太田述正コラム#11710(2020.12.11)
<坂井孝一『承久の乱』を読む(その60)>(2021.3.5公開)
「・・・<『六代勝事記』は、>帝王は文章に長じ、自らは武力を率いるべきではないが、後鳥羽はその逆の「文章に疎にして弓馬に長じ」た「帝徳のかけたる」帝王だと痛烈に批判するのである。
⇒「武力」のところが既に無茶苦茶です。
『帝範』を読んだわけではありませんが、その「著者」である唐の太宗(李世民)は、即位前ですが、「武将として優れた才能を発揮し、・・・隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たし・・・626年・・・6月、長安宮廷の玄武門で、<皇太子>李建成と弟の李元吉を殺害し・・・(玄武門の変)・・・<父>李淵<に>8月に<自分>に譲位<させた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90)
人物ですし、即位後も、自分が出撃することは基本的になかったけれど、「兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与え<ることで>、唐軍の軍事力<を>強力<なものとし、>・・・629年・・・、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣・李靖を登用して出兵し、630年・・・には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族<を>唐朝の支配下に入<れた>」(上掲)たという人物であり、そんな彼が、帝王は弓馬に長じるべきではない、的なことを『帝範』に盛り込むはずがないからです。(太田)
ただ、後鳥羽は『新古今集』を親撰し、・・・朝廷儀礼を復興した、文に長じた帝王であった。
著者はそれをあえて無視し、乱は後鳥羽一人の帝徳欠如によって起きたと主張する。・・・
⇒坂井は、「文章」に関して『六代勝事記』を批判するのであれば、私のように、「武」に関しても批判すべきでした。(太田)
『六代勝事記』の影響を受けた作品は少なくない。
1230年代に原型が作られた『承久記』もその一つである。・・・
「慈光寺本」の後鳥羽評をみてみよう。・・・
これによれば、後鳥羽の「御心操」(心ばえ)は世間から「傾ブキ」つまり非難されていたという。
「武芸」を専らにして「兵具」を整え、「御腹悪」(すぐに腹を立てて)気に入らない者を罰し、「大臣・公卿」の邸宅を取り上げては自分の御所とし、「白拍子」を召し集めた上、寵愛する者は内裏の「十二殿」(大内裏の正庁である朝堂院(ちょうどういん))に上げて錦の敷物を踏み汚すなど、「王法・王威」を損なう振舞いは呆れるほどであったという。・・・
『六代勝事記』の帝徳批判と同じ、いやそれをはるかに超える酷評である。・・・
ただ、「慈光寺本」には後鳥羽の帝徳欠如と乱の勃発を結びつける叙述がない。・・・
儒教の徳治主義ではなく、仏教の世界観を根底に置いているからである。・・・
長村祥知<(前出)>氏は、「果報」という人間不可測の原理が歴史を動かす、という「慈光寺本」の歴史観を「果報史観」と呼んでいる。
これに従えば、現世で起きたことの原因は前世にあるわけであるから、現実の出来事をそのまま肯定的に捉えるという傾向が出てくる。
支配のためのイデオロギーによって脚色を加えられることも少ない。
史料としての純粋さが保たれるわけである。・・・
⇒既述したように、私は、そもそも、「慈光寺本」はフィクション文学だと考えているので、坂井のこのような「慈光寺本」評には失笑するのみです。(太田)
承久の乱は、「武者の世」の到来を告げた保元の乱から65年に及ぶ戦乱の世に終止符を打った。
と同時に人々を歴史の回顧、そして反省へと向かわせることにもなったのである。・・・
<また、たまたま、>後高倉・後堀河の宮廷には平家ゆかりのコミュニティが復活し<てい>た。
かくして人々の間に、王家の崇徳院、安徳天皇はもちろん、藤原頼長、信西、俊寛らの貴族・僧侶、源義朝・為朝・義仲や平清盛・知盛・重衡ら源平の武将、人生の半ばにして命を落とした者たちを追慕・鎮魂しようとする機運が高まってきた。
こうした時流を背景に、1230年代から40年代初めにかけて、つまり『承久記』原型の成立とほぼ同じくして、保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱を活写した『保元物語』『平治物語』『平家物語』の原型が作られた。・・・
<結論的に言えば、>「真の武者の世」は承久3年に始まったのである。
承久の乱とは、それほどまでに「画期的な大事件」であり、大きな意味を持つ歴史の転換点であった。」(236~240、259)
⇒この坂井の結論についての私の評価は、次回の東京オフ会の機会にでも譲ることとしましょう。(太田)
(完)