太田述正コラム#11921(2021.3.27)
<皆さんとディスカッション(続x4755)/広義の治承・寿永の乱–武家総棟梁指名と武家への権力移譲のプロセス/元寇の後–縄文的弥生性の国際的発揚後の日本>

<山本>

 もう手遅れだけど集客は固定ツイート。
https://www.localfolio.co.jp/blog/twitter-pinned-tweets

<太田>

 なるほど。
 でも、今回は、あれでいいんです。

<亀田俊和>(ツイッターより)

 まさか『観応の擾乱』を読んで本能寺について延々と調べ始める人がいるとは思いも寄りませんでしたが、まあ読み方は自由ですよね☆

<太田>

 コロナウィルス問題。↓

 <まあまあだな。↓>
 「・・・死者は33人増えて計9003人となった。・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQODL250V00V21C20A1000000/

 それでは、その他の記事の紹介です。

 うっせえ。↓

 「「聖火リレーの火を消すべきだ」…五輪放映権持つ米NBC寄稿「偽善・危険性・ばかばかしさ浮き彫り」・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210326-OYT1T50247/

 日・文カルト問題。↓

 <日韓相対差、縮まらず。↓>
 「・・・死者は前日から5人増えて計1721人となった。・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20210327000200882?section=society-culture/index
 <ひつこい。どーでもよさそ。↓>
 「大韓サッカー協会とベント監督が「横浜惨事」を招いた–サッカー韓日戦、負けるしかなかった3つの理由・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/03/27/2021032780009.html
 「<サッカー>韓日戦だけの問題でない…コロナに隠れた韓国代表の無気力症・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/277013
 「「代表チームの胸に日章旗?」…韓日戦3-0完敗後に爆発した韓国ネットユーザー・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/277014
 <同じく。↓>
 「「少女像杭テロ」裁判、8年間空転…日本人がまた欠席・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/277015
 <フン。↓>
 「レクサスに乗りながら反日を叫んでいた崔康旭代表、ついに車を処分・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/03/27/2021032780012.html
 <いや、まだ、ヒットラーが最後に取った票の割合程度だぞ。↓>
 「文在寅大統領の支持率34%、就任以来最低を記録–ギャラップによる調査–「支持しない」が59%に–「LH事態と住宅公示価格ショックが影響」・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/03/27/2021032780014.html
 <アイゴー。↓>
 「中国に対抗する「クアッド」協力を強調…韓国には言及なし=バイデン大統領記者会見–対中けん制外交を明確に・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2021/03/27/2021032780007.html
 「日本の反発に…米国「東海でなく日本海が正しい」と訂正・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/277016

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <英語媒体より。
 いつまで続く泥仕合。↓>
 Xinjiang cotton: Western clothes brands vanish as backlash grows・・・
https://www.ft.com/content/ec7f6f58-aa05-4a58-ad3a-b5c37238bf3b
 <とかなんとか言っちゃってー。↓>
 The United States must confront the Chinese Communist Party and racism at the same time・・・
https://www.washingtonpost.com/opinions/global-opinions/the-united-states-must-confront-the-chinese-communist-party-and-racism-at-the-same-time/2021/03/25/63fe8308-8d9c-11eb-9423-04079921c915_story.html
 <次に人民網より。
 日中交流人士モノ。↓>
 「満開迎えた「中日友好の証」鼋頭渚の桜 江蘇省無錫・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2021/0326/c94638-9833127.html
 <ここからは、サーチナより。
 新しい。↓>
 「中国のポータルサイト・網易に・・・日本で新たに「ウイスキーの日」が制定されたとする記事が掲載された。・・・」
http://news.searchina.net/id/1697936?page=1
 <同じく。↓>
 「・・・中国メディアの百家号・・・記事はまず、温泉には体に良い成分が多く含まれており、「休養、保養、療養」の効能があると紹介。欧州にも温泉はあるが、「療養」としての利用が多いのに対し、日本では「保養や休養」を目的とした利用が多いと違いを説明した。」
http://news.searchina.net/id/1697943?page=1
 <割と新しい。↓>
 「日本人にとって当たり前でも、中国人にとっては「不可思議」なこと・・・
 中国メディアの捜狐・・・記事が挙げた1つ目は「喫煙」に関する習慣だ。日本では喫煙に関する規定が非常に厳しく、たばこの購入には年齢確認が必要で未成年には絶対に販売しないと紹介。小さな子どもでも自由に買える中国とは異なっていると指摘し、「なぜここまで厳しいのか、不可思議に感じられる」とした。中国では喫煙がもたらす害や、副流煙の影響などがあまり周知されていないのか、子どもが近くにいてもたばこを吸う人は珍しくない。
 2つ目は「外食時の支払い」に関することで、日本では家族で食事に出かけると「妻が支払いをする」と紹介。これは日本の家庭では女性が財布の紐を握っているからだと説明した。中国では夫と妻が別々の財布を持っているケースが多いようだ。また、日本ではデートでも割り勘することが多いとした。中国ではデートの際には男性がすべての費用を負担するのが常識となっていて、割り勘はメンツの立たない行為とされるため、非常に驚くようだ。
 3つ目は「どんな悪天候でも新聞が毎朝届くこと」。大雨が降っても朝には決まった時間にポストに新聞が入っており、しかも濡れないようにビニールに入っているとその親切さに感心している。中国では、街のいたるところにある「報刊亭」と呼ばれる販売所で新聞を購入するのが普通だったが、最近ではこれもだんだん少なくなってきている。また、中国にも新聞配達はあるが配達が昼間という違いもある。」
http://news.searchina.net/id/1697941?page=1
 <新しい部分がある。↓>
 「・・・中国メディアの騰訊は・・・「日本を訪れて初めて分かる日本独特の文化」を3つ紹介する記事を掲載した。・・・日本人にとって白米以外は主食ではない・・・ごみ箱が見つからない・・・路上ライブ・・・をよく見かける・・・」
http://news.searchina.net/id/1697944?page=1
 <定番になりつつある。↓>
 「中国生まれの「心の学問」・・・陽明学・・・がこんな日本人に影響を与えていたとは!・・・中国メディアの百家号・・・」
http://news.searchina.net/id/1697937?page=1
 <あれれ、習ちゃん、また、饅頭怖い、言い出した?↓>
 「アジア最強とも称される海上自衛隊、「その実力には警戒心を持たざるを得ず」・・・中国メディアの百家号・・・」
http://news.searchina.net/id/1697940?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 殆ど知る人がいない作曲家による、佳品の12回目です。

Ignaz Moscheles(注) Piano Concerto No. 3 In G Minor Op 58
https://www.youtube.com/watch?v=WmILM1ruuFE

(注)イグナーツ・モシェレス(1794~1870年)。「プラハで、裕福なユダヤ系の商人の息子として生まれた・・・作曲家およびピアニスト。・・・1825年 – 1846年にかけてロンドンに定住する・・・。<イギリス>への移住後、キリスト教会の一員となることが少なくとも実務面で便利であると知ったため、生まれた子どもたちには出生時に洗礼を受けさせ、自らと妻シャルロッテも1832年に洗礼を受けた。・・・
 ライプツィヒで没した。・・・
 モシェレスはベートーヴェンの音楽を生涯にわたって人々に紹介し続け、そのためにベートーヴェンの楽曲による多くの演奏会を開いた。・・・ 
 モシェレスの弟子にはフェリックス・メンデルスゾーン・・・らがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%82%B9
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–広義の治承・寿永の乱–武家総棟梁指名と武家への権力移譲のプロセス/元寇の後–縄文的弥生性の国際的発揚後の日本–

I 広義の治承・寿永の乱–武家総棟梁指名と武家への権力移譲のプロセス

0 序
1 プロローグ
 (1)殿下乗合事件(1170年7~10月)
 (2)鹿ケ谷の陰謀(1177年6月)
 (3)治承三年の政変(1179年11月)
 (4)大衆(だいしゅ)の両院誘拐計画(1180年3月)
2 本編
 (1)頼朝の伊豆国での雌伏
 (2)以仁王の挙兵(1180年5月26日)
 [以仁王の令旨]
 [熊野別当湛増以仁王の挙兵密告説について]
 (3)石橋山の戦い(1180年8月23日)
 (4)由比ケ浜の戦い(1180年8月24、26日)
 (5)波志田山合戦(1180年8月25日)
 (6)鉢田の戦い(1180年10月14日)
 (7)市原合戦(1180年9月7日)
 (8)鎮西反乱(1180年9月~1182年4月)
 (9)富士川の戦い(1180年10月20日)
 (10)金砂城の戦い(1180年11月4日)
 [源義経と彼を巡る人々]
  〇源義経(1159~1189年)
  〇同母長兄・阿野全成(あのぜんじょう。1153~1203年)
  〇同母次兄・義円(1155~1181年)
 [義経論(その1)]
 [源範頼](1150?~1193?年)
 [源希義(まれよし)](1152~1180/1182年)
 [頼朝上洛問題]
  ○一度目の上洛未遂
  ○二度目の上洛未遂
  ○三度目の上洛未遂
  ○四度目の正直
 (11)近江攻防(1180年12月6日)
 (12)南都焼討(1180年12月28日)
 (13)墨俣川の戦い(1181年3月10日)
 (14)横田河原の戦い(1181年6月)
 (15)野木宮合戦(1183年2月23日)
 [養和の飢饉]
 (16)火打城の戦い(1183年4月27日)
 (17)般若野の戦い(1183年5月9日)
 (18)倶利伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)(1183年5月11日)
 (19)篠原の戦い(1183年6月1日)
 (20)水島の戦い(1183年閏10月1日)
 [寿永二年十月宣旨]
 [義経論(その2)]
 [平時忠]
 (21)法住寺合戦(1183年11月19日)
 (22)室山の戦い(1183年11月28/29日)
 (23)宇治川の戦い(1184年1月20日)
 (24)粟津の戦い(1184年1月20日)
 (25)一ノ谷の戦い(1184年2月7日)
 (26)三草山の戦い(1184年2月5日)
 (27)三日平氏の乱(1184年7~8月)
 (28)藤戸の戦い(1184年12月7日)
 (29)葦屋浦の戦い(1185年2月1日)
 (30)屋島の戦い(1185年2月19日)
 (31)壇ノ浦の戦い(1185年3月24日)
 [池禅尼や平頼盛や平重盛や大江広元は後白河の工作員ではなかったのか?]
  ○池禅尼(1104?~1164?年)
  ○平頼盛(1133~1186年)
  ○平重盛(1138~1179年)
  ○中原親能(1143~1209年)・大江広元(1148~1225年)兄弟
 [守護地頭]
  ○守護
  ○地頭
 (32)奥州合戦(1189年7~9月)
 [鎌倉幕府論]
3 結論
4 エピローグ
 (1)聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想は完遂されたのか?
 (2)武家の縄文性維持方策は見つかったのか?
 [閑話三題]
  ○百人一首
  ○大覚寺統・持明院統
  ○かろうじて忘失を免れた聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想

