太田述正コラム#11730(2020.12.21)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その7)>(2021.3.15公開)
<コラム#11728の訂正>
導入した[注釈 4] → 導入した
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「師直が行使した権限は多岐にわたる<ところ、>通常、かれは将軍尊氏の執事とされておりもちろんそのとおりなのだが、同時に三条殿直義の執事でもあったと筆者は考えている。・・・
執事高師直にとってもっとも重要であった権限は、・・・将軍足利尊氏の恩賞充行袖判下文の沙汰付を諸国の守護に命じる文書である・・・執事施行状の発給であったと筆者は考えている。・・・
⇒ということは、尊氏が、幕府、ひいては国、にとって「もっとも重要であった権限」を持っていた、と、亀田が言っているに等しいですよね。(太田)
下文付以外にも、師直は多種多様な命令を奉書形式の文書で発した。
執事施行状も含めて、こうした執事が発給した奉書を執事奉書と総称する。
執事奉書を発給した機関は、・・・仁政方<(注10)>(じんせいかた)であったと筆者は推定している。
(注10)佐藤真一は「引付方が下した訴訟判決に対する救済措置を行う越訴機関」、山家浩樹と家永遵嗣は「引付方の上位に位置し、押妨者の罪名決定などの保管機能を果たす機関」、小川信は「恩賞地の知行回復のための訴訟機関」、亀田俊和は「執事奉書の発給を行う執事(後の管領)の政務機関」、という説をそれぞれ唱えている。
「亀田説では、足利尊氏(及びこれを補佐する高師直)と足利直義による室町幕府初期の二元支配における職務の線引きの問題に加え、引付方などの再興を通じて理非究明を重視する鎌倉幕府体制の再興を重視する直義と将軍尊氏の決定を迅速かつ強制的に実施させる(理非よりも実効性を重んじる)師直の政治路線対立が仁政方からの執事施行状(奉書の一種)発給で深刻化し、観応の擾乱の一因になったと解説する。また、同説によれば、仁政方の「仁政」とは将軍から恩賞地・寄進地を与えられながら他者からの押妨によって自力救済が困難な人々を救済するという将軍による仁政を実施するという意味を含んでいたとする。・・・
室町時代中期以後には既に廃止されたらしく、幕府職制に確認できない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%94%BF%E6%96%B9
後年ではあるが、管領細川頼之期に仁政方での審議を経て管領奉書が発給されていることも、その有力な傍証だと考えている。
また、仁政方の人的構成が恩賞方<(注11)>とほぼ一致していることが、管領斯波義将(しばよしゆき)期の史料により確認できる。
(注11)「鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が、恩賞業務の審議・調査のために設置した。・・・建武政府を倒した足利尊氏<もこれを踏襲した。>・・・観応の擾乱によって尊氏と直義が対立して直義とこれを支持する幕府官僚の多くが離反した時、室町幕府の機構の多くが機能停止に陥ったが、恩賞方のみは尊氏派の官僚がそのまま残留したためにこれを免れた・・・幕府組織の再建を主導した後の2代将軍足利義詮は恩賞方を拠点として再建を図り、後にここで御前沙汰と呼ばれる会議を主宰した。後に御前沙汰は義詮の後継者である足利義満によって恩賞以外の重要事項も審議するとともに、将軍の個人的な人選によって選ばれた重臣・側近による事実上の最高諮問機関へと変化していく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E8%B3%9E%E6%96%B9
これは、仁政方が恩賞方を基盤として形成されたことを示すと考えられる。
・・・師直は恩賞頭人として尊氏下文の発給業務に従事していた<ところ、>その下文の実現を命じる施行状を発給するにあたって、自らが管轄していた恩賞方を母体としたと推定できるのである。
執事奉書の発給機関が仁政方と名づけられた理由は何であろうか。・・・
当時、あくまでも建前は直義が一元的に政務を取り仕切り、恩賞充行と守護職補任を例外として尊氏は介入しない体制であった。
しかし、現実には恩賞充行以外にも将軍である尊氏が登場せざるを得ない場面も出てくる。
そうした場合、執事師直が将軍尊氏の意思を承けて奉書を発給した。
それを審議した場も恩賞方であったわけだが、「将軍がわざわざ執事を介して意思を表明するのは、滅多にないめぐみ深いありがたい政治である」という意味で、その場を特別に仁政方と称したのだと考える。
⇒このくだりをそのまま受け止めますが、少し前に、「尊氏<が>・・・「保全機能」中の「特に重視される」機能<も>・・・担った、と考えるのが自然、いや当然」と、私が記したことが裏付けられたわけです。
亀田は、尊氏は、権力のうち、基本的に重要ではない分野を直義に委任していたが、そのような分野についても、例外的に重要なものについては、自ら権力を行使した、と、説明すべきでしょう。(太田)
高師直は、北畠顕家を打倒したあたりから、大した失策もないのになぜか権限が縮小しはじめる。・・・」(19~20、23~25)
(続く)