太田述正コラム#11738(2020.12.25)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その11)>(2021.3.19公開)
「1349<年>4月には、・・・足利直冬が西国に下向した。
これ<は、>足利直義と師直の対立を反映していると考えられている。・・・
『太平記』には、上杉重能と畠山<(注21)>直宗(ただむね)が師直兄弟の悪行を讒言したことが記されている。
(注21)「坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山家)。治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政と対立し、・・・1205年・・・に武蔵国二俣川で北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。
その後、重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人である北条時政女と婚姻し、継承された。義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲(もう)けていたが、その妻子を義絶した上での継承であった。これによって桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れをくむ平姓畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。・・・
義純の家系(源姓畠山家)は名門・畠山家の名跡を継承したことから、後に足利一門の中で別家扱いの足利尾張家(武衛家、いわゆる斯波家)に次いで高い序列に列せられ、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けることになる。
紀伊および河内・越中の守護をおおむね務め、分家は能登守護を務めた。・・・
。江戸時代においては旗本や高家として数家が残った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%B0%8F
しかし彼らの讒言の内容は、具体的には一切記されない。・・・
そして『太平記』でさえ、尊氏・直義兄弟が彼らの讒言をまったく信用しなかったと述べている。
そこでこの二人は、学識ある僧侶と結託した。
それが、妙吉侍者(みょうきつじしゃ)という僧である。・・・
足利直義<は、>・・・疎石に・・・紹介され<たこともあり、>・・・妙吉も崇敬した。<(注22)>
(注22)「妙吉侍者・・・は無窓国師の隆盛ぶりを聞くと羨ましくなり、仁和寺にいた志一上人(しいつしょうにん)という怪しげな妖術使いに人の心を掴む密教の秘法を習い、21日間に渡って修業を行った。
すると、その効果は立ちどころに現れて、全てが自分の思い通りになるようになった。
この妖術にかかった無窓国師は、妙吉侍者の事を頼もしい者と思うようになり、ある時、直義がいつものようにやって来た時に言った。
「毎日のようにお越しになって学問を積まれる事は、実に素晴らしい事で拙僧も強くおすすめするところです。しかしながらご自宅からここまでは大変遠く、お通いになるのはとてもお大変でございましょう。
そこで今後は、これにいる妙吉侍者という拙僧の同門の者をお側に置かせて頂きます。
この者は、禅の教義に通じ、達磨大師の真意もしっかり理解しておりますので、誰に聞いてもらってもその学識の豊かさは恥ずかしくないものでございます。
拙僧のもとに通われている時と変わらずこの者から教えを受けるとよろしいでしょう。」
こうして、妙吉侍者はまんまと直義のふところに潜り込むことに成功した。」(『太平記』より)
https://ameblo.jp/daigaku-yoshida/entry-12392682607.html
直義は京都の一条戻橋(もどりばし)に大休寺を建てて妙吉を開基とし、ここに通って禅宗の勉強に励んだ。
幕府の最高権力者が帰依したので、妙吉は貴族や武士の尊敬も多く集めたという。
大休寺は直義の法名ともなった。
ところが、高師直・師泰兄弟だけはなぜか妙吉をまったく尊重しなかった。
⇒妙吉侍者は新興宗教の教祖といったところであり、無窓国師が騙されたとは思いにくいので、その部分は『太平記』の創作として、無窓国師をうまく利用して堅物で視野狭窄の直義に近づき、誑かして自分の信者にしてしまったということでしょう。
その結果、直義は、妙吉侍者のマインドコントロール下に置かれてしまい、その師直兄弟に関する讒言を信じ込むに至ったのだと思われます。
まともであった、師直兄弟、そしてもちろん尊氏、が、こんな輩など相手にしていなかったのは当然です。(太田)
妙吉がこれを不快に思っていることを知った上杉重能・畠山直宗は、彼に接近して親しくなり、師直兄弟の悪行を直義に密告させた。・・・
しかし『太平記』は、重能・直宗と同様、・・・妙吉<によるも>の<も>「讒言」であったと明記している・・・。・・・
どうしてこんな代物が「史実」と認定されてきたのか、筆者は本当に理解に苦しむ。・・・
<とにかく、>妙吉に帰依していた直義がこの讒言に騙されて、師直排除を決断したのも確かである。
ここに、迂遠な権力ゲームに終始していた直義と師直の戦いの火ぶたが切って落とされたのである。」(46~49)
(続く)