II 元寇の後–縄文的弥生性の国際的発揚後の日本

1 元寇まで
 (1)新羅の入寇
 (2)刀伊の入寇
 (3)元寇
2 元寇の後
 (1)元・高麗
 (2)日本脅威論
 (3)日本
 [寺社造営料唐船] 

     I 広義の治承・寿永の乱–武家総棟梁指名と武家への権力移譲のプロセス 

0 序

 Iでは、武家総棟梁指名と武家への権力移譲が、徹頭徹尾、上からのベクトルで、すなわち、後白河上皇のイニシアティヴで、近衛家だけを相談相手として行われたこと、そしてそれが、大変な困難を伴った大事業だったこと、を明らかにする。 
 困難をもたらした最も大きな要因は、平清盛と源頼朝の、それぞれの独特の出来の悪さである、とも。 
 (但し、極度に単純化すれば、どちらも、私の言葉で言う、縄文的弥生人であったところ、前者は「縄文」過多、後者は「弥生」過多、と、対蹠的な出来の悪さだったわけだが・・。)
 これは、これまで誰一人唱えなかった新説だが、奇をてらったものでは全くなく、治承・寿永の乱に係る根本史料とされてきた『玉葉』の伝聞部分は全て眉唾で読め、就中、朝廷内の話の伝聞中機密に係る部分は完全に無視せよ、と言われたとすれば、通説のように頼朝を主人公とするスペクタクルとしてこの出来事を描くことには誰であれ躊躇し始めるはずだ。
 もっとも、躊躇し始めたとしても、主役を後白河に差し替えてこの出来事を描き直すためには、私のように、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想、のようなものを想定しなければならならないところ、これは、誰にもできることではないが・・。
 『玉葉』の諸記述に対する具体的批判は、本文中で適宜行っているが、後知恵ながら、『玉葉』論をまとめて最初のあたりで行う構成にした方がよかったかもしれない。
 どうしてこれまで『玉葉』の史料としての価値に疑問を投げかけた人がいなかったのか、不思議でならないのだが、恐らく、私は、機密情報をとりわけ多く扱う、防衛庁(当時)に30年近く勤務したことによって、律令時代から、朝廷はもとより、三つの幕府を含め、現在まで承継されてきたと思われるところの、日本の官僚機構内での機密情報の取り扱われ方を詳しく知っている、という点で、戦後の大部分の日本の政治史、就中政治軍事史、の研究者達に対して比較優位性を有している、ということなのではなかろうか。
 どのように機密情報が守られ、実際、それが漏れることがない、という事実を知っている、ということだ。
 それにしても、広義の治承・寿永の乱のプロセスをここまで詳細に紹介する必要はなかったのではないか、と思う人もいるかもしれないが、それが「大変な困難を伴った大事業だったこと」を理解してもらうにはそうするよりなかったし、そもそも、真理は細部に宿る、とも言うので、ご理解いただきたい。
 (なお、「広義の治承・寿永の乱」の「広義」の意味についての説明は省く。
 また、○年△月▽日、という表示の△▽は旧暦であるのに対し、○は表見的には新暦だが、それが「≒」であるところの旧暦の年号、の代替表示、であることに注意。)

1 プロローグ

 (1)殿下乗合事件(1170年7~10月)

 てんがののりあいじけん/でんかののりあいじけん。「1170年・・・7月から10月にかけて、摂政・松殿基房の一行が女車に乗った平資盛に遭遇し、基房の従者が資盛の車の無礼を咎めて恥辱を与え、その後、資盛の父・平重盛<、もしくは資盛の祖父・平清盛>の武者が基房の従者を襲撃して報復を行った事件。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BF%E4%B8%8B%E4%B9%97%E5%90%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒平家の横暴の最初の事案とされている。(太田)

 (2)鹿ケ谷の陰謀(1177年6月)

 コラム#11604参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%82%B1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80

 (3)治承三年の政変(1179年11月)

 コラム#11608等参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89 

 治承三年の政変について、今回の東京オフ会で詳述する旨、コラム#11608で書いたが、その後、通常のコラムシリーズの中で何度も取り上げたので、省略することにした。

 (4)大衆(だいしゅ)の両院誘拐計画(1180年3月)

 「安徳即位直後の<1180年>3月に1つの事件が発生している。それは、園城寺(注1)の大衆が延暦寺・興福寺(注2)の大衆に呼びかけて後白河・高倉両院を誘拐して寺院内に囲い込み、朝廷に対して後白河法皇や前関白基房の解放、そして平家討伐命令を要求しようとした<事件だ>。

 (注1)おんじょうじ。「大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。そして、大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没した。しかし、大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒菩薩像を本尊とする寺をようやく建立した。壬申の乱では大友皇子と敵対した天武天皇ではあるが、・・・686年・・・この寺の建立を正式に許可し、「園城寺」の寺号を与える。・・・
 9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。・・・
 円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。
 円珍の没後1世紀あまりを経た・・・993年・・・には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、園城寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し園城寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは・・・1081年・・・を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
 園城寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下にお<いた。>・・・
 中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が園城寺に戦勝祈願をし、三男の源義光が新羅善神堂の前で元服するなどしたことから歴代の尊崇が篤く、・・・1180年・・・4月に源頼政が以仁王と共に平家打倒の兵を挙げた時(以仁王の挙兵)にはこれに協力し、源頼光の子孫である山本義経が挙兵(近江攻防)した際もこれに協力した。そのために同年12月、平重衡と平忠度によって焼き討ちを受けて637棟の建物が炎上している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E5%9F%8E%E5%AF%BA
 (注2)「一乗院は、平安時代後期の第6代門主覚信が<藤原頼通の子である>関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院の一つとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。ちなみに足利義昭は、もともと近衛尚通の猶子として法名「覚慶」を名乗り一乗院の門跡となっていた。・・・
 大乗院は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家・二条家・一条家)の子弟が門主を務めるところであった。・・・
 興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任する習わしだった。ただし、平家による南都焼き討ち直後の時期に第44代別当となった信円に限っては、例外的に一条院門跡と大乗院門跡の双方を、他の幾つかの院家と共に兼帯している。また、両門跡に属する門主以外の者が別当に就任した例もある。
 また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職については諸説ある。別当が権限を有していた説、両院の門主が共同で権限を行使していたとする説、門主が別当の時は別当が全権を行使し、それ以外の者が別当の時は別当と両院が共同で権限を行使していたとする説である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA

⇒この時の天台座主は、大衆に人気があり、後に後白河のために命を落とした明雲(注3)だった。

 (注3)1115~1184年。「久我顕通の長男。・・・1167年・・・、天台座主に就任した。また、高倉天皇の護持僧や後白河法皇の授戒師を勤めた。さらには、平清盛との関係が深く、清盛の出家に際しその戒師となる。治承元年(1177年)、延暦寺の末寺である白山と加賀国の国司が争った事件の責任を問われて天台座主の職を解かれ、伊豆国に配流になるが、途中で大衆が奪還し叡山に帰還する(白山事件)。
 [頼政は・・・彼が配流のために護送していた天台座主明雲を延暦寺大衆が奪還しに来た際<に>抵抗せずに奪われている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%8C%99%E5%85%B5 ]
 ・・・1179年・・・、治承三年の政変で院政が停止されると座主職に再任され、・・・以後は平家の護持僧として平氏政権と延暦寺の調整を担うが、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった。翌・・・1183年・・・、源義仲が後白河法皇を襲撃した法住寺合戦で義仲四天王の一人である楯親忠の放った矢に当たって落馬、親忠の郎党に首を斬られた。義仲は差し出された明雲の首を「そんなものが何だ」と言って西洞院川に投げ捨てたという。在任中の天台座主が殺害されたのは明雲が最初であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%9B%B2
 久我(源)顕通(1081~1122年)は、村上源氏。官位は正二位・権大納言
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A1%95%E9%80%9A
 村上天皇-具平親王-資定王(源師房)-顕房-久我雅実-顕通-明雲
 「資定王は2歳で父親と死に別れ、姉である隆姫女王に育てられた。隆姫が後に摂政藤原頼通の正室となると、子供のなかった頼通は養子縁組をするために資定王を臣籍降下させ、源師房と名を改めた。頼通の父・藤原道長も師房を寵愛して娘の尊子を嫁がせた上に、頼通に男子が生まれなければ師房を藤原氏に改姓させて摂関家を相続させても構わないと言ったとされている。
 師房が摂家を継ぐことはなかったものの、師房の娘・麗子は藤原師実、師房の次男である 源顕房の娘・師子は藤原忠実の正室となり、藤原頼長が「彼の右府(師房)外戚先祖と為す」と記すなど結びつきは強く、子孫からは多くの大臣を輩出した。顕房の娘・賢子が産んだ堀河天皇の治世では、「左右大臣、左右大将、源氏同時に相並ぶ例、未だ此の事あらず」、「近代公卿廿四人、源氏の人半ばを過ぎるか、未だ此の如き事あらんか」とあるように天皇の外戚として隆盛を極めた。源顕房長男・源雅実は源氏として初めて太政大臣となる。その後、天皇の外戚の地位は藤原氏閑院流に奪われて源氏の勢力は後退する。
 鎌倉時代になり、中院流嫡流の源通親は九条家に対抗し後白河法皇・後鳥羽上皇の院政下で活躍し、土御門天皇の外祖父として権勢を振るった。
 通親の子・源通光以降は久我を家名とした。足利義満が太政大臣となるまでは清華家である久我家・堀川・土御門・中院の4家が交互に源氏長者を世襲したが、室町時代に堀川・土御門両家が断絶し、久我・中院両家の世襲となる。
 久我家からは大臣家となる中院家やその分家筋である北畠家、岩倉家、六条家の分家である千種家のほか、合計10家の堂上家を輩出した。南北朝期の北畠親房と顕家父子と千種忠顕、幕末の岩倉具視も村上源氏の支流にあたる。
 その一方、村上源氏雅兼流と自称した名和氏や、同じく村上源氏季房流と自称した室町時代の守護大名赤松氏(および奥平氏)など、村上源氏の後裔と称する武家も数多く存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%BA%90%E6%B0%8F

