太田述正コラム#11746(2020.12.29)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その15)>(2021.3.23公開)
「やがて8月の御所巻で約束されたとおりに、足利義詮が鎌倉から上京した。
10月22日義詮は東国の大名を多数率いて入京した。・・・
高師直以下、京都在住の大名も近江国瀬田まで迎えに参上した。
同月25日、義詮は当時・・・細川顕氏邸に住んでいた直義と面会した。
このときも師直以下が付き従った。
⇒師直らが義詮を護衛するような行動をとったのは、直義はともかくとして、直義シンパの誰かが義詮に危害を加える恐れがある、と、尊氏、師直、の両者が見ていたからでしょう。(太田)
翌26日、それまで直義が住んでいた三条殿に移住し、政務を執りはじめた。・・・
<そして、>義詮は、幕政統括者としての直義の権限を完全に吸収したのである。・・・
鎌倉には、9月9日に義詮の弟基氏(もとうじ)が下向した。
足利基氏<(注26)>は尊氏の実子で、・・・1340<年>に尊氏の正妻赤橋登子を母として誕生した。
(注26)1340~1367年。「初代鎌倉公方(在職:<1349>年9月9日~<1367>年4月26日・・・)。後の古河公方の家系の祖でもある。・・・
鎌倉公方<は、>・・・京都の将軍と同様に「天子ノ御代官」とされた。・・・
[翌1350年尊氏と直義との間に観応の擾乱が起こると、直義方の上杉憲顕に担がれて関東各地を転戦する。尊氏が直義を鎌倉で毒殺したあとは父尊氏に属し、直義方や南朝勢力と対峙し、新田義興を滅ぼすなどして東国武士の多くを結集した。さらに東国武士の信頼を失った執事畠山国清を追放し、尊氏と対立して越後・・・に逃れていた上杉憲顕を関東管領として迎え、憲顕の就任に反対する宇都宮氏綱らを討ち、東国における鎌倉府支配の基礎を築いた。
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%9F%BA%E6%B0%8F-25225 ]
約6年間もの長期間、・・・鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「入間川殿」と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された。・・・
夢窓疎石の弟子である義堂周信を鎌倉へ招き、五山文学や禅の普及を奨励するなど、鎌倉ひいては関東の文化の興隆にも努めた。・・・管弦、ことに笙に強く感心を示し、これを嗜む人物であった<。また、>・・・冷泉家から歌道を教わっていた・・・
基氏の子孫である鎌倉公方系統の足利家(数流に分かれる。・・・)の1つは、江戸時代には喜連川<(きつれがわ)>家として、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名になる。明治時代には華族に列せられ、名字を足利に復して存続している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%9F%BA%E6%B0%8F
「鎌倉府(かまくらふ)は、室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方は足利基氏とその子孫、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%BA%9C
「入間川御陣とは、・・・1353年・・・に鎌倉公方足利基氏が武蔵国入間郡入間川に設置した宿営地。入間川御所とも呼ばれる。観応の擾乱後に上杉氏勢力に対抗するため、9年間にわたって鎌倉府がこの地に移され・・・た・・・。
薩埵山の戦いで弟の直義を破って関東を奪還した室町幕府初代将軍足利尊氏は、直義方であった関東執事(後の関東管領)上杉憲顕を追放して畠山国清を後任に任命し、憲顕が守護を務めた上野・越後は下野の宇都宮氏綱に与えられた。この時期の鎌倉府の体制を学術上において「薩埵山体制」とも称する。氏綱は重臣芳賀禅可一族を守護代として派遣していたが、両国は上杉憲顕が上野を根拠とする南朝方の有力勢力である新田氏を制圧する過程で勢力を築いており、上杉氏や新田氏の支持者が新守護の宇都宮氏に反抗する可能性が高かった。そのため、畠山国清は基氏を奉じて入間川と鎌倉街道の交点近くに鎌倉府の機能を移転させ、北関東の平定にあたろうとしたのである。
ところが尊氏の死後、鎌倉府の長として成長した基氏は上杉憲顕の復権を画策して、国清・氏綱らと対立する。結果、・・・1361年・・・に南朝討伐のための上洛軍失敗の責任を取らせる名目で国清を更迭、これに激怒した国清は翌・・・1362年・・・に領国の伊豆で反乱を起こした。基氏はこれを討つ名目で入間川を離れて伊豆に向かい国清を降伏させ、その後は鎌倉に戻って入間川に再び入ることはなかった。更に同年には宇都宮氏綱の越後守護職が更迭されて、憲顕が復帰して程なく鎌倉に呼び戻された。そのため、「上杉氏に対抗する」という入間川御陣設置の意義が喪失したため、そのまま廃絶されたと考えられている。同時に国清らを中心とした薩埵山体制も終焉を迎えることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%96%93%E5%B7%9D%E5%BE%A1%E9%99%A3
義詮は同母兄である。
しかし叔父直義の猶子となって、直義に養育されていた。
彼が義詮に代わって、わずか10歳で鎌倉府の主となったのである。
兄の入京とは対照的に、供奉の人数も100騎に満たないさびしい行列で、元服以前の下向には洞院公賢も疑問を呈している。・・・」(68、70)
⇒基氏の鎌倉下向は、その養父であったところの、直義が、そのシンパ達に祭り上げられる形で暴発することを回避するために、尊氏と師直がとった直義懐柔措置でしょう。
それは、足利氏の将来に大きな禍根を残すこととなった一方で、足利氏を形の上だけとはいえ明治維新まで大名家として残す、という、ささやかな望外の結果をも、もたらすこととなるわけです。(太田)
(続く)