太田述正コラム#11748(2020.12.30)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その16)>(2021.3.24公開)
「一方、直義は9月に左兵衛督を辞任した。・・・
12月8日、夢窓疎石を受戒師として、直義は出家する。・・・
『太平記』によれば、僧となった直義は錦小路殿の粗末な閑居に住み、ほぼ誰も彼を訪問しなかった。・・・
だが、・・・直冬は肥後国河尻津へ上陸し、西国の武士たちに軍勢催促を行った。
さらに独自に下文を発給して恩賞充行を行い、所領安堵の権限も行使した。・・・
<1349>年9月28日付の文書で、尊氏は直冬に出家を命じ、師直がそれを九州の諸勢力へ伝達した。・・・
10月11日付の文書では、それに上洛命令が加わっている・・・。・・・
そして12月6日付の尊氏の文書では、ついに直冬の討伐命令にまで発展した・・・。・・・
⇒尊氏の政敵への姿勢は、頼朝家及び北条宗家の峻烈な姿勢の羹に懲りて膾を吹くもいいところであり、常に微温的にして一歩ずつ遅れるという憾みがあった、と言うべきでしょう。(太田)
当時幕府は九州探題<(注27)>という統治機関を設置し、足利一門の一色道猷(どうゆう)(範氏(のりうじ))<(注28)>–直氏(なおうじ)父子を探題に任命して九州を統治させていた。
(注27)「鎌倉時代の永仁元年(1293年)に鎮西探題が設置されたが、後にそれを踏襲する形で、室町時代に九州の統治のため設置された。室町幕府は京都に政権を置いたため、鎌倉に設置された鎌倉公方が関東を中心に、奥州探題が東北地方を統治する。九州探題は九州統治を担当し、李氏朝鮮との外交なども行った。後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が京都奪還に失敗して九州へ落ち延び、少弐氏と共に多々良浜の戦いで宮方の菊池氏らを破り、東上した際に一色範氏を大宰府に残したのが始まりである。
だが、九州においては島津氏、大友氏などは従わず、少弐氏とも対立する。後醍醐天皇の皇子である懐良親王が菊池氏に迎えられ、大宰府を奪還して九州に南朝勢力を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%8E%A2%E9%A1%8C
(注28)1300?~1369年。「一色氏3代当主。・・・九州探題に任じられながら管国の守護職に関しては肥前国・筑前国の守護に一時的に任じられたに過ぎず、現地の国人の被官化を進めることができずその権力基盤は脆弱のまま<だった。>・・・観応の擾乱では尊氏派に属する。しかし、範氏父子の働きも空しく九州の武士を味方につけることはできず、少弐頼尚と結んだ足利直冬勢との合戦、南朝の征西大将軍懐良親王とそれを支える菊池武光等の勢力との合戦が続き、・・・1353年)に筑前国針摺原で菊池勢に大敗、その後も敗北を重ね、遂に・・・1355年・・・、南朝勢の侵攻により博多を放棄して長門国へ逃れ、そのまま帰京、隠退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%AF%84%E6%B0%8F
「一色氏は、・・・足利泰氏の子一色公深<が>、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った<もの>。・・・後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E6%B0%8F
⇒尊氏の、斯波氏、細川氏、二木氏、畠山氏、今川氏、一色氏、山名氏等の一族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B0%8F
に対する温かい姿勢は、頼朝家の一族に対する冷たい姿勢(コラム#省略)とは異なるものであり、北条宗家(得宗家)の一族に対する比較的暖かい姿勢を踏襲したと一見言えそうではあるものの、係累のいなかった時政から権勢が始まった北条氏とは違って、係累だらけであった尊氏が、その係累ことごとくに比較的暖かい姿勢をとったのは、いささか気前が良過ぎた感が否めません。
当然、それでは、幕府の要職からの、足利家係累及び家臣以外の武家の「クラウディングアウト」が生じてしまい、幕府発足当初から、しかも南朝という敵とせめぎ合いをしているという状況下だというのに、全国に不満の種をまき散らすことになった、と思うのです。
なお、足利氏の(高(こう)氏、上杉氏等の)家臣に対する姿勢と北条氏の御内人に対する姿勢にも、相通ずる、温かいものがあるように思います。(太田)
この九州探題が、直冬の攻撃目標となった。・・・」(70~73)
(続く)