太田述正コラム#11734(2020.12.23)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その9)>(2021.3.17公開)

 「これに対して幕府は、河内・和泉・讃岐守護細川顕氏<(注14)>を大将とする討伐軍を派遣した。

 (注14)「細川氏は、・・・足利氏の支流。名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。・・南北朝時代に足利尊氏に従って発展し、嫡流は室町幕府の管領家に列する有力守護大名となる。また江戸時代には、傍流から肥後熊本藩54万石の藩主家を出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F
 細川顕氏(?~1352年)は、「細川氏の庶流・・・元弘の乱頃から足利尊氏に仕えて討幕運動で活躍した。<建武の新政が終わる>建武3年(1336年)、尊氏の命で<従兄弟の>和氏と共に四国に渡海し、四国における諸大名や国人衆の統率に功を挙げた。その功績により、讃岐国や河内国、そして和泉国の守護と侍所頭人に任じられ、嫡流の和氏の死後はその弟・頼春と共に細川一門を主導した。その後も尊氏に従って畿内における南朝方の勢力と戦い、多くの武功を挙げた。中でも、南朝鎮守府大将軍北畠顕家との戦い(石津の戦い等)では大きく活躍し、総指揮官である執事高師直と並ぶ軍功第一と見なされた・・・。・・・
 顕氏の系統は、顕氏の官位・陸奥守からその後「奥州家」と呼ばれるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%A1%95%E6%B0%8F
 「<細川氏>和泉上守護家の藤孝<(幽斎)>の子・忠興が、戦国時代末期の<奥州家>当主・輝経の養子となり形式的には奥州細川家を継承したので、近世大名の肥後熊本藩細川家は奥州家の末裔と言うこともできる。もっとも、藤孝が室町幕府の滅亡後織田信長に属して姓を長岡に改めてからは、忠興もまた「長岡与一郎」と称し、本能寺の変の後に藤孝が隠居すると、その所領である丹後12万石を継承しているので、藤孝の嫡流であることにかわりはない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F 前掲
 ちなみに、親子関係だけで言えば、頼春-頼有(細川和泉上守護家初代当主)-頼長-持有-常有-元有-晴員-藤孝-忠興、だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E6%98%A5 等
 細川頼春(1299/1304~1352年)は、「のちに代々室町幕府管領職を世襲する嫡流細川京兆家の祖。・・・
  建武3年(1336年)のうちに顕氏が河内と和泉、ついで讃岐・土佐の守護となっており、和氏・頼春らの兄弟は、この時点では庶流で奥州家の顕氏に遅れをとっていたことになる。」(上掲(本体))

 しかし顕氏軍は、・・・連戦連敗し・・・京都に逃げ帰<った。>・・・
 幕府は細川顕氏の河内・和泉守護を罷免して敗戦の責任を取らせ、高師泰<(注15)>(もろやす)(師直の兄。弟説もある)に交代させた。・・・

 (注15)?~1351年。「『高階系図』では師直の兄とされているが、同時代の史料である『園太暦』では「舎弟師泰」と記されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E6%B3%B0

 12月14日、高師泰軍3000騎あまりが出陣し・・・<やがて>2万騎あまりに達したといわれる。・・・
 続いて執事高師直が総大将として、同月26日に出陣し・・・<やがて>6万騎あまりとなった。・・・
 『太平記』の誇張もあるだろうが、・・・大軍であったことは間違いない。・・・
 年が明けた・・・1348<年>正月5日・・・楠木軍は・・・四条畷に本陣を敷いた・・・師直軍を・・・急襲し<たが、>・・・多勢に無勢、わずか1日の戦闘で・・・敗北し、弟正時と刺し違えて自決した。
 勝利した師直軍は、その勢いで南朝の本拠地である吉野へ向かった。・・・
 最終的に後村上天皇は吉野の防衛を放棄し、奥地の賀名生<(注16)>(あのう)に退いた。・・・」(33、35~38)

 (注16)1348~1354年、1373~1392年、南朝の行宮。「もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が行宮を吉野(吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年・・・、いったん統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという伝承が残る。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%90%8D%E7%94%9F

⇒初代忠久に頼朝実子説がある島津氏、や、新田氏を僭称した徳川氏、はさておき、徳川幕府初、ひいては幕末、まで残った清和源氏の、大きな大名家としては、上出の細川氏、以外に、(河内源氏の源義家の末弟・源義光の子孫である義光流源氏の一族である、甲斐源氏、と同族である常陸源氏、の)佐竹氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F
くらいしか思い浮かびませんし、細川氏だって、「注14」からも分かるように支流がたまたま生き残ったに過ぎません。
 室町幕府初期に、足利将軍家を中心に隆盛を誇った河内源氏・・ほかに、源義家の子・義国を祖とする新田氏の一門である山名氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%B0%8F
が思い浮かぶ・・の殆どが室町時代中にヘタってしまったのは、不思議と言えば不思議ですね。(太田)

(続く)