 そうである以上、当時、比叡山のトップは後白河に直結していたわけであり、また、当時、藤氏長者にして安徳天皇の摂政だった近衛家二代目の基通
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
は興福寺を事実上支配下に置いていたと思われ、一方、園城寺は源頼政が事実上強い影響力を持っていたことは明らかである上、(今後掘り下げるべき点だが、)園城寺に拠る寺門派天台宗の思想が、延暦寺に拠る山門派に比し、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想的なものへのより強いシンパシーをその大衆に抱かせていた可能性が高い。。
 で、後白河は、平家を打倒しての頼朝への武家総棟梁指名を実現しようと、さんざん平家を挑発し、治承三年の政変を清盛に引き起こさせ、院政の停止と自らの軟禁を招いた一方で、平家への反感が一層高まるとともに、面従腹背であることに清盛が気付いていなかったところの、清盛女婿の近衛基通を藤原氏、ひいては貴族の頂点へと引き上げることに成功した。
 その後白河の次の一手が、自らの自由の回復であり、これを達成するための手段として自らがシナリオを描いたと私が想像しているところの、大衆の両院誘拐計画だった、と見る。
 もちろん、最初から、未遂に終わらせる計画だった、と見る。
 なぜなら、仮に自分と高倉院の誘拐、寺院内囲い込み、に大衆が成功したとしても、平氏に討伐されて、成行で「合戦」にでもなれば、流れ矢に当たったり、失火に巻き込まれてたりして自分の生命が危殆に瀕する恐れすらなきにしもあらずだったからだ。
 そこで、あえて、自分からこの計画を漏らし、未遂に終わらせた上で、この種の計画の存在自体による脅し効果と、もう平家に対する敵対行動は行わないとの殊勝な姿勢を見せることで、白河上皇が自分の自由の回復に成功した、というのが私の見方だ。(太田)

 摂関政治の解体以後、太政官は最高意思決定機関としての機能を喪失し、安徳天皇も3歳であったことから後白河法皇・高倉上皇のどちらかが治天の君として院政を執る必要があった。その両院がいなくなれば朝廷は機能停止に陥るが、当時は「仏罰」の存在を武士達からも信じられていた時代であり、寺院の攻撃は一種の禁忌となっていた(鹿ケ谷の陰謀自体が、清盛<に下された>延暦寺攻撃命令に対する平氏側の報復とする説もある。このため、公卿たちは<寺院からの>要求を認めるしか選択肢は無くなるだろうという計画であった。
 実際に興福寺は同意、親平氏派が多い延暦寺でも反平氏派の恵光房珍慶の集団<(注4)>が参加の意思を示した。

 (注4)延暦寺の大衆には親平家派が多かった。
https://books.google.co.jp/books?id=juz4DwAAQBAJ&pg=PA83&lpg=PA83&dq=%E6%81%B5%E5%85%89%E6%88%BF%E7%8F%8D%E6%85%B6&source=bl&ots=xxkWEi_TfI&sig=ACfU3U2GnvG4zq4zhdJmetsoSFkQ9mM_Ug&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiyvZS-747uAhXbA4gKHWuNC5EQ6AEwBXoECAgQAg#v=onepage&q=%E6%81%B5%E5%85%89%E6%88%BF%E7%8F%8D%E6%85%B6&f=false

 決行日を高倉上皇が厳島行幸に向かう3月17日と決定したが、前代未聞の計画であったため、興福寺の使者が鳥羽殿幽閉中の後白河法皇に打ち明けたところ、驚いた後白河法皇が平宗盛に事の次第を告げたために、高倉上皇の出発日が19日に変更されて失敗に終わった。だが、これを機に高倉上皇と清盛の間で後白河法皇の安全を理由に幽閉場所を鳥羽殿から京都市中へ移動させることについて協議された。5月14日の深夜、後白河法皇は鳥羽殿から八条坊門烏丸邸に遷った(『百錬抄』は藤原俊盛邸、『玉葉』は藤原季能邸とする)。引き続き高倉上皇が院政を執ることになったものの、幽閉生活から解放されることになった。以仁王が園城寺や興福寺を頼りにした背景にはこの出来事の存在が背景にあったと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

⇒この企ては、後白河上皇が、源頼政に命じて、園城寺の大衆に根回しをさせ、その上で、園城寺の大衆に、興福寺と延暦寺の大衆を焚きつけさせたものではないか、というのが私の想像だ。
 興福寺の大衆からスタートすれば近衛家が疑われてしまうし、延暦寺の大衆からスタートするのは、親平家派が多いことから容易ではなく、うまくいったとしても、座主との関係で後白河上皇が疑われてしまうからだ。
 頼政は大内守護であり、後白河は物心がついた時から、間近に頼政を見ながら育ったと言ってもよいが、その頼政は、後白河生誕(1127年)前後に、清和源氏満政流(注5)の源斉頼の娘(正確には孫娘)を正室に迎えていて、もともと、清和源氏同士の結びつきを重視する人物であったと思われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E7%B6%B1 ←嫡男仲綱誕生は1126年頃
が、頼政が、恐らくは1156年の保元の乱の後の後白河天皇親政時代に、河内源氏同士の内輪もめだったところの、(その前年1155年の)大蔵合戦で、義平(義朝の庶長男)に殺害された義賢、の長男仲家(義仲の兄)、を、自身は摂津源氏であるのに養子にしたのは、頼政やその子孫に、河内源氏への影響力を与えると共に、将来、河内源氏の嫡流の中から武家総棟梁を指名した後のスペアとしての摂津源氏嫡流も支える、との自覚を改めて再確認させるために、後白河が指示したのではないか、と、私は、想像を逞しくしている。

 (注5)満政は満仲の弟。「後代、満政の子孫は長男・忠重の系統が美濃国から尾張国、三河国方面にかけて進出し<て>・・・美濃源氏、尾張源氏、三河源氏<となり>・・・、嫡流の八島氏からは浦野氏、山田氏、高田氏、水野氏、足助氏、小島氏、佐渡氏、木田氏、山本氏など多くの氏族が輩出されたほか、次男・忠隆の系統は主に近江国を地盤として善積氏や雨谷氏、和田氏などを称した。また、三男・忠国は摂津との関係が記録に残っている。・・・」
 斉頼は、満政の次男忠隆の子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E6%94%BF
 「斉頼は優れた鷹飼であったことが知られ、高麗から渡来した鷹匠・兼光(出身地・名には異説あり)より継承したとされるその秘技は「呉竹流」あるいは「政頼流」などと呼ばれ、後の諏訪流とその諸派に伝承された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%96%89%E9%A0%BC

 1159年の平治の乱の際に異母兄義朝に味方して従軍し、その後、熊野に雌伏していたところの、河内源氏の源行家と、頼政が密かに連絡を取り合っていたと考えられるのも、かかる背景があったからこそだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF ←源頼政
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E5%AE%B6 ←源行家
 もとより、頼政は、摂津源氏の嫡流たる多田源氏の多田頼盛・行綱父子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E6%BA%90%E6%B0%8F
とは緊密な関係を維持し続けたと思われ、1177年の鹿ケ谷の陰謀の際に、反平家の大将となることを期待された行綱が、この陰謀を清盛に密告したのも、頼政と相談の上だったものと想像される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E7%B6%B1 ←源行綱
 1177年の白山事件の際に、明雲が天台座主の職を解かれ伊豆国に配流される際に護送していた頼政が、明雲を奪回しようとした大衆に抵抗しなかったのも、延暦寺の大衆に恩を売るためだった、とも考えられる。(太田)

2 本編

 (1)頼朝の伊豆国での雌伏

 「1160年・・・2月9日、頼朝は近江国で捕えられ京の六波羅へ送られ、死刑を当然視されるが、清盛の継母の池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられ・・・3月11日に伊豆国へと流された。・・・

⇒コラム#11697中の[源頼朝の助命]でその背景を説明した。
 今回、新たに指摘したいのは、恐らく、池禅尼は、自発的に頼朝の助命に動いたのではなかった、ということだ。
 池禅尼が、平治の乱の際に、(自分や頼盛の立場には反するけれど)平清盛側が勝利するので清盛側につけと頼盛にと命じたこと等から、どうやら薄々聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想とその意義に気付いているらしいという情報を掴んだところの、近衛家か院庁の誰かが、後白河の了解を得て、頼朝が平治の乱直前まで蔵人として勤務していた上西門院の庁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
の誰かから、上西門院の意向として、池禅尼に対し、上西門院の部下であった頼朝を生きて捕えることに協力するよう、かつ、捕えられた頼朝を助命するように清盛にあらゆる手段を使って働きかけるよう、依頼し、池禅尼がそれらを引き受けるのと並行して、後白河の意向であるとして、清盛に対し、平治の乱で軍功のあった頼盛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B
に褒美として尾張の国司に発令することを了承させ、更に、密かに頼朝の実母の実家である熱田大宮司家に対し、頼朝と接触して安心して頼盛の郎党に捕えられるようにと伝達するよう依頼し、更に、平治の乱において、途中で藤原信頼/源義朝側から平清盛側に寝返ることで清盛側の勝利を確実なものにするという「大功績」があるところの、源頼政、に対し、頼朝が捕えられ助命された暁には、是非とも自分が国司をしている・・後に知行国主になる・・伊豆国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF 前掲
に流して監視させて欲しいと清盛に頼み込め、と命じ、それを実現させた、という具合に、全ては後白河の直接間接の差し金で頼朝は命を助かり、伊豆国に流された、と。
 私は、後白河が、源頼政に対して、彼に下した指示の本当の指示理由・・聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の全体像という意味ではない!・・を明かしていたという意味で、頼政は後白河の工作員(1号)だったと見ている。
 (池禅尼や平頼盛を工作員と見ることができない理由については後述。)(太田)

