太田述正コラム#11722(2020.12.17)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その3)>(2021.3.11公開)
⇒北条氏と一心同体に近かった足利家の当主にして、(自分の正室こそ北条氏だが)母親は北条氏ではないという珍しい立場であった尊氏(注4)が、後醍醐天皇に恭順の意を表するために、最適な寺を厳選の上籠ったという臭がプンプンしてきますが、この一例からだけでも、尊氏の緻密なしたたかさが窺えるというものでしょう。(太田)
(注4)上杉清子(きよこ。1270?~1343年)は、「本姓は藤原氏。勧修寺流の一流である上杉氏の出身で、・・・上杉重顕(扇谷上杉家祖)、上杉憲房、日静の姉妹。上杉憲顕(山内上杉家祖)、憲藤(犬懸上杉家祖)兄弟と上杉重能(宅間上杉家祖)は甥で、山名時氏は従兄弟に当たる。・・・足利貞氏の側室。足利尊氏、直義兄弟の母。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B8%85%E5%AD%90
尊氏の祖父の家時も、北条氏の正室ではなく、上杉氏<であるところ>の側室(上杉重房の娘)の子であり、「源頼朝の重臣であった足利義兼以来の北条氏の娘を母としない足利氏当主となった」人物だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%AE%B6%E6%99%82
やむを得ず、直義が足利氏当主の座に就き、主将としてこれを迎撃した。
足利軍は三河・遠江・駿河と東海道各地で連敗した。
尊氏は弟の窮地を見かねてついに挙兵し、12月11日に箱根・竹ノ下の戦いで建武政権軍を破った。」(2)
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[尊氏と直義の器量]
○尊氏
「『源威集』<(注5)>の著者は「たとえ鬼神が近づいてきたとしても、全く動揺する気配がない」と尊氏の胆力を褒めちぎっている。・・・
(注5)「南北朝時代後期(14世紀後半)に書かれた軍記物。「源氏の威」すなわち河内源氏の武家政権(鎌倉時代及び室町幕府)の正当性とこれを支えた東国武士の活動を中心に描く。著者については結城直光説と佐竹師義説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%A8%81%E9%9B%86
室町時代を代表する武家歌人<であるが、>・・・後醍醐天皇の前でも笙を披露して<いて、>・・・地蔵菩薩を描いた絵画なども伝わっており、画才にも優れた人物だった。・・・
<また、>真言宗・・・天台宗・・・臨済宗・・・真言律宗・・・毘沙門天信仰<、と崇敬、帰依の対象が広かった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F 前掲
○直義
「尊氏が山のように贈られてきた品物を部下たちにすべて分け与えたほど無欲だったという逸話は有名であるが、直義はそもそもそういう贈り物を受け取ること自体を嫌った、と言われている(『太平記』)。・・・
直義は足利一門の渋川貞頼の娘を正室とした他に側室を迎えなかった。・・・
大歌人だった兄の足利尊氏には及ばないとはいえ、武家歌人としては兄に次ぐ和歌の力量を持っていた。・・・
禅宗<一辺倒であり、>・・・夢窓疎石との関わりが深<かったが、>・・・信仰的にも夢窓に深く崇敬した後醍醐天皇や兄の尊氏とは違い、直義個人としてはそこまで夢窓を高く評価していなかったようである。夢窓疎石に始まる夢窓派は旧仏教とも親和性の高い折衷主義的な禅風をとっていたが、直義は純粋禅である無学祖元に始まる仏光派に帰依しており、その点で不満を抱いていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9 前掲
⇒尊氏と直義については、性格が対照的であった、と言うより、器量において、尊氏>>直義、であったのは明らか、と言うべきだろう。
なお、宗教的嗜好においても懐が深かった尊氏が、その実母の弟に日蓮宗の高僧(日静)がいた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B8%85%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9D%99
というのに、日蓮宗を崇敬、帰依の対象としていなかったことは重要だ。(太田)
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⇒既述したことから想像できると思いますが、直義が、その性格から立ち上がるであろうことも、そして、その武士としての器の小ささから失敗するであろうことも、織り込み済みで、尊氏は、満を持して、予定通り、自分自身の(文字通りの)出馬へと漕ぎつけたわけです。
ちなみに、「峰岸純夫<は、>・・・<佐藤進一によって>足利尊氏は躁鬱の気質があったとされ<るところ>、義貞と顕家から討伐を受けたこの時は護良親王を殺害した後悔やその贖罪、恩人である後醍醐帝に刃を向ける背信行為などから鬱状態にあり、遁世しようとする有様であった・・・ため、代わりに直義が軍議を開き、軍勢を纏め上げて出撃<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E
という説もあるようですが、日本語ウィキペディア(下掲)の「双極性障害を患った人物の一覧」に登場する32人中、政治家は、チャーチルとフルシチョフ、の2人だけであって、その他は広義の芸術家ばかりであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E6%A5%B5%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%82%92%E6%82%A3%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 ※
チャーチルはノーベル賞作家でむしろ広義の芸術家に分類されるべき人物で政治家としては私見では失格で大英帝国を過早に瓦解させています(コラム#省略)し、フルシチョフについては、権力からの追放後、うつ病になったけれど、
https://en.wikipedia.org/wiki/Nikita_Khrushchev
追放前も含め双極性障害であった事実はなく、※がそのくだりを依拠している、精神科医の内海健の勘違いではないでしょうか。
本件について結論的に申し上げれば、錯綜を極めた時代であったにもかかわらず、曲がりなりにも、自分及び自分の子孫が将軍であり続ける形で2世紀以上も続いた幕府の創建に成功した、大政治家たる尊氏が、双極性障害などであったはずがない、と私は思っています。(太田)
(続く)