太田述正コラム#11708(2020.12.10)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その59)>(2021.3.4公開)
「・・・<また、>公然と後鳥羽を批判する作品が現れた・・・。
『六代勝事記』<(注140)>である。・・・
(注140)ろくだいしょうじき/ろくだいしょうしき。「「六代」とは高倉・安徳・後鳥羽・土御門・順徳・後堀河(「当今」)の各天皇を指す(九条廃帝〈仲恭天皇〉は含まない)。後堀河天皇を「当今(今上天皇)」としていることから、承久の乱直後に書かれたものと考えられている。作者は古くは源光行と言われていたが、近年では当時出家・引退していた元左大臣藤原隆忠説が有力視されている。・・・
弓削繁によれば、書名の「勝事」とは、人を驚かすような大事件の意で用いられ、この語から変じて「笑止」という語が生まれたという。すなわち「勝事」は本来濁音ではなくショウシと発音された。・・・
同書はいち早く、乱の敗北の原因を後鳥羽上皇が不徳の「悪王」だったからであり、天皇および神国・日本が否定されたわけではないという論調で書かれている。・・・
こうした見方は、朝廷の権威の低下という事実を覆い隠すことに便利であり、一方で鎌倉幕府にとっても「朝敵」という非難を緩和するために好都合な論理であり、その後の歴史観に影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E4%BB%A3%E5%8B%9D%E4%BA%8B%E8%A8%98
源光行(1163~1244年)は、「清和源氏満政流(あるいは義忠流)<。>・・・1183年・・・に京にいた光行は、平家方であった父の源光季の謝罪と助命嘆願のため、鎌倉に下向し、叔父の飯富季貞の助命を嘆願していた従兄弟の源宗季と共に源頼朝に助命を願った。
その結果は定かではないが、頼朝にその才能を愛されて、そのブレーンとなり、鎌倉幕府が成立すると、政所の初代別当となり、朝廷と幕府との関係を円滑に運ぶ為に、鎌倉・京都間を往復した。
一方で、幕府の高官でありながら、朝廷からも河内守、大和守に任命され、結果として後の承久の乱の際に去就を迷い、後鳥羽上皇方に従ってしまったが、この際も、その才能を惜しんだ人々の助命嘆願のおかげで、重刑を免れた。
源氏物語の研究者で源氏物語の注釈書である『水原抄』の著者であり、また河内本と呼ばれる本文を定めた。
北条泰時の命で和歌所・学問所などを設置した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E8%A1%8C
藤原隆忠(1163~1245年)は、「摂関家である松殿基房の長男に生まれたが、のちに異母弟の師家が生まれると、母方の祖父(藤原忠雅)が太政大臣を務めた師家が、生母の家柄が格上との理由で嫡男とされたことから、隆忠は「落胤」(当時においては庶子の意味)と呼ばれていた。・・・
・・・1179年・・・11月に治承三年の政変が発生し、関白を務めていた父・基房が平清盛によって流刑にされると、隆忠も連座して解官されてしまう。平家が都落ちし源義仲が権力を握った・・・118<3>年・・・12月・・・に権中納言として官界に復帰すると、翌・・・年・・・正月には源義仲の敗死に伴って弟・師家が摂政内大臣を罷免されるが、隆忠は連座せずに同年11月に従二位に昇進する。・・・やがて、・・・左大臣、・・・従一位に昇り、承久の乱直前の・・・1220年・・・に出家して官界から引退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%BF%A0
弓削繁(1946年~)は、静岡大人文(国文)卒、名大院博士課程満期退学、聖徳学園岐阜教育大講師、山口大講師、助教授、岐阜大助教授、教授、明大博士(文学)、岐阜大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E5%89%8A%E7%B9%81
著者に関しては・・・藤原長兼<(注141)>(ながかね)<という>説<もある。>・・・
(注141)?~1214年以降。「藤原北家勧修寺流・・・藤原長方の次男。官位は正三位・権中納言。・・・1214年・・・、出家」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%85%BC
<この書は、>『帝範』<(注142)>(唐の太宗撰による帝王学の書)が挙げる二つの徳、「知人」と「撫民」の重要性を指摘する<ところ、>「知人」とは、太平の世を招来するのは一人の考えによるものではないということをふまえ、君主が臣下と良好な関係を築くという徳であり、「撫民」とは君主が民をいたわる徳であ<って、>この二つを欠いた帝王の政治が悪政なのである。」(234~235)
(注142)「唐の太宗が撰して太子(のちの高宗)に与えた書。四巻一二編。貞観二二年(六四八)撰。・・・「貞観政要」とともに帝王学の教科書として知られる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%9D%E7%AF%84-574676
「帝王たる者の模範となる十二条目について集録。<なお、『臣軌』>は則天武后の撰、二巻。人臣たる者の軌法となるべき、道十章を録す。」
http://rr2.e-meitoku.com/products/4-89619-297-4
「『臣軌』(しんき)は、・・・唐代の典籍。上元2年(675年)3月に高宗の皇后・武則天の命を受けた周思茂、元万頃、范履冰、苗神客、胡楚賓により編纂された。
『臣軌』は2巻10編(国体、至忠、守道、公正、匡諌、誠信、慎密、廉潔、良将、利人)より構成され儒家の伝統的な道徳概念を基礎に、臣下の心構えや忠君を説いた内容であり、当時の官人及び科挙受験者である挙人必読の典籍とされた。<支那>では早くに原本が失われたが、日本では後世まで伝わ<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A3%E8%BB%8C
⇒太宗から『帝範』を与えられた高宗でしたが、彼は、この父太宗が危険な女と見てその後宮から遠ざけた武照(後の武則天)に物の見事に籠絡され、太宗の死後、何と皇后にまでしてしまい、その後すぐに彼女に実権を奪われる羽目になり、更に、彼女によって唐は(高祖、太宗、高宗の)わずか3代にして、一旦ですが、滅ぼされてしまいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
これほどまでに役に立たなかった『帝範』にかぶれた著者・・誰だ?・・が書いた『六代勝事記』なんぞが愚著でないはずがないでしょう。
なお、『帝範』のみならず、さすがに支那では顧みられなくなった『臣軌』まで、日本ではずっと読み継がれたようですが、「儒家の伝統的な道徳概念」を完璧なまでに蔑ろにし、その内容を自らコケにし続けた武則天の撰書たる『臣軌』、や、効能がゼロだった『帝範』、といった外来の、絵に描いた餅的な諸書まで「先進国」からの外来書なるが故に有難がる日本の知識人達って、今でもほぼ健在ですが、彼ら、まことにもって奇特な変わった人々ですねえ。(太田)
(続く)