太田述正コラム#11740(2020.12.26)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その12)>(2021.3.20公開)
「・・・1349<年>3月14日、京都土御門東洞院(つちみかどひがしのとういん)にあった将軍足利尊氏邸が火災に遭った。
尊氏邸の再建が終了するまで、尊氏は一条今出川(いまでがわ)にあった執事高師直邸に居住することとなった。
⇒この頃までには、尊氏は、新興宗教にイカレた直義とその養子にして自らの庶子である直冬の両名が室町幕府の存続、より端的には足利氏の存続、にとっての大きなリスクであると判断し、この両名を「無害化」する方針を立てており、この時点でわざわざ高師直邸に移ったのは、この方針を実施に移すための細部を師直と直接煮詰めるためだった、というのが私の仮説的見立てです。
この二人が苦心したのは、何ら咎を犯していない直義と直冬をどうやって自滅へと追い込んでいくかだったと思います。
この両名を殺害することは、少なくとも尊氏は、考えていなかったのではないでしょうか。(太田)
『太平記』には、足利直義が高師直の暗殺を企てた記事が見える。
・・・同年6月はじめの出来事であったらしい。
直義は・・・<自分の邸である>三条殿に師直を呼びつけた。
ところが、突然変心した栗飯原清胤<(注23)>の機転により、師直は一条今出川の自宅に逃げ帰ることができた。
(注23)あいはらきよたね、は、「千葉貞胤の弟である粟飯原氏光の子で、父の官途名である下総守を受け継いだ。・・・1347年・・・1月3日から2年間、幕命により政所執事を勤める。のち・・・1350年・・・4月16日厩別当となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E9%A3%AF%E5%8E%9F%E6%B8%85%E8%83%A4
「政所」のウィキペディアには、栗飯原清胤が政所執事を務めたのは、1348~1349年とある。
ちなみに、現在のNHK大河ドラマに登場した摂津晴門が務めていたのが政所執事だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%89%80
政所は、「土地の移転や財産・貸借などに関する訴訟裁判を取扱い、また、幕府御料所の管理、京都の酒屋・土倉の統制や幕府の財政をつかさどった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E6%89%80-138082
「千葉氏<は>・・・桓武平氏良文流<で、>・・・坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%B0%8F
⇒政所執事は、鎌倉時代以来二階堂氏の世襲であった・・但し、鎌倉幕府の時の政所執事は政所のナンバー3だが、室町幕府の時のはトップ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%89%80
・・のに、恐らく、直義ではなく尊氏が、1347年ないし1348年から1349年の途中まで栗飯原清胤を政所執事に就けた・・その後同年中に、上述の暗殺計画が未遂に終わった後、直義に近かった二階堂行朝<(注24)>を政所執事に戻し、更に同年、佐々木道誉をその後任に据えている・・のは、彼に直義の動向を、直義に最も近い位置から探らせるためだった、と、私は見ています。
(注24)?~1353年。「藤原南家乙麻呂流 二階堂氏・・・当初は北条高時に仕えたが、・・・1335年<から>、・・・1338年<から>、・・・1352年<から、>の3度にわたって政所執事に補任された。また・・・1336年・・・・・・1344年・・・には引付方一番の寄人に任ぜられ、他に評定衆、内談衆も務めるなど広く吏僚として活躍。観応の擾乱では初め足利直義方についたが、のちに足利尊氏方に降った。・・・
佐々木道誉<は、彼の>・・・従兄弟<にあたる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%9C%9D
で、清胤は、恐らく、直義の師直暗殺計画を嗅ぎ付け、それを尊氏に報告し、飛んで火にいる夏の虫とほくそ笑んだ尊氏は、そのことを師直にも報告するよう清胤に命じると共に、師直が三条殿に入る直前か直後に、清胤が師直を逃がした、というストーリーを、暗殺未遂事件後、清胤に流布させることにした、とも。(太田)
その後、師直は病気を装って幕府への出仕をやめた。・・・
閏6月7日には、将軍尊氏が三条殿を訪問して先日の騒動について直義と相談した。
そして同月15日、高師直は執事を解任された。
所領なども没収され、他人に与えられた。・・・
⇒これらも、尊氏と師直が共同で作成した筋書きに基づく動きだろう、と、私は見ています。
世間に、これで一件落着になるわけがない、と思わせるための・・。(太田)
師直の後任の執事に、当初直義は兄師泰を想定していた気配がある。・・・
・・・師泰の妻は上杉清子(尊氏・直義兄弟の実母)の妹であり、彼は将軍兄弟の義理の叔父にあたる。・・・
しかし同月20日に実際に執事に就任したのは師泰ではなく、彼の子息である師世(もろよ)であった。
高師世<(注25)>の母親は不明だが、師泰正妻の上杉清子妹であったとすれば、彼は将軍兄弟の従兄弟であったことになる。・・・」(51~54)
(注25)のちに師直が復権すると再び師直が執事に返り咲く。まもなく観応の擾乱が勃発すると、師直・師泰と共に尊氏を擁し直義と戦ったが敗れた。尊氏と直義が和睦すると師直・師泰らと共に出家するが、上杉能憲らによって武庫川畔において、師直、師泰ら一族と共に、殺害された。享年不明だが30代から40代くらい。・・・
師泰・師世の後は<師世の弟の>師秀が継承し、高氏の血脈は保たれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%AB%E4%B8%96
その後、「直義は再び京都を脱出して尊氏と対立し、能憲は尊氏の軍に駿河国蒲原において敗れる。これにより一時流罪となるが後に許され、父の死後は従弟・上杉朝房と共に関東管領として2代鎌倉公方・足利氏満を補佐する。以後上杉家は関東管領の職を世襲する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%83%BD%E6%86%B2
(続く)