太田述正コラム#1268(2006.5.31)
<Vフォー・ヴェンデッタ鑑賞記(その2)>
3 テーマ
この映画のテーマは、暴政・圧政に対してテロで反撃することは許されるか、です。
このことは、ガイ・フォークスのマスクをかぶっているVが、中央刑事裁判所を爆破した後、一年後の11月5日のガイ・フォークス記念日に国会議事堂(Westminster Palace)を爆破すると予告する、というあたりで明らかになります。
1605年のガイ・フォークス一味による国会議事堂爆破なるテロの未遂事件(コラム#183)は、彼らが、暴政・圧政の対象たる少数派のカトリック教徒の「前衛」として、権力に対して反撃を試みたものでしたが、Vは暴政・圧政の対象たる多数派たる民衆の「前衛」として、政府要人の暗殺や中央刑事裁判所・国会議事堂爆破というテロにより権力への反撃を試みるわけです。
原作が書かれた1980年代には、IRA(注1)によるテロが念頭に置かれていたのに対し、映画が封切られた昨年(日本は今年)には、イスラム過激派によるテロが念頭に置かれていた、という違いはあるものの、いずれにせよ、このテロの是非という重いテーマにこの映画はどんな結論を出していると思いますか?
(注1)ガイ・フォクス一味同様、構成員はカトリック教徒。
結論は、テロは許されない、です。
その第一の理由は、テロはテロリストを堕落させるからです。Vの荒んだ心を描くことでこの映画はこのことを訴えています。
第二の理由は、少数派であれ多数派であれ、(「前衛」は当然のこととして、)「後衛」の大部分が死をも恐れぬ決意さえ持てば、テロによらずして権力に対して反撃することは可能だからです(注2)。最後の最後に民衆が蹶起し、その結果権力が自然崩壊するという成り行きを描くことでこの映画はこのことを強く訴えています。
(注2)この映画では、Vに”People should not be afraid of their governments. Governments should be afraid of their people”という名台詞を語らせている。しかし、「後衛」の大部分に死をも恐れぬ決意を持たせることは容易なことではない。
ただし、民衆が死をも恐れぬ決意さえ持てば、ガンジー流の非暴力主義だけで権力に反撃できるのか、それともやはり、暴力も選択肢に入れなければ権力に対して有効な反撃はできないのか、この映画では答えは出していません。
4 その他
Vは一度もマスクをとることはないのですが、ヒューゴ・ウィービングの演技力と照明によって、あたかもマスクが喜怒哀楽によって表情を変えているかのように見えます。
これは、能楽を見慣れているわれわれ日本人にとっては、さして驚くべきことではありませんが、この映画の見所の一つです。
また、いつものこと(コラム#138)ですが、英国系の俳優が脇役を固めて渋い名演技を見せてくれていました。
もう一つ感じたのは翻訳の限界です。
初めてVとエヴィーが対面した時、Vは、v(ヴイ)で始まる言葉を連発してエヴィーの目を丸くさせるのですが、字幕は、当然ながら、全くそのニュアンスを出すことには成功していませんでした。
読者の皆さんも、私のコラムにひっかけた映画評をぜひお送り下さい。
東チモールについてですが、ここオーストラリアのマスコミは首相と大統領の権力争いが今回の暴動の裏にある、と言っています。
山上に立てこもっている反乱軍の中にカメラを持ち込んだテレビクルーによる1時間番組が昨夜ありました。
指揮官は山道を上ってくる政府軍に対して、殺し合いはしたくない。帰れ!とどなっていました。そしてテレビ記者に首都に戻って政府に話し合いの場を用意するように説得して欲しい、と訴えていましたが、撃ち合いが始まり、テレビクルーは逃げ回っていました。
雨が降る山道を大きな荷物を抱えて安全地帯に
逃げ様としている人達は口々に「リーダーがだらしない」と政府や軍隊のトップへの苦情を
盛んに話していました。
政府は盛んに会合を開いていますが、問題は誰がこの暴動をコントロールしているのか、誰が
担当するのか、まったく結論がでていないとのことです。
まだ当分のあいだ、この「権力闘争的暴動」は
収まりそうにありません。
こんな政府を持ってしまった国民が気の毒ですね。
アメリカとイギリスを並べると、
アメリカの方が独裁というか、極端な方向に流れそうな気がするのに、と思いながら読みました。
>最後の最後に民衆が蹶起し、その結果権力が自然崩壊するという
日本では起こったことが無いし、想像がつかないですけど、もし中国に占領されかかっても政府が毅然と出来なかったら起こるかも知れませんね。