太田述正コラム#11752(2021.1.1)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その18)>(2021.3.26公開)
「さらに10月には、豊後守護大友氏泰も直冬方に転じ、氏泰の京都代官2人も逃走した。
また日向国では足利一門の畠山直顕(ただあき)が守護を務めていたが、彼は直義から一字拝領して義顕から改名したほどの直義派で、当初から直冬に味方して戦っていた。
同月16日、ついに将軍足利尊氏は自ら軍勢を率いて九州に遠征し、直接我が子を討つことを決意した。・・・
<尊氏の>このときの出陣は・・・1335<年>以来実に15年ぶりのことであった。・・・
10月28日、尊氏は執事高師直以下を率いて出陣した。
義詮が京都の留守を守り、侍所頭人二木<(注30)>頼章・弟義長や政所執事佐々木道誉らがこれを補佐した。・・・
(注30)「二木氏<は、>・・・足利氏の祖義康の長子義清の系統に属する。鎌倉時代に、足利氏嫡流の義氏が承久の乱の功で三河国の守護に任ぜられると、義清の孫実国は三河国額田郡仁木郷(現在の愛知県岡崎市仁木町周辺)に移り住み、仁木太郎を称した。実国の弟義季は、隣接する細川郷を領して細川氏の祖となり、ともに足利氏嫡流の譜代被官となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9C%A8%E6%B0%8F
<ちなみに、>このときの尊氏–師直軍は400~500騎ほどにすぎなかった。・・・
<ところが、>出陣直前の26日夜、足利直義が突然京都を脱出した。
『太平記』によれば、これを知った二木・細川がただちに師直邸に参上し、出陣を延期して直義の行方を捜索することを進言した。
だが師直は彼らの提案を拒否し、予定どおり尊氏と出陣を強行した。
一次史料の『園太暦』<(注31)>では、これらは師直が強く主張したが尊氏が拒否したとする。・・・
(注31)「“中園太政大臣”と称された南北朝時代の公卿・洞院公賢の日記。『中園相国記』とも。南北朝時代における基本史料。
著者の洞院公賢は、太政大臣という高官に就き、また有職故実に通じていた・・・。・・・
記載時期は、・・・1311年・・・2月から・・・1360年・・・3月にわたり、123巻から成る。大半は散逸した・・・
公賢没後、子実夏より三代を経て公数に至り家門断絶となったが、公数在世中に家の記録を順次売却して家計を維持していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E5%A4%AA%E6%9A%A6
⇒もちろん、一次史料である『園太暦』の記述が正しいに決まっています。
そして、この尊氏の温情が、結果として、直義を死に追いやることになるのです。(太田)
九州の直冬勢力を別にすれば、この時点で明確に直義派と言えるのは、越中守護桃井直常<(注32)>(ただつね)と関東執事兼伊豆・上野・越後守護上杉憲顕くらいのものであり、いずれも遠国にいた。
(注32)?~?年。「足利氏一門で家臣。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%BA%95%E7%9B%B4%E5%B8%B8
「桃井氏<は、>・・・祖は足利氏 3代当主・足利義氏の孫である桃井義胤で、上野国群馬郡桃井荘(現・群馬県榛東村桃井)を領して「桃井氏」を称したのが始まり。・・・
室町期、幸若舞の創始した幸若氏の祖となった桃井直詮は直常の孫に当たるという。幕末に活躍した橋本左内<は桃井氏だ>。<直常の子である>桃井直和の孫にあたる日隆 (本門法華宗)は<あの>本能寺を開山している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%BA%95%E6%B0%8F
大高重成などの直義派の諸将は分国を保有していなかったので、大した戦力にはならない。」(77~79)
⇒足利氏縁戚に日蓮宗関係者が「出没」するのが気になってなりません。(太田)
(続く)