 配流地として蛭ヶ小島(ひるがこじま)が知られているが、この地は北条氏の支配領域で当初から同地に居住したのかは不明である。
 ・・・比企尼<(注6)>の娘婿である安達盛長<(注7)>、河越重頼<(注8)>、伊東祐清<(注9)>が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟<(注10)・・いずれも頼朝の従兄弟(太田)・・>が従者として奉仕した。

 (注6)「平治の乱で源義朝が敗死し、14歳の嫡男・頼朝は伊豆国に流罪となる。頼朝の乳母であった比企尼は武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允と共に京から領地へ下り、治承4年(1180年)の秋まで20年間頼朝に仕送りを続けた(『吾妻鏡』寿永元年10月17日条)。
 娘が3人おり、・・・嫡女・丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて島津忠久を産んだとされ、その後に関東へ下って安達盛長に再嫁し、盛長は頼朝の側近となる。次女(河越尼)は武蔵国の有力豪族・河越重頼の室となり、三女は伊豆国の有力豪族・伊東祐清に嫁ぎ、死別したのち源氏門葉である平賀義信の室となっている。比企尼は比企郡から頼朝に米を送り続け、3人の娘婿(盛長・重頼・祐清)に頼朝への奉仕を命じていたという。長女と次女の娘はそれぞれ頼朝の異母弟・源範頼、源義経に嫁いでいる。
 しかし男子に恵まれなかったため、比企氏の家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎えることで跡を継がせている。後に能員が頼朝の嫡男・頼家の乳母父となって権勢を握ったのは、この尼の存在におけるところが大きかった。なお、尼の次女と三女も頼家の乳母となっている。夫の掃部允は頼朝の旗揚げ前に死去している。
 <なお、>孫娘の婿である源範頼が謀反の咎で誅殺された際、頼朝に曾孫の助命嘆願を行い、範頼の男子2人が出家する事で連座を逃れたとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E5%B0%BC
 (注7)1135~1200年。「藤原氏魚名流・・・源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。・・・妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。・・・
 1180年・・・8月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。・・・
 生涯官職に就く事はなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%9B%9B%E9%95%B7
 (注8)?~1185年。「桓武平氏良文流・・・1155年・・・、大蔵合戦で祖父・秩父重隆が源義賢と共に源義平に討たれる。翌・・・1156年・・・7月、重頼は弟・師岡重経と共に保元の乱で源義朝の陣に従った。・・・平治の乱<の後、>・・・比企氏の次女を娶った重頼は、同じく比企尼の婿である安達盛長・伊東祐清と共に頼朝を援助し<た。>・・・
 1160年・・・、河越氏(能隆もしくは重頼)は、所領を後白河上皇に寄進し荘官となる。上皇はさらに京都の新日吉山王社へ寄進し、所領は新日吉社領河越荘と呼ばれるようになった。・・・
 1180年・・・8月・・・、頼朝が伊豆国にて挙兵。同年8月26日、重頼は平家方に付いた同じ秩父一族である畠山重忠の要請に応じ、江戸重長ら武蔵国の武士団数千騎を率いて衣笠城を攻め、三浦義明を討ち取る(衣笠城合戦)。しかし10月4日、勢力を回復して再挙した頼朝が武蔵国に入ると、畠山重忠・江戸重長らと共に傘下に入る。以降、御家人として重く用いられる。・・・
 1184年・・・1月20日、源範頼・源義経を頼朝代官とする源義仲追討軍が京都に向かう。重頼は嫡男・重房と共に追討軍に参加。・・・8月6日、一ノ谷の戦い後に義経が鎌倉の許可無く朝廷から検非違使の任官を受け、頼朝の怒りを買う。この時、重頼の弟・重経も共に兵衛尉に任官しており、頼朝から罵倒されている。9月14日、頼朝の命により、娘(郷御前)が京に上って義経に嫁ぎ、舅となる。
 ・・・1185年・・・、頼朝と義経が対立し、義経が後白河法皇から頼朝追討の院宣を受けると、重頼も頼朝から敵対視されるようになった。11月12日、義経の縁戚であることを理由に、所領である伊勢国香取五カ郷を没収され・・・、重頼は嫡男重房と共に誅殺され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%B6%8A%E9%87%8D%E9%A0%BC
 (注9)?~1182/83年。「[藤原南家]・・・源頼朝の乳母である比企尼の三女を妻としており、・・・1175年・・・9月頃、平家の家人である父の祐親が頼朝を討とうとした際、頼朝に身の危険を知らせて逃がしている。・・・
 1180年・・・8月の頼朝挙兵ののち、平家方であった祐親と祐清父子は頼朝軍に捕らえられた。その際、頼朝は祐清にかつて自分を助けた事による恩賞を与えようとしたが、祐清は父が頼朝の敵となっている以上、その子である自分が恩賞を受ける事は出来ないとして暇を乞い、平家に味方するために上洛した。その後、平家軍に加わった祐清は・・・討ち死に<ないし父の自死を知って自死>した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%B8%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E8%A6%AA ([]内)
 「伊東祐親<は、>・・・東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、・・・1159年・・・の平治の乱に敗れて伊豆に配流された源頼朝の監視を任される。しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。祐親はこれを知って激怒し、・・・1175年・・・9月、・・・千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。・・・次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、[祐清の烏帽子親であった]北条時政の館に匿われて事なきを得たという。・・・
 〈北条時政<も>・・・頼朝<の>・・・の監視役<だったが、時政の後妻の>牧の方の実家<が親頼朝の>平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していた<こともあってか、>やがて頼朝と娘の政子が恋仲となった・・・当初<は>この交際に反対していた時政であったが、結局二人の婚姻を認めることとな<った。>〉
 1180年・・・8月に頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。・・・
 近年、保立道久は真名本『曾我物語』3巻冒頭の解釈に誤りがあり、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと解釈されてきた同書記載の・・・1176年・・・3月という年次は政子が頼朝との関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘している。<そうである>とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くても安元元年の初夏、すなわち伊東祐親が京から戻る直前のことになるとする。保立は伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前(丸)を殺害したのは平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している(祐親から見れば、客人である筈の頼朝が伊東氏一族に深く食い込むことで祐親との力関係が逆転して伊東氏の事実上の「乗っ取り」に至る危惧を抱かせたとする)。また、保立は祐親に千鶴御前を殺害されたことに憤慨した頼朝が祐親に恨みを持つ工藤祐経を唆して奥野の巻狩りの場で祐親を襲撃させて祐親嫡男の祐泰を殺害させ、その事情を知った祐泰の遺児である曾我兄弟が頼朝の命をも狙ったとする」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E8%A6%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF 前掲(〈〉内)
 保立道久(ほたてみちひさ。1948年~)は、「国際基督教大卒、都立大修士、東大史料編纂庶助手、同助教授、同教授、所長、定年退任。「九条科学者の会」呼びかけ人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%AB%8B%E9%81%93%E4%B9%85
 (注10)宇多源氏の源秀義が佐々木姓を名乗ったところ、彼は保元の乱でも平治の乱でも源義朝軍に属して戦ったが、「義朝方の敗北により伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の4人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%B0%8F
 佐々木秀義(1112~1184年)は、「源為義の娘を妻としており、・・・渋谷重国に引き止められ、その庇護を受け娘を娶り五男の義清をもうけ、20年を渋谷荘に送った。
 ・・・1180年・・・に源頼朝が伊豆国で平氏打倒の兵を挙げる際、平家の家人大庭景親から頼朝討伐の密事を聞き、子の定綱を使いに出して頼朝に危急を知らせる。定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝挙兵に従わせ、その功により本領を安堵され、佐々木荘へと戻る。
 ・・・1184年・・・7月の三日平氏の乱において、五男義清と共に反乱鎮圧に赴き、平家継・平信兼らの率いる伊賀・伊勢の平家方残党と甲賀郡上野村で戦い90余人を討った後、戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E7%A7%80%E7%BE%A9
 「渋谷氏<は、>・・・桓武平氏の一流秩父氏のうち南武蔵に進出した河崎冠者基家の一族がさらに相模国に展開し,基家の孫重国が渋谷荘司となって渋谷氏を称した。重国は1180年・・・の源頼朝挙兵の際平家方にくみしたが,かねてから扶養していた佐々木一族が頼朝に参じ石橋山から敗走してくると,再びこれをかくまい平家方の捜索から守ったという経緯や,頼朝の麾下(きか)に転じて以後の平家追討戦における戦功によって,相模の〈大名〉の地位を維持し,一族も頼朝から所領の年貢免除等の優遇措置をうけた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E9%87%8D%E5%9B%BD-1080703

⇒私の大胆な仮説は次の通りだ。
 当初は伊豆国司、次いで伊豆の知行国主となった頼政は、現地に送り込んでいた息子の一人を通じて、頼朝に対し、伊東祐親と北条時政が頼朝の直接の監視役として清盛によって指名されていること、両者は競争関係にあるが前者の娘を後者が嫁にしていること、この両者にそれぞれ年頃の娘がいるのでダメ元でこの娘達に言い寄ってどちらかモノにできた方の親の籠絡を試みること、を勧め、頼朝がそれを実行した、と。
 伊東祐親の愚かな行動もあり、北条時政一択となった頼朝は、モノにした政子を通じて時政を籠絡することに成功する。
 この報告を受けた頼政は、北条氏の嫡流であった可能性が高く、早くから京都に出仕していた、北条時定・・北条時政の甥、もしくは従弟か弟・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E5%AE%9A_(%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3)
を通じ、頼朝をよろしく、ついては、伊東祐親の娘と離縁して、平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していた人物の娘(牧の方)と再婚してくれれば、悪いようにはしない、と申し入れ、時政はこれを飲んだ、と。(太田)

 <頼朝は、>この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経を怠らず、亡父・義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信<(注11)>から定期的に京都の情報を得ている。

