太田述正コラム#11736(2020.12.24)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その10)>(2021.3.18公開)
「このあたりで、足利尊氏の子であり、観応の擾乱のキーパーソンとなる足利直冬の経歴を紹介したい。
足利直冬は、・・・1327<年>に誕生したと推定されている。
母親は、越前局(えちぜんのつぼね)とされる。
幼少期の直冬は、鎌倉・・・で僧をしていた。・・・
成長した直冬は還俗して上京し、尊氏に子として認知してもらおうとした。
しかし、尊氏は絶対にこれを認めなかった。
仕方なく直冬は、・・・<ある>僧侶の許で詫び住まいをして勉強を続けた。
<この僧が、>直義に直冬を紹介した<ところ、>直義は彼を養子として「直」の一字を与えて直冬と名乗らせた。・・・
・・・四条畷の戦いが高師直の圧勝で終わった後、紀伊国で南朝軍が蜂起した。
直義は養子直冬を紀伊に遠征させ<た。(注17)>・・・
(注17)「直義はその討伐に直冬の起用を進言し、尊氏は嫌々ながらもこれを受け入れたとされる。尊氏が討伐軍の大将に直冬を任命したという事は、尊氏が直冬に父子の名乗りを挙げた、つまり認知したという事になる。直義は光厳上皇の院宣を奉じ、直冬は従四位下左兵衛佐に叙任されて討伐軍の大将として初陣を飾った。
・・・尊氏は直冬が戦功を立てた事を内心で苦々しく思い、義詮、赤橋登子や高師直、仁木義長、細川顕氏らも冷たい態度を示したと『太平記』にはある。ただ一方で養父の直義や一部の武将からはその能力と共に高く評価された。そして、この時の一件が尊氏や義詮に対する憎悪へと変貌していく一因となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%AC
直冬は、養父直義の期待に見事に応えた。
しかし、実父尊氏はまったく喜ばなかった。
ようやく渋々認知して尊氏邸への出仕は許したが、その扱いは二木<(注18)>、細川といった家臣並みだった。
(注18)「二木氏は信濃小笠原氏の支流。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%A8%E9%87%8D%E9%AB%98
「小笠原氏<は、>・・・清和源氏の河内源氏の・・・甲斐源氏・・・<の>庶流・・・
小笠原氏の祖の小笠原長清・・・の弟<は、>・・・南部氏の祖の南部光行」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F
また執事高師直も主君である将軍尊氏に同調して、直冬を冷遇したらしい。・・・
観応の擾乱の主原因の一つである、直冬の問題がここに醸成されたのである。
尊氏が実子直冬をここまで嫌った理由については、尊氏の正妻赤橋登子<(注19)>(とうし)が直冬を忌み嫌ったなどの諸説があるが、史料的に裏づけることはできない。
(注19)1306~1365年。「北条氏一族では得宗家に次ぐ高い家格を有した赤橋家の出身。父は北条久時、母は北条宗頼の娘。兄には、鎌倉幕府の最後の執権となった守時(同母兄)、最後の鎮西探題となった英時などがいる。・・・息子に室町幕府第2代将軍・足利義詮、初代鎌倉公方・足利基氏、娘に鶴王がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%A9%8B%E7%99%BB%E5%AD%90
「北条氏 (赤橋流)<の>・・・始祖は北条重時(極楽寺流)の次男北条長時。極楽寺流のなかでは嫡流に当たる。長時が第6代執権となったほか、最後の執権(第16代)守時をも出すなど、北条氏の一族では、得宗家に次ぐ高い家格を有しており、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F_(%E8%B5%A4%E6%A9%8B%E6%B5%81)
ともかく生理的に嫌っていたことは確かであるようだ。・・・」(38~40)
⇒まさか。
以下の事実関係に目を通してください。↓
「登子<は、>・・・1333年・・・に夫・高氏が、後醍醐天皇の呼びかけに応じた叛乱勢力の鎮圧のため総大将として出陣した際には、千寿王とともに人質として鎌倉にとどめ置かれたという(『太平記』)。その後、夫が叛乱勢力に合流すると母子は鎌倉を脱出した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%A9%8B%E7%99%BB%E5%AD%90
「高氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%A9%AE
「足利尊氏・・・の庶長子<で>・・・母は足利氏の一族の加古基氏の娘・・・<である、>竹若丸<は、>・・・伊豆走湯山の伊豆山神社に居住した。・・・1333年・・・5月、父の尊氏が鎌倉幕府に対して謀反を起こして六波羅探題を攻撃したため、走湯山密巌院別当であった覚遍(母の兄)に伴われて山伏姿で密かに上洛しようとしたが、駿河浮嶋が原(現在の静岡県沼津市)で幕府・北条氏の刺客によって刺殺された。・・・尊氏は後年に竹若丸と覚遍の後世供養を行なっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%AB%B9%E8%8B%A5%E4%B8%B8
加古基氏(?~?年)は、「足利氏の第4代当主・足利泰氏の子で、下野足利荘加古(加子)郷を領したため加古氏を称した。」<(ちなみに、尊氏は、足利氏の8代当主。)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E5%8F%A4%E5%9F%BA%E6%B0%8F
正式な人質でもなかった、しかも、庶子だった、竹若丸でさえ殺された(注20)のに、臨戦態勢の鎌倉から正式な人質の3歳児のみならず、その母親まで脱出できたというのですから、この母親(登子)の同母兄であった時の執権の守時・・但し、最高権力者は元執権で得宗の北条高時だった・・が、(恐らくは鎌倉幕府滅亡は避けられないと判断しつつ、)逃がしてやったに決まっているではありませんか。
(注20)この時、次庶子の直冬(当時は新熊野(いまくまの))が、既に鎌倉の東勝寺に喝食として住み込んでいたのならば、どうして殺されなかったのか不思議だが、住み込む前で所在地がはっきりしなかった、及び/または、尊氏が(母親の地位が低いので?)実子として認知していなかったおかげで殺害を免れたのではないか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%AC 前掲 ←事実関係
その折に守時が登子に尊氏へのその種の伝達を依頼したかどうかにかかわらず、このこともあって、尊氏は、登子・千寿丸を保護すると共に千寿丸を自分の嫡子とせざるをえなかったのではないでしょうか。
「このこともあって」というのは、尊氏は、足利家が、北条氏の嫡流筋から多大な恩義を蒙ってきている上に、その筋と代々濃厚な姻戚関係を形成してきていて客観的には一体化していた、にもかかわらず自分が彼らを裏切ったこと、しかも、その結果、北条氏の嫡流筋の男子をほぼ全滅させてしまったこと、に強い罪の意識を抱いていたはずだからです。
そんな尊氏としては、義詮の競争相手になりうる直冬を認知することをその後も躊躇し続けたのは当然ですし、そんな直冬が直義の養子となり強大な後ろ盾を得たことには当惑するほかなかったことでしょう。(太田)
(続く)