太田述正コラム#11720(2020.12.16)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その2)>(2021.3.10公開)
「・・・ところが、勝った尊氏は後醍醐の帰京命令に従わず、無断で反乱鎮圧に功績があった武士に恩賞として所領を給付するなどした。
こうした一連の行動は、尊氏にしてみれば中先代の乱の戦後処理を行い、北条氏残党を完全に鎮圧するための必然的な措置であったと考えられる。
だが、彼の行動は傍目にはまるで将軍として振る舞っているように見えた。
これを建武政権に対する謀叛と解釈した後醍醐天皇は、11月19日に尊氏・直義兄弟を朝敵と認定し、新田義貞を大将とする官軍を出動させる。
しかし、当の尊氏は、建武政権下において後醍醐から倒幕の恩賞として高い官職と膨大な所領、そして強大な権限を与えられており、天皇と戦う意思をまったく持っていなかった。
⇒「中先代の乱に赴く際、足利尊氏は征夷大将軍の地位を後醍醐天皇に要求して断られたが、かつてはこのとき尊氏が独自の幕府樹立を企んでいたのではないかとされていた。しかし2018年の研究では、その時点で尊氏に武家政権樹立の意志があったことはほぼ否定されて<いる>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%A1%8C
らしいところ、このくだりは、「呉座勇一 『陰謀の日本中世史』 KADOKAWA]〈角川新書〉、2018年」に拠っていて(上掲)一応信頼できるとして、私は、尊氏が、後醍醐が拒否するであろうことを承知の上で、尊氏が幕府樹立を決意したという「誤解に基づく」メッセージを、直義を始めとする全国の武士達に伝えたものである、と解しています。
同じことを、尊氏は、自分が朝敵とされた時にもやってのけ、悪役、汚れ役を一手に(尊氏の真意が幕府樹立にあると「正しく」信じ込まされていた)弟の直義に引き受けさせた、と。
結果として、尊氏は、善人と目され、まんまと彼に騙された人々の目には後光すらさして見えたのではないでしょうか。
尊氏は戦略的にそうした、と、私は思うのです。(注2)
(注2)こう書いてから、『太平記』がこれに近い見方をとっていることを知った。↓
「『太平記』などでは汚いやり口(時として必要な場合がある)を嫌う兄の尊氏に代わって自ら手を汚す役割を務めたとされており、同書では親王の毒殺や天皇との折衝における背反行為などは尊氏ではなく、直義が果たしたものとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9
悪役、汚れ役をトップ自らがやり続けた頼朝家が二代3人で滅び、同じことをやり続けた北条得宗家が悲惨な一族全滅に近い終焉を迎えたことから、そういう憂き目に自分の子孫が遭わないように・・。(太田)
尊氏は後醍醐に恭順の意を示して浄光明寺<(注2)>に籠もった。
(注3)「真言宗泉涌寺派の寺院。・・・建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、・・・長時は・・・1264年・・・、36歳で死去し、浄光明寺に葬られ、以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏の菩提寺と位置づけられた。開山の真阿は浄土宗系の僧であるが、当寺は創建当初から兼学(複数の宗派が並存)の寺であり、3世の高恵(智庵和上)の時から四宗兼学となって近世末に至っている(「四宗」は必ずしも4つの宗派に限らず、真言、天台、浄土、華厳、禅、律を含む)。この高恵の時代、・・・1333年・・・には後醍醐天皇から上総国山辺郡(千葉県東金市)と相模国波多野荘(神奈川県秦野市)の寺領を寄進されており、また同年には成良親王(なりよししんのう、後醍醐皇子)の祈願所ともなっている。
浄光明寺は中世を通じ、足利氏および鎌倉公方の帰依を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA
「最後の執権・赤橋守時、<及び、>足利尊氏の正室赤橋登子<、>は<長時の>曾孫にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%95%B7%E6%99%82
尊氏の長兄で家督を継いだが早世した高義、の母親は北条顕時の娘。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E9%AB%98%E7%BE%A9
この北条顕時は、「北条氏の一門・金沢流北条氏の第3代当主。金沢顕時とも称される。父は第2代(実質的には初代)当主で鎌倉幕府の重職を歴任した[(義時の孫にあたる)]北条実時。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%A1%95%E6%99%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%B3%B0 ([]内)
浄光明寺の本山の泉涌寺は、「後鳥羽上皇や土御門上皇、順徳上皇、後高倉院の他にも北条政子や北条泰時も俊芿の下で受戒するなどその勢いは強まり、・・・1224年・・・には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ、・・・1242年・・・正月には四条天皇の葬儀を行うまでになっている。こうした関係から後堀河天皇と四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E6%B6%8C%E5%AF%BA
(続く)