 (注11)みよしのやすのぶ(1140~1221年)。「元々は太政官の書記官役を世襲する下級貴族で、算道の家柄の出身。・・・
 母が源頼朝の乳母・・比企尼、寒河尼、山内尼など頼朝の乳母は複数おり、いずれの乳母の妹かは判明していない。・・の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていた。・・・1180年・・・5月の以仁王の挙兵の2ヶ月後、康信は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝えるなど、頼朝の挙兵に大きな役割を果たした・・・。・・・
 初代問注所執事(長官)として裁判事務の責任者となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E5%BA%B7%E4%BF%A1

 また、武芸の一環である巻狩りにも度々参加していたことが知られている。
 なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族・北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女・大姫をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から<1177>年頃のことであると推定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
 
⇒呆れるのは、第一に、伊豆国が(頼朝の父の義朝が勢力を伸長した)東国に位置し、しかも、その国司が源頼政の嫡子の仲綱だったことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E7%B6%B1
 実は、これは、その前年に伊豆守に補任された頼政から仲綱が「承継」したものだった。 
 頼政の伊豆守発令日は、平治の乱が始まった、1159年12月9日の翌日の10日であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%9B%BD
乱直前の平時に決まっていた補任だったわけだが、清盛は、翌年、頼朝を、よりにもよって、そんな伊豆国に配流し、どうやら、その直前に、頼政から仲綱に「承継」させたらしいというのだから、たとえそんな伊豆国に頼朝を配流させたのも池禅尼の画策の賜物だったとしても、清盛が、(聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を知らなかったとはいえ、)清和源氏の内部事情や頼政の人となりについての情報収集が頗る不十分だったことがここからも分かる。
 それだけならまだしも、清盛は、その伊豆守の職に、頼政の長男の仲綱を、次いで頼政の次男の頼兼を、という形で、頼政が1180年の以仁王の挙兵の際に自死するまでの20年超、事実上、頼政を国司に留め置いた(後出)と来ているのだ。(注12)

 (注12)「以仁王の挙兵・・・計画は以仁王の名で平家追討の令旨を大寺社や諸国に雌伏する源氏に下し、その蜂起の呼びかけの名義人<は>「前伊豆守源仲綱」であった」らしいこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E7%B6%B1
他方、仲綱の次の伊豆国守は仲綱の弟の頼兼であったようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%9B%BD
 なお、「頼兼<の>・・・以仁王の挙兵における動向は詳らかでな<い。>」(上掲)

 第二に、伊東祐親と北条時政を監視役としたことだが、保立の主張の当否に関わらず、人選を誤ったと言わざるを得ないことだ。
 両者とも、佐々木定綱ら四兄弟が従者として頼朝に仕えていたことを問題視した様子がないし、比企尼が祐親の嫡男の祐清に娘を嫁がせたというのに、比企尼の頼朝支援活動に気が付かなかったか、気が付いても問題視した様子がなかったからだ。
 また祐親は、頼朝が、北条政子と結婚するのを妨げようとするどころか、清盛に積極的に注進すらした様子がなかったからだ。
 そして、時政は、頼朝が娘の政子と結婚するのを認めてしまったからだ。
 第三に、両者とも、三善康信や祐範(注13)が都等の情報を頻繁に頼朝に伝えていたことに気付いていなかったか、気付いていたとしても問題視はしなかったことだ。

 (注13)ゆうはん/すけのり(?~?年)。頼朝の母の由良御前の弟。「姉の長男で甥にあたる14歳の源頼朝が罪人として伊豆国の配所に送られる際、郎従を付けて送り出している。頼朝の伊豆配流に付き添ったのは、祐範の郎従と頼朝の父・義朝の家人で因幡国住人・高庭介資経が送った親族の藤七資家[2]のみであったという。祐範はその後も伊豆の頼朝の元に毎月使者を送っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E7%AF%84

 清盛は、以上のように、頼朝の流刑地の選定と監視に関してだけでも、脇がにわかに信じられないほど甘く、何度も同じことを指摘しているけれど、到底、武家の総棟梁たる器量などなかった、と断じざるを得ない。
 清盛が畳の上で死ぬことができたのはまことに幸運だった、とさえ言えるのではなかろうか。
 しかし、平家がこんなに脇甘だったにもかかわらず、後白河による武家総棟梁指名と武家への権力移譲事業は紆余曲折を経てかろうじて成就することになる。(太田)

 (2)以仁王の挙兵(1180年5月26日)

 以前、(コラム#11610で、)私は、以下のように記した。↓

 「私の現時点における(大胆過ぎるかもしれない)仮説は次の通りです。
 1160年の保元の乱後の1162年に以仁を還俗させたのも、その後、自分の同母姉の暲子内親王の猶子としたのも後白河であり、これは、清盛が平家による摂関政治的なものの復活を意図していることを見抜き、そんな歴史の逆行を許さないよう、平家とは無縁の天皇を機会を見て即位させるのが狙いであった、と。
 (その乳母が清盛の妻の時子であったことから、既に高倉天皇にも平家色がついてしまっていました。)
 だからこそ、清盛は、(恐らくは歴代天皇に圧力をかけて)その親王宣下すら妨げるといった形で、以仁王の天皇即位の芽を摘み続けたのである、と。
 しかも、清盛は、念が入ったことに、治承三年の政変のどさくさに、理由もなく、以仁王の知行領まで取り上げてしまった、と。
 一方、後白河の方は、内紛の絶えない河内源氏に見切りを付け、大内守護を務めてきた摂津源氏にしかるべき時に武家の総棟梁として白羽の矢を立ててその総棟梁に権力移譲を行おうと考え始め、・・・頼政の、河内源氏すら包摂しようとする姿勢を見て、ついに決断を下し、(恐らくは)近臣の多田行綱をして頼政にその旨を伝えさせると共に、以仁王を使って平家打倒を図れ、と、伝えさせたのではないか、と。
 ところが、この企てが漏れてしまい、以仁王ともども、頼政もその嫡男の仲綱も、更に仲綱の嫡男の宗綱も、はたまた、頼政の養子の(同じ摂津源氏で甥の)兼綱も(河内源氏で義仲の兄の)仲家も戦死してしまい、(仲綱の次男の有綱とその弟で四男の成綱こそ、伊豆にいて生き残り、頼朝の挙兵に参加しますが、)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E7%B6%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%BC%E7%B6%B1
後白河は計画を全面的に白紙に戻さざるを得なくなった、とも。」

 しかし、それ以降、見方をかなり修正している。
 まず、後白河が河内源氏を見放したわけではないことについては、後述するとして、それ以外の点について、まず、以下に目を通して欲しい。↓

 「微妙な立場にあったのが後白河法皇の第三皇子・以仁王であった。彼は・・・、[母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟である憲仁親王(のち<1168年に>高倉天皇)の生母であり権勢を誇った平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止されたという。特に・・・1166年・・・、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった<(注14)。>]

 (注14)「院政期に親王宣下を受けるのは、原則として正妃(女御・中宮・皇后)所生の皇子、または仏門に入った皇子(法親王)のみだった。以仁王の母・成子は女御になれず、幼少の頃には仏門にあったものの12歳のとき還俗した以仁王には親王宣下を行う根拠がなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B

 それでも、莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王(後白河法皇の異母妹)を後ろ盾に、彼女の猶子となって、出家せずに皇位へ望みをつないでいた。だが、<1180年の>安徳天皇の即位によってその望みも断たれ、[長年知行してきた城興寺領<(注15)も>没収された]<ことから、挙兵を決意した>。・・・

 (注15)「城興寺は本来最雲法親王が「梨本門跡」の所領として有していたものとされ、以仁王への継承も彼が出家して最雲の法灯を継ぐことを前提にしていたと考えられている。ところが、以仁王が出家をしないで俗人のまま同領を支配することはその約束に反していた。そのため、平家政権も城興寺領の没収後は本来の所有者と言うべき「梨本門跡」(当時の門跡は明雲)に返還している」(上掲)

 行家は八条院の蔵人で、以仁王と近い関係にあった・・・<が、この>行家<が、>[源頼政の勧めに従って、・・・全国に雌伏する源氏[<、そして>藤原氏]に発し、平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促した<ところの、>]・・・以仁王の令旨・・・を伝達する使者に<なった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%8C%99%E5%85%B5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内)
 「<そして、以仁王は、>自らも「最勝親王」と称して<(注16)>挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れた。

 (注16)そう称したのは、「親王」ではない単なる「王」では迫力がないし、単なる「王」では「令旨」ならぬ「御教書」しか発出できないこともあってのことかと思われるが、「法華経・仁王経とともに、国家鎮護の三部経とされている・・・最勝王経・・金光明最勝王経のこと・・」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%80%E5%8B%9D%E7%8E%8B%E7%B5%8C-507776
からとったのだろうが、どうしてこの名前にしたのか、こんな名前にして、どうやってこれが後白河の男子のあの人物のものだ、と納得させることができたのか、に答えてくれる情報をネット上では得られなかった。
 ちなみに、「平安時代中期以降は、皇太子・三后に加えて女院や親王などの皇族の命令も令旨と呼ばれるようになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E6%97%A8
ところだ。

 [『平家物語』によると、密告したのは熊野別当湛増である。令旨によって熊野の勢力が二つに割れて争乱に発展したため、湛増が平氏に以仁王の謀反を注進したのである。]
 5月15日、平氏の圧力による勅命と院宣で以仁王は皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり、土佐国への配流が決まった。その日の夜、検非違使の土岐光長と源兼綱(頼政の子)が以仁王の館を襲撃したが、以仁王はすでに物詣を装って脱出していた。16日に入って以仁王が園城寺に逃れていることが判明し、21日に平氏は園城寺への攻撃を決定する。その中の大将には頼政も入っており、この時点では平氏は以仁王単独の謀反と考えていたと思われる。

⇒これだけお粗末な諜報能力しか平家は持ち合わせていなかったわけであり、そうなると、そもそも、平家が以仁王の陰謀を察知できたこと自体に疑問符が付く、というものだ。(太田)

