太田述正コラム#11718(2020.12.15)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その1)>(2021.3.9公開)
1 始めに
表記『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(2017)をシリーズで取り上げます。
亀田俊和(1973年~)は、京大文(史学)卒、同大博士(文学)、現在、京大文非常勤講師、2017年8月より国立台湾大学日本語文学系助理教授(以上、奥書)、博士論文は、「室町幕府施行制度の研究」(2006)、著書は、『室町幕府管領施行システムの研究』(2013)、『南朝の真実 忠臣という幻想』(2014)、『高師直 室町新秩序の創造者』(2016)、『足利直義 下知、件のごとし』(2016)、『征夷大将軍・護良親王』(2017)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B0%E4%BF%8A%E5%92%8C
という人物です。
2 『観応の擾乱』を読む
「・・・観応の擾乱とは、室町幕府征夷大将軍足利尊氏および執事高師直と、尊氏弟で幕政を主導していた足利直義が対立し、初期幕府が分裂して戦った全国規模の戦乱である。・・・
室町幕府発足の大きな契機となったのは、建武2年(1335)7月(6月説もある)に勃発した中先代の乱<(注1)>である。
(注1)「建武の新政により、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良<(なりよし/なりなが)>親王を長とし尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置された。しかし建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していた。北条氏が守護を務めていた信濃国もその1つで、千曲川(信濃川)周辺ではたびたび蜂起が繰り返され、足利方の守護小笠原貞宗らが鎮圧にあたっていた。
1335年・・・6月には、鎌倉時代に関東申次を務め、北条氏と繋がりがあった公家の西園寺公宗<(きんむね)>らが京都に潜伏していた北条高時の弟北条泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を擁立して政権転覆を企てた陰謀が発覚する。公宗らは後醍醐天皇の暗殺に失敗して誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。
信濃に潜伏していた時行は、御内人であった諏訪頼重・・・らに擁立されて挙兵した・・・。時行の信濃挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。・・・
勢いに乗った時行軍は武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍する。・・・
直義は尊氏の子の幼い足利義詮や、後醍醐天皇の皇子成良親王らを連れて鎌倉を逃れる。鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、直義は鎌倉を落ちる際に・・・護良親王を殺害させている・・・。鎌倉に護良を将軍・時行を執権とする鎌倉幕府が再興され建武政権に対抗する存在になることを恐れていたからと考えられている。・・・
時行は鎌倉に入<る。>・・・
時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は要請を拒否する。8月2日尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与える。・・・
諏訪頼重が鎌倉勝長寿院で自害して、時行は鎌倉を保つこと20日余りで逃亡する。・・・
尊氏は鎌倉において、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞を分配を行うための袖判下文を発給し、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反する(延元の乱)。・・・
時行は鎌倉を逃れた後も各地に潜伏し、南北朝成立後は吉野の南朝から朝敵免除の綸旨を受けて南朝に従い、新田氏や北畠顕家の軍などに属して足利方と戦うが、1352年・・・足利方に捕縛され、翌年、鎌倉において処刑されたと伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%85%88%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1#:~:text=%E4%B8%AD%E5%85%88%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1%EF%BC%88%E3%81%AA%E3%81%8B,%E3%81%A8%E5%91%BC%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82
北条泰家(?~1335年頃?)は、「鎌倉幕府の第9代執権・北条貞時の四男。14代執権・北条高時の同母弟に当たる。・・・幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E5%AE%B6
北条時行(1325年以降~1353年?)「の落胤、末裔を称する家は多く、例えば賤ヶ岳の七本槍の一人である平野長泰や、後北条氏家臣の板部岡江雪斎・・・である。
岡野氏、横井氏(子孫には横井小楠)や平野氏(尾張平野氏、子孫に平野長泰)など時行の子孫を称する家系もある。なお、近年黒田基樹は後北条氏第2代に数えられる北条氏綱の正室であった養珠院殿が後北条氏家臣で執権北条氏の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している。ゆえに、あくまで可能性だが養珠院殿の子孫(子の北条氏康など)は時行の子孫であると考えることもできる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%A1%8C
袖判下文(そではんくだしぶみ)は、「だいたいにおいて四位以下の貴族・武士が在地や地下に下すもので,受領以外の者が知行国主の命で国務を沙汰するとき,受領が管国以外の国務を沙汰するとき,領家が所領を支配するとき,あるいは源頼朝や足利尊氏等武士の棟梁が臣下に下す文書に用いられた。普通発給主体者自身が単独で署判を加えるが,署判の位置によって,袖判下文,奥上署判下文,日下署判下文の三つに分けられる。袖判が最も尊大で,日下署判が最も鄭重な形であるが,だいたいにおいて袖判は四位以上,奥上署判は四,五位,奥下・日下署判は六位以下の者と考えることができる。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A2%96%E5%88%A4%E4%B8%8B%E6%96%87-1356760
中先代の乱とは、後醍醐天皇らの勢力に滅ぼされた鎌倉幕府最後の得宗・・・北条高時の遺児時行(ときゆき)が、信濃国で挙兵して建武政権に対して起こした反乱である。
鎌倉幕府を「先代」、室町幕府を「当代」と称した場合、時行が「中先代」にあたることから「中先代の乱」と称される。」(ii、1)
⇒「時行<は、>・・・後醍醐天皇より南朝への帰属を容認された<際>、父高時に対する朝敵恩赦の綸旨も受けて<おり、>時行が鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝、いわば仇敵と手を組んだ理由<については、>・・・育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説もある」(上掲)ところ、
一、まず、北条得宗家の行動原理は一貫して北条得宗家の存続と隆盛、つまりは自家中心主義、以上のものではなかったと私は見ており、そのことは時行にもあてはまるとすれば、(実父)高時の名誉回復への動きが説明できるし、(養父)諏訪頼重仇討説も恐らく正しいということにもなり、
二、足利直義(や義詮)は、(聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想信奉者に基づく)武家総棟梁最有力候補家の幹部(達)として、自家中心主義者たる北条得宗家(含む北条時行)、及び、日蓮主義者たる後醍醐天皇、双方を打倒しようとし、
三、後醍醐天皇は、日蓮主義者として、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想信奉者であった後鳥羽上皇を評価しておらず、従って、後鳥羽を打倒した北条得宗家(含む北条時行)に対してもさして含むところがなかったからこそ、(敵の敵は味方ということはあったとしても、)時行の帰順を受け入れ、その高時恩赦の願いも聞き入れた、
というのが私の見解です。
では、足利尊氏は?
それは、すぐ後で。(太田)
(続く)