の公家藤原道家,西園寺公経や源実朝,北条泰時ら武家の歌が多く,〈宇治川集〉の異名を得たり,承久の乱関係者の歌が除かれるなどの面があった。」
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前日の7月8日には、持明院入道行助(ぎょうじょ)すなわち守貞親王が治天の君として院政を開始した。
後高倉院<(注125)>政である。
(注125)1179~1223年。「安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟に当たる。・・・
乳母は平知盛正室の治部卿局。平家の許で育てられた縁から、・・・1183年・・・7月の平家の都落ちの際には安徳天皇の皇太子に擬され、天皇と共に西国へ伴われる。平家滅亡時に救出されて帰京するが、都では既に後鳥羽天皇が即位していた。・・・
守貞親王は・・・1212年・・・3月に出家。法名・行助を名乗った。・・・皇位が後鳥羽系に移り、自身の皇位の可能性が薄れたことにより、不遇な運命を嘆いて出家したとも伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%B2%9E%E8%A6%AA%E7%8E%8B
摂政も九条道家から前関白近衛家実に代わった。
野口実氏は、こうした宮中の戦後処理において、最も重要な役割を果たしたのは三浦義村であったとする。・・・
治天の君が幕府によって流罪に処されるという前例のない異常事態が起きた。
<そして、このように、>天皇・院の人事権を幕府に握られてしまったのである。」(197、204~205)
(続く)