 頼政はその日のうちに子息たちを率いて園城寺に入り以仁王と合流した。しかし園城寺と対立していた延暦寺の協力を得ることができず、また園城寺内でも親平氏派が少なくなく、このままでは勝ち目が薄いと判断した以仁王と頼政は南都の寺院勢力を頼ることに決めた。
 ・・・1180年・・・5月26日、頼政が宇治で防戦して時間を稼いでいる間に以仁王は興福寺へ向かったが、同日中に南山城の加幡<(かばた)>河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。『平家物語』は、飛騨守景家<の>軍勢によって光明山鳥居の前で戦死したとする。
 しかし王の顔を知るものは少なく、東国生存説が巷に流れた。以仁王自身の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵し、これが平氏滅亡の糸口となった。なお朝廷は当初この令旨を偽物と考えていたが、後にこれが事実の疑いが出てきたこと、加えて以仁王が高倉天皇(以仁王の弟)及び安徳天皇(以仁王の甥)に替わって即位することを仄めかす文章が含まれていたことに強く反発した。後白河法皇にとって高倉天皇は治天の権威によって自らが選んだ後継者であり、その子孫に皇位を継承させることは京都の公家社会では共通の認識であったためである。このため、京都では以仁王の行動は次第に皇位簒奪を謀ったものと受け取られるようになっていった。乱から16年が経過した・・・1196年・・・になっても以仁王は「刑人」と呼称されて謀反人としての扱いを受けている(『玉葉』建久7年正月15日条)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%8C%99%E5%85%B5 ([]内)

⇒挙兵の段階で以仁王に即位の道は、当時の慣行上、閉ざされていた。
 (治天の君である)後白河上皇または(治天の君候補者である)高倉上皇のどちらかが存命である間は、仮に以仁が王ではなく親王であったとしても、(たとえ安徳天皇を廃位に追い込んだとしても、)幼少の天皇候補が大きくなるまでの「中繋ぎの」天皇になることすらできず、また、「本格的な」な天皇になる可能性は、弟の高倉天皇が即位した1168年に既に絶たれているからだ。
 私は、後白河上皇が、頼政の了解を取った上で、そんな以仁王・・野心家で機会主義者だった!・・に対し、頼政勢を使って挙兵を行い、全国の源氏等がそれに呼応して立ち上がり、平家を打倒した暁には、天皇に即位させるが、失敗したら死んでもらう、と話を内々もちかけた、と見ている。
 さて、ここまでは、コラム#11610で記したことと矛盾しないのだが、その他のことについては、以下のように、考えを変更した次第だ。
 すなわち、この挙兵について知っていたのは頼政とその係累や家臣のうちのごく一部の者達だけであったと考えられ、当初、頼政一族が全く疑われていなかったということは、その頼政サイドから話が漏れていなかったということである以上は、漏らしたのは後白河自身しかないのではないか、と。
 鹿ケ谷の陰謀の時もそうであった可能性が高いことに加えて、上述の大衆の両院誘拐計画を漏らしたのが後白河自身であったことは疑いがないところ、かかる「前科」がある以上、今回も後白河が漏らした可能性がある、ということだ。
 漏らすメリットは、(かつて天皇候補だった)以仁王や(河内源氏とも密接な関係を持っていた)頼政らを平家に討ち取らせれば、全国の清和源氏の武士達を憤激させ、蹶起を強く促す効果がある上、後白河が、自分に嫌疑がかけられることを回避し、武家総棟梁指名までのプロセスにおけるフリーハンドを最大限確保できることだ。
 なお、後白河としては、以仁王については、用済みになってしまっていたので切り捨てることに心理的抵抗感は大きくはなかったし、頼政については、彼が、河内源氏ではなく、かつ、摂津源氏の嫡流でもないので、万一、頼政が中心となって平家打倒が成就するようなことになると話がややこしくなるので、そうなることを回避したかったのではないか、と見る。
 (頼朝は頼朝で、令旨を受け取っても「しばらく事態を静観していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
のは、頼政・仲綱父子らが殺されるのを期待したからではなかろうか。)
 有事においては、平時の倫理はそのまま通用はしないということを、我々は忘れてはなるまい。(太田)

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[以仁王の令旨](コラム#11418も参照)

下  東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所

   應早追討淸盛法師并從類叛逆輩事

 右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣。奉

 最勝王勅偁。淸盛法師并宗盛等、以威勢起凶徒亡國家、惱乱百官万民、虜掠五畿七道、幽閉皇院、流罪公臣、断命流身、沈淵込樓、盜財領國、奪官授職、無功許賞、非罪配過。或召鈎於諸寺之高僧、禁獄於修學之僧徒。
 或給下於叡岳絹米、相具謀叛粮米、断百王之跡、切一人之頭、違逆帝皇、破滅佛法、絶古代者也。
 干時天地悉悲、臣民皆愁。
 仍吾爲一院第二皇子。
 尋天武天皇舊儀、追討王位推取之輩、訪上宮太子古跡、打亡佛法破滅之類矣。
 唯非憑人力之搆、偏所仰天道之扶也。
 因之、如有帝王三寶神明之冥感。
 何忽無四岳合力之志。
 然則源家之人、藤氏之人、兼三道諸國之間堪勇士者、同令与力追討。
 若於不同心者、准淸盛法師從類、可行死流追禁之罪過。若於有勝功者、先預諸國之使節、御即位之後必随乞可賜勸賞也。

 諸國宣承知、依宣行之。

治承四年四月九日
  前伊豆守正五位下源朝臣仲綱

 東海・東山・北陸三道諸国の源氏、 ならびに群兵らに下す。
 清盛法師とその一族ら、反逆の輩の追討に早く応じること。
 上記について、前の伊豆守・正五位下の源朝臣・<仲>綱が宣する。 以仁王原文「最勝王」の勅を奉じ、称する。
 清盛法師ならびに宗盛らは、権勢をもって凶悪な行いをし、 国家を滅ぼし、百官・万民を悩乱し、 日本全国を攻略し、天皇・上皇を幽閉し、 公卿を流罪にし、 命を絶ち、流刑にし、淵に沈め、軟禁し、財産を盗み、領国を私物化し、 官職を勝手に奪い授け、 功績も無い者に賞を許し、 罪も無いものに罪を科す。
 諸寺の高僧を召し取りこめて、修学の僧徒を禁獄し、 または比叡山の絹米を謀反の糧米として横領し、 百王の事蹟を絶ち、 摂関原文は「一人之人」。
 国語では摂政・関白を指す場合があり、 文脈的にそのように訳す。
 あるいは摂関家である藤原氏全般を指すか。
 
の首を切り、 天皇に違逆し、 仏法を破滅し、 古代からの伝統を絶つ者である。
 時に天地はことごとく悲しみ、 臣民みな愁う。
 そこで、私は後白河法皇原文「一院」。高倉上皇に対して言う。
 
の第二皇子であるから、 天武天皇の旧儀を尋ねて、 王位を簒奪する輩を追討し、 聖徳太子原文「上宮太子」の古跡を訪ねて、 仏法破滅の輩を討ち滅ぼそうと思う。
 ただ、人間の力に頼るばかりでなく、 ひとえに天道の助けを仰ぐところである。
 これによって、もし帝王に三種の神器と神明のご加護があるならば、 どうしてたちまちに諸国に力を合わせよう「四岳」は堯舜時代の四方の諸国の長官。 または泰山(東)、華山(西)、衡山(南)、桓山(北)のこと。という志の者が現れないことがあろうか。
 そこで、源氏、藤原氏、または三道諸国の勇士らよ、 同じく追討に与力せしめよ。
 もし同心しないものは、清盛法師ら一族に準じて、 死罪・流罪などの罪科が行われるだろう。
 もし勝って功績あるものは、 まず諸国の施設に報告し、 即位の後には必ずのぞみのままに恩賞を与えられるだろう。

 諸国よろしく承知し、宣旨に従って行え。

 治承四年四月九日 前の伊豆守・正五位下・源朝臣仲綱 
http://socialakiba.com/index.php/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%BB%A4%E6%97%A8

⇒文面から、この令旨が、(仲綱の父親の)頼政(達)と以仁王の合作であることが明らかだが、二人とも、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を知らされていなかったことは当然だとしても、仏教に関連してだけだが聖徳太子には言及しつつ、桓武天皇にとっては仇敵とも言うべき天武天皇に、以仁王が自分を準える、という鈍感な歴史認識には引いてしまう。
 とはいえ、この二人が、源行家に令旨を真っ先に頼朝に届けさせたのは、頼朝が、清和源氏の棟梁である、という認識を頼政が持っていたからだろう。(太田)
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 [熊野別当湛増以仁王の挙兵密告説について]

 「源行家<は、>・・・1141年・・・から・・・1143年・・・頃・・・源為義の十男として生まれる。・・・
 熊野三山の要職に就いていた新宮別当家嫡流の行範(のちに19代熊野別当に就任)の妻となった鳥居禅尼(たつたはらの女房)の同母弟。
 しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した。・・・1159年・・・の平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する。・・・1180年・・・、摂津源氏の源頼政に召し出され、山伏に扮して以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した。八条院<(注17)>の蔵人<(注18)>に補され、行家と改名したのはこの時である。

