太田述正コラム#11714(2020.12.13)
<福嶋亮大の日本文化論(その2)>(2021.3.7公開)
—————————————————————————————–
[江戸時代末までの日本の文学:梗概]
◎詩歌
「鎌倉時代 (1185~1333) には,藤原定家らが勅撰和歌集『新古今和歌集』 (1205) を編纂し,ここに和歌の伝統が結実した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%AD%A6-110296
「連歌<は、>・・・和歌から派生した詩歌の一形態<であり、>・・・中世に流行した文芸で,短歌の上句と下句,つまり5・7・5の長句と7・7の短句をふつうは数人で交互によみつづけるもの。・・・
各句は独立しつつ前句との2句間に詩趣を構成する。1巻を通じてのテーマはないが,全体の変化と調和を重んじ,そのために全体を統制する式目,作法が定められている。・・・
歴史的には,『古事記』『万葉集』にもその起源と目されるものがあり,平安時代には・・・長・短2句のみの唱和(〈短連歌〉)が多かったが,・・・院政期頃から・・・次第に長く連ねてよむ(〈長連歌〉)ようになり,鎌倉初期から50,100,120句などと連ねるようになり,鎌倉後期には100句が基本型として固定し,百韻と呼ばれた。
百韻を単位として千句,万句という形式があるほか,五十韻,歌仙(36句)等も行われた。
・・・南北朝以後・・・,二条良基・・・の式目書『連歌新式』 (『応安新式』) ,撰集『菟玖波集 (つくばしゅう) 』が成って連歌文学が確立した。・・・救済(ぐさい)<も、連歌の>基礎<の>確立<に与かっているところ>,以後室町時代に宗砌(そうぜい),心敬,宗祇,宗長ら〈連歌師〉と呼ばれる専門家が出て最盛期を現出したが,安土桃山時代の紹巴あたりを最後にしだい衰えた。
作者たちが一座して共同で制作する座の文芸であり,句と句の付け方や場面の展開のおもしろさ(付合)を味わうこととともに,その場の社交的性格が人々を惹きつけた。しかし文芸としての基調が伝統的な和歌的情趣にあった(有心連歌)ため,江戸期に文芸が俗語世界をとりこむことになると,連歌の傍流であった滑稽・諧謔(かいぎゃく)を旨とする無心連歌が,俳諧(はいかい)の連歌となって浮上し,ここからさらに独立した文芸形態として俳諧が生まれて,これ・・・にとってかわ<られ、連歌は、>・・・世襲制度の幕府御用連歌<に堕してしまった>。」
https://kotobank.jp/word/%E9%80%A3%E6%AD%8C-152050
◎随筆
「日本における随筆の起源は[1001年にほぼ完成したとされている]清少納言によって書かれた『枕草子』であるとされる。枕草子における日常的風景に対する鋭い観察眼は「をかし」という言葉で象徴される。その後も、鴨長明の『方丈記』や吉田兼好(兼好法師)の『徒然草』など優れた随筆作品が登場した。
江戸時代に入ると、随筆は武士や町人など様々な階級の人々によって書かれた。この時代の代表的な随筆として、『玉勝間』(本居宣長)、『花月双紙』(松平定信)、『折たく柴の記』(新井白石)、『塩尻』(天野信景)などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E7%AD%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90
⇒私自身は、「日本における随筆の起源は」「成立<が>・・・934年・・・頃といわれる・・・土佐日記」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98
だと思う。
なお、日本における女流随筆、ひいては女流文学の起源は、「成立<が>・・・974年・・・前後と推定される・・・蜻蛉日記」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%BB%E8%9B%89%E6%97%A5%E8%A8%98
だろう。
ちなみに、その作者の藤原道綱母の夫の藤原兼家のもう一人の妻である時姫の子が道長だ(上掲)。(太田)
◎小説
○未分化
宇津保物語:「平安時代中期の物語。作者は源順 (したごう) とする説が有力。 20巻。 970年代頃成立とされる。物語は,清原俊蔭,その娘,藤原仲忠,犬宮の4代にわたる霊琴にまつわる音楽霊験談と,源雅頼の娘の貴 (あて) 宮を主人公とする物語がからみ合って展開する。琴の物語が伝奇的であるのに対して,貴宮の物語はさまざまな求婚者の描写や「国譲」の巻の政争の記述などにおいて写実性が顕著。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E6%B4%A5%E4%BF%9D%E7%89%A9%E8%AA%9E-34941#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8
源順(911~983年)は、「嵯峨源氏で左馬助挙(こぞる)の子。43歳まで学生(がくしよう)であったが文章生となり,勘解由判官,東宮蔵人,民部丞,和泉守,能登守などを歴任した。官位の沈滞を嘆く和歌や長歌,また不遇のわが身を寓喩した漢文体の《無尾牛歌》《夜行舎人鳥養有三歌》(ともに《本朝文粋》)などが知られる。醍醐天皇第4皇女勤子内親王の命によって日本最初の百科辞典の趣の《和名類聚抄(わみようるいじゆうしよう)》(934年ごろ成立)を撰進した」
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%90%E9%A0%86-16879
○純文学
◦短・中編:「9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ・・・作者についても不詳である<が、>・・・男性だったのではないかと推定されている」ところの、『竹取物語』。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E
◦長編:『源氏物語』が最初にして最後?
○大衆文学
「『平家物語』 (1220頃) は日本の国民文学の古典とされ<ている。>」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%AD%A6-110296 前掲
「作者については古来多くの説がある」が、その中には、それを女性とするものはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E
—————————————————————————————–
⇒上の囲み記事からも分かるように、「後鳥羽院の時代に、日本文学の主流が平安朝以来の女房文学から隠者文学へと変わる」という、折口/福嶋説は、
一、詩歌については、一貫してその主流を男性が占めてきたこと、
二、平安朝に出現した、随筆と小説は、どちらも、男性が創始者であること、
三、連歌を確立させた二条良基はその死まで摂政/関白を務めており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E8%89%AF%E5%9F%BA
いかなる意味においても「隠者」ではないし、大衆文学の初物かつ最高傑作というべき『平家物語』の作者に係る諸説中の最有力説は、『徒然草』に出てくるところの、(下野国司が最終官職であった藤原行長に同定する説が有力である)信濃前司行長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A1%8C%E9%95%B7
が出家していたのであれば、最終官職名では呼ばないはず・・但し、「異母弟の信空は法然の弟子であった」(上掲)・・なので、「隠者」であった可能性は低いこと、
から、成り立たないのではないでしょうか。(太田)
(続く)