 (注17)八条院(暲子(しょうし)内親王)(1137~1211年)。「鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)。近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたる。・・・
 暲子内親王は父・鳥羽法皇が「朝夕の御なぐさめ」として手元に置いて育てた。・・・
 1146年・・・4月、准三后となる。・・・1155年・・・に近衛天皇が崩御した際、父・鳥羽法皇は暲子内親王を次の天皇にする事を真剣に考えたともいわれている・・・
 <⇒そんなことはありえない。(太田)>
 終生、未婚であったが、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。以仁王は八条院の猶子であり、王が八条院女房・三位局との間に儲けた子女のうち、男子は東寺長者・僧正となった安井宮道尊であり、女子は三条姫宮と呼ばれた。・・・
 彼女は・・・1140年・・・、わずか4歳の時に父・鳥羽法皇から安楽寿院領などを譲与され、その後に生母美福門院から相続した所領、および新たに寄進された所領をあわせて、全国に二百数十箇所に及ぶ荘園があった。これらは女院の管領下にあって八条院領と呼ばれ、中世皇室領の中枢をなす一大荘園群をなした。
 皇太子・守仁親王(後の二条天皇)の准母となって、その養育を任され、その異母弟の以仁王の養母となる。守仁親王が即位すると、・・・1161年・・・12月16日、女院号宣下を受けて八条院と称する。・・・
 その後も異母兄である後白河法皇の院政を影から支えており、平清盛でさえも彼女の動向を無視することは出来なかった。二条天皇が彼女を准母として自らの正統性を示し、後白河院も幾度となく八条院御所へ御幸していることからも、彼女の存在が重く見られていた事実がわかる。
 ・・・1180年・・・、猶子である以仁王が反平氏の兵を挙げた(以仁王の挙兵)。この際、八条院が密かに支援しているのではと言われ、実際、八条院は以仁王の子女(生母は八条院女房)を自身の御所で匿っていたが、清盛も社会的な反響を恐れて結局は以仁王の男子を出家させることを条件に女院の行為を不問にせざるを得なかった。だが、全国各地にあった八条院領には「以仁王の令旨」が回されて現地の武士団による反平氏蜂起が促されていった。以仁王が発した平家追討の令旨を各地に伝達したとされる源行家は八条院の蔵人であり、また別の八条院荘官も源頼朝と連絡を取っていた。また、池大納言平頼盛・・・も八条院乳母子を妻として女院の官人となっていた。八条院自身の立場はさておき、彼女の周辺には、反平家の人々が集っていた。なお、安徳天皇の西走後にも彼女を中継ぎの女帝として擁立する動きがあったと言われている。
 以仁王の王女・三条姫宮を養女とし、<八条院は、>大病に罹った・・・1196年・・・正月、所領の大部分を彼女に譲った。ほかの小部分をこれも猶子とした九条良輔に譲与した。三条姫宮は八条院がもっとも長く養育していた子供で、思い入れも深かっただろうが、実際の譲状には後鳥羽上皇の気持ちを考えてか、まず三条姫宮に管領させ、姫宮一期の後、上皇の皇女である昇子内親王へ譲るとあった。・・・1204年・・・、姫宮の死去によって再び荘園を管領した。その後、もう一人の養女である昇子内親王に八条院領の大部分を伝えた。・・・
 八条院領は後に順徳院・後高倉院・安嘉門院の手を経て、やがて大覚寺統の重要な経済基盤となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B2%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 (注18)「幼い時に父・足利義康を亡くした義兼は、伯父・源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる<が、>・・・1180年・・・に血縁的に近い源頼朝が以仁王の令旨に応じて伊豆国で挙兵すると、河内源氏の一族であり、また以仁王を養育した暲子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係からか、義兼は比較的早い時期から頼朝に従軍してい<る>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%85%BC
 それに対し、「<新田>義重は周囲の藤姓足利氏や秩父党、源義賢と対立するが、甥である足利義兼や源義朝と連携し<て>、それらに対抗<し、>特に義朝の長子義平に娘を娶らせるなど積極的に関係を強めてい<たところ>、平治の乱で義朝が没落すると平家に接近している。・・・治承・寿永の乱となる<と>平家に属し、京に滞在していた新田義重は、頼朝討伐を命ぜられ東国に下った。
 <しかし、>義重は上野国八幡荘寺尾城に入り兵を集めながら事態を静観し、頼朝追討に加わらなかった。その後、木曽勢は上野国へ進出し、下野国足利荘を本拠とする平家方の藤原姓足利氏の足利俊綱と対立するが義重は中立を保つ。一族の中には、甥・足利義兼や子・山名義範、孫・里見義成など、鎌倉を本拠とした頼朝のもとへ参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。義重は頼朝から参陣の遅さを叱責されたといわれる。その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録<も>な<い>・・・。1221年の承久の乱にも惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。これらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場で・・・源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。また、早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%B0%8F
 八条院(暲子内親王)と来れば、上西門院(統子内親王。1126~1189年)も併せて紹介すべきだろう。
 <彼女も、>同じく鳥羽天皇の皇女で、母親は、あのいわくつきの待賢門院(藤原璋子)であり、「わずか1歳年<下の>・・・同母弟<の>・・・後白河天皇の准母<になり、>・・・松殿基房の次男・藤原家房を猶子とし<た。>・・・後白河天皇とは親しい仲で行動を共にすることも多く、[そのため平治の乱では後白河共々軟禁されるという災難<に>もあった<。>]彼女の死に際して後白河院は深く悲しんだと伝えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
http://kamosaiin.net/aoi28.html ([]内)
 「<母の>待賢門院が死去すると,その遺領の仁和寺法金剛院領を受け継ぎ,それがのちの上西門院領の中核となる。・・・源頼朝の父義朝は上西門院の女房の妹<の由良御前>を妻とし,頼朝自身も上西門院に仕えてその蔵人となり,右兵衛権佐となるなど,義朝・頼朝父子の立身にはこの女院の存在が大きかった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E8%A5%BF%E9%96%80%E9%99%A2-79226
 「熱田大宮司・藤原季範を父として尾張国に生まれ<たところの、>・・・由良御前自身も上西門院の女房であった可能性が示唆されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E8%89%AF%E5%BE%A1%E5%89%8D
 「上西門院女房で平清盛の義妹にあたる小弁局(平滋子。清盛の妻時子の妹)は、後白河院の寵愛を受けて高倉天皇を産み、国母の女院・建春門院となった。」
http://kamosaiin.net/aoi28.html 前掲
 足利義長(?~1183年)は、「父・・・足利義康・・・から継承した下野国足利荘に拠った異母弟・義兼とは異なり、・・・同母兄の義清と共に京において活動、上西門院に仕えた。その後義清と共に源義仲の麾下に参加。・・・1183年・・・の水島の戦い<(後出)>においても義仲軍の総大将を務める義清に従い出陣し、伊勢平氏と対峙する。しかし船戦を得意とする平家方の前に義仲軍は大敗を喫し、義清・・・らと共に・・・壮絶な戦死を遂げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E9%95%B7

⇒八条院蔵人や上西門院蔵人という職位は、事実上、反平家秘密結社の公然メンバーを意味したのであり、彼らは、八条院や上西門院の広大な荘園群から得られるカネや荘園群の荘官達というマンパワーをふんだんに使うことができたのだから、私は、平家が、以仁王の挙兵からわずか5年で完全滅亡したのは当然ではないか、という気がしてきている。
 なお、「注17」中に、「八条院自身の立場はさておき」とあるが、受動的な天皇家観、と、女性蔑視意識、を捨て去って虚心坦懐に見れば、この秘密結社の組長は後白河、最高顧問は近衛家、若頭は八条院、若頭補佐は上西門院、で決まりだろう。(太田)

 なお『覚一本平家物語』によると、行家の動きは熊野別当湛増に気付かれて平家方に密告され、以仁王の挙兵が露見する原因になったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E5%AE%B6

 このように、以仁王の挙兵を密告した者を、覚一本平家物語だけが、熊野別当湛増としているが、それがフィクションであると私が考える理由を以下に記しておく。

 まず、熊野三山についてだ。↓

 「上皇の参詣の先例としては宇多院や花山院の例が知られるが、大規模な熊野詣の契機は・・・1116年・・・に白河院が行った2回目の熊野詣であった。・・・<この>年の熊野詣以降、恒例行事として定着した。高野山でも金峯山でもなく熊野が選ばれた最大の理由は熊野が霊場であるとともに神域としても整備されており、王権守護に対する期待と共に浄土信仰と記紀神話が融合された当時の神仏習合の流れに合致した土地であったからと考えられている。それ以降、院政期には歴代の上皇の参詣が頻繁に行なわれ、後白河院の参詣は34回に及んだ。上皇の度重なる参詣に伴い、在地勢力として熊野別当家が形成され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E4%B8%89%E5%B1%B1

 どうして、白河上皇が熊野参詣を恒例化し、それが鳥羽上皇、後白河上皇、更には後鳥羽上皇
https://www.mikumano.net/setsuwa/gotoba.html
にまで受け継がれたのか。(注19)

 (注19)「承久の乱後は、わずかに後嵯峨上皇が2回、亀山上皇が1回詣でているのみで・・・<上皇の>熊野御幸は終焉に向か<う。>」(上掲)

 その手がかりとなるのは、白河上皇の、「摂津国渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とし、瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁だった渡辺党」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%BB%8D
との関係だ。↓

 「渡辺氏の祖<の>・・・渡辺綱は義父・源敦の室の兄である摂津源氏の源頼光の郎党となり、「頼光四天王」の筆頭とされる。・・・
 渡辺綱の後裔は、摂津の渡辺津(大阪市中央区)という旧淀川河口辺の港湾地域を本拠地とする「渡辺党」と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与して瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に、綱の曾孫にあたる渡辺伝は白河院より皇室領である大江御厨の管理を認められ(渡辺惣官職)、京都では内裏で天皇の警護・・・に就く滝口武者を世襲し、他にも衛門府、兵衛府など中央の官職を有していた。渡辺伝の子孫には三つの流(満・重・房)が存在したことが知られており、中央の官職に就けなかった庶流が摂津源氏の郎党を構成していたとみられている(伝の嫡流であった満流は院権力と直接関係を強めていったため、摂津源氏との直接的な結びつきは希薄であった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B0%8F

 つまり、白河上皇は、摂津源氏を盛り立てるために、もともと摂津源氏と密接な関係があった渡辺党の勢力伸長に手を貸すと共に、渡辺党を滝口武者等に積極的に登用したわけだ。
 このことを念頭に置いた上で、いよいよ、熊野別当についてだ。↓

 「熊野山は、依然として地方霊山の一つでしかなかったが、白河院の・・・1090年・・・の<初めての>熊野御幸後、事情は一変する。熊野御幸から帰還した後、白河院は、先達を務めた園城寺の僧侶・増誉を熊野三山検校に補任すると同時に、熊野別当を務めていた社僧の長快を法橋に叙任した。これにより、熊野三山の社僧達は中央の僧綱制に連なるようになった。このとき設けられた熊野三山検校の職位は確かに熊野三山を統べるものとされたが、検校は熊野には居らず、統轄実務を担ったわけではなかった。宗務は無論のこと、所領経営、治安維持、さらに神官・僧侶・山伏の管理にあたったのは熊野別当とそれを補佐する諸職であり、当初その財政基盤となったのは、白河院から寄進された紀伊国内2ケ郡の田畠百余町であった。
 熊野別当を世襲した熊野別当家は、後に新宮に本拠を置く新宮別当家と本宮と田辺を拠点とする田辺別当家に分裂しつつ、別当職を務めた。・・・
 熊野別当の職<は>、熊野の衆徒の推挙をもとに勅旨によって任命されていた・・・
 田辺・新宮両家の対立を避けるため、<田辺家出身の>湛快は新宮家出身<の>・・・行範を19代別当としたが、行範は別当就任1年で死去した。・・・
 行範は、妻が源為義の娘の鳥居禅尼(または、立田腹の女房〈たつたはらのにょうぼう〉)であることに加え、為義の子・行家の勧めもあって源氏に与し、新宮別当家の影響が強い新宮や那智の衆徒もそれにしたがっていた。行範死後、新宮家は別当職を田辺家に譲らず、・・・1174年・・・、行範の弟の範智が20代別当に就任した。範智は、権別当に<田辺家の>湛増を迎え、京都と田辺を往来したことで政略に長ずるようになった湛増の助言と新宮家嫡流の行命の補佐を得て、・・・1181年・・・まで在任することができた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%88%A5%E5%BD%93
 「豊富な船材と良港に恵まれながらも、耕作地に乏しい熊野には海を舞台に活躍する水軍が早くから発達した。紀淡海峡など四国と紀伊半島の間に出没した南海海賊の多くは熊野の浦々を拠点とする海の領主で、彼らを熊野別当が統括していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%B0%B4%E8%BB%8D

 つまり、白河上皇は、清和源氏のサブ棟梁を擁する摂津源氏には友軍たりうる水軍がいるのに、メイン棟梁を擁する河内源氏にはいなかったことから、(別段、篤く信仰していたとも思えない)熊野参詣を繰り返すことで、熊野別当家に田畠という実利と熊野三山の権威引き上げという名誉を与えつつ、同家と河内源氏(為義)とを結びつけたわけだ。
 (「1106年・・・に義家が死去すると義忠が家督を継ぐが、・・・1109年・・・に暗殺された(源義忠暗殺事件)。義忠の叔父・源義綱一族が嫌疑を受けて追討の対象になると為義は美濃源氏の源光国と共に追討使に起用され、義綱を捕縛して京へ凱旋した。この功により、為義は14歳で左衛門少尉に任じられた。初期の為義は院との関係が深く、・・・『愚管抄』には白河法皇が「光信、為義、保清の三人を検非違使に任じ、即位したばかりの鳥羽天皇を警護させた」とあり、永久の強訴や・・・1123年・・・の延暦寺の強訴では平忠盛と並んで防御に動員されるなど、院を守護する武力として期待されていたことが分かる。為義の最初の妻も白河院近臣・藤原忠清の娘で、長男の義朝を産んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9 
という次第であり、白河こそが為義を河内源氏の次期棟梁として確定させたと言っても過言ではない。
 このような成行に、何も知らないまま、清和源氏嫡流との競争心に駆られていた平清盛も、熊野別当家への影響力確保を目的として、熊野詣を始めていたということなのだろう、1160年に平治の乱が勃発した当時、彼は熊野詣の最中だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1 )
 さて、湛増(1130~1198年)のウィキペディアには、以下のように記されている。↓

 「源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる<(注20)>(『延慶本平家物語』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%9B%E5%A2%97

 (注20)「鳥居禅尼は治承・寿永の乱後、乱中の数々の功績によって、甥に当たる将軍源頼朝から紀伊国佐野庄および湯橋(1190年)、但馬国多々良岐庄(1194年)などの地頭に任命され、鎌倉幕府の御家人になった・・・。
 ・・・1210年・・・、幕府は鳥居禅尼の願いをいれ、これらすべての知行地の地頭職を養子に譲補することを認めた。養子の名前はわからないが、行詮の子の行忠か長詮が養子とされたと思われる・・・。
 新宮別当家は、こうした鳥居禅尼の働きにより鎌倉将軍家の一族として手厚く遇され、熊野三山内外にその勢力を伸ばしていったものと思われる。鳥居禅尼は女性なので別当にこそなれなかったが、熊野三山統轄機構の中枢部にいた夫の行範や義弟の範智(20代熊野別当)、それに娘婿の湛増(21代熊野別当)、さらには子や孫を通じてその影響力を大いに発揮し・・・たと伝えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E7%A6%85%E5%B0%BC

 以上から、熊野別当家の勢力伸長は、白河上皇から始まったところの、鳥羽、後白河、の三代にわたる治天の君がもたらしたものであって、(同じく白河上皇から始まったところの、歴代治天の君の意向の下、)熊野別当家と河内源氏とが密接な関係を構築した、と、断定できよう。
 
 (参考)
        行範(新宮家。19代熊野別当)
|—————————-女子
    源為義-たつたはらの女房(鳥居禅尼)  |
       -行家              湛増(田辺家。21代熊野別当)
     
 続けよう。↓

 「『愚管抄』によると、<湛快は、>・・・1159年・・・に平治の乱が起こった際、ちょうど・・・熊野参詣中の平清盛らに対し鎧7領と弓矢を提供して支援し、紀北を代表する武士団・湯浅党の棟梁である湯浅宗重とともに清盛らに急いで帰京することを勧めてその勝利に貢献した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%9B%E5%BF%AB
 「<この湛増の>父湛快(18代別当)<は、>・・・熊野別当家内部における田辺別当家の政治的立場をより強固なものにし、その勢力範囲を牟婁郡西部から日高郡へと拡大していった。湛増もまた<父湛快同様、>平氏から多大の恩顧を受けつつ、若い頃から京都と熊野を盛んに行き来し、・・・1172年・・・頃には京都の祇陀林寺周辺に屋敷を構え、日頃から隅田俊村などの武士を従者として養いつつ、当時の政治情勢に関する色々な情報を集め、以前から交流のあった多くの貴族や平氏たちと頻繁に交わっていた。
 ・・・1174年・・・、新宮別当家出身の範智が20代別当に補任されるとともに、湛増が権別当に就任し、範智を補佐。
 治承4年(1180年)5月、湛増は、新宮生まれの源行家の動きに気づき、平氏方に味方して配下の田辺勢・本宮勢を率い、新宮で行家の甥に当たる範誉・行快・範命らが率いる源氏方の新宮勢や那智勢と戦ったが、敗退した(『覚一本平家物語』)。この後、すぐさま源行家の動向を平家に報告して以仁王の挙兵を知らせた。しかし、同年10月、源頼朝の挙兵を知り、それ以後、新宮・那智と宥和を図るとともに、熊野三山支配領域からの新宮別当家出身の行命や自分の弟湛覚の追放を策し、源氏方に味方した(『玉葉』)。」(上掲)

 すぐ上の記述における、熊野別当家が「平氏から多大の恩顧をうけ<た>」かどうかはともかくとして、「湛増は・・・源行家の動向を平家に報告して以仁王の挙兵を知らせた」、は、誤りだ。
 (京に争乱が起きた時、熊野参詣中の丸腰に近く家臣もわずかの武家の支援をするのは、それが誰であれ、ホストとしては当然の気配りであり、それをもって湛快が平家を支援した、とは必ずしも言えまい。)、
 その理由だが、下掲に目を通して欲しい。↓

 「<湛増は、>延慶本では那智執行 ・権寺主・正寺主・覚悟法橋・羅睺羅法橋・鳥居法橋・高坊法橋等は、田辺法橋を大将軍として、行家に同調する動きを見せていた新宮方を襲撃して敗れたとされている。ところが『源平盛衰記』では、源氏に同調する動きを見せたのは那智・新宮方の那智執行・正寺主・羅睺羅法橋・高坊法眼等であり、平家への恩義からこれを攻めたのは大江法眼となっている。
 この食い違いについて、高橋修氏は自著の論文中で次のように述べている。
 こうした食い違いは、諸本が、確たる事実に立脚しているわけではなく、後の情勢の推移からそれぞれ予定調和的にこの内紛を説明しようとした結果であろう。
 ここでは、諸本に一致している、熊野に以仁王令旨がいち早くもたらされ、それへの対応をめぐって内紛が起ったことだけを事実として確認しておけば十分である。
 ・・・この高橋氏の論に沿い、内紛が起ったという事実のみ受け取ろうと思う。
 ・・・『玉葉』・・・の湛増の挙兵に関する記録・・・<は、>信頼できる記事である<が、>湛増の挙兵が8月中旬であるということに注目していきたい。
 源頼朝の挙兵は8月17日、木曾義仲の挙兵は9月7日のことであった。
 湛増は、諸国源氏に先駆けて兵を挙げており、それが独自性の強い反平家の挙兵だったことが分かると思う。

⇒誰も、湛増が以仁王の挙兵をどうして知ったかを詮索していないが、源頼政が、八条院蔵人を務めていた養子の仲家(為義の孫で義仲の兄)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BB%B2%E5%AE%B6
を通じ、(後白河上皇から、頼政に便宜を図ってやるよう依頼されていたと見る)八条院に対し、自分の縁戚の源義盛という者を蔵人にして欲しいと頼み、了承され、名前を源行家と改めさせ、その上で、その行家に以仁王の令旨を託し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E5%AE%B6 ←背景史実
まず、実母姉の鳥居禅尼に令旨を渡し、禅尼から、夫である熊野別当の行範と娘婿である熊野権別当の湛増、にこの令旨を伝えてもらった、と想像している。
 「大内守護として、嫡男の仲綱とともに二条天皇・六条天皇・高倉天皇の三代に仕え、また後白河法皇の武力として活動して<きた>・・・源頼政」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF
、と、後白河上皇の子の以仁王、そして、「後白河法皇の院政を影から支えて<きた>」八条院(上出)、とが協力した陰謀であり挙兵であるとしか見えない以上、京の政情を熟知している湛増は、これは、別当家が大恩を蒙っているところの歴代治天の君の三代目たる後白河上皇の意思に基づくもの、と受け止めたに相違なく、彼がこの情報を平家に密告するようなことはあり得ないし、そもそも、密告などしたら、万一それがバレた場合、鳥居禅尼の逆鱗に触れて、別当家総体から追放されてしまうことは必至であるだけに、湛増がそんなリスクを冒すはずがなかろう。
 なお、頼政が、行家を令旨の伝達者に選んだのは、令旨の名宛先が「源氏、 ならびに群兵ら」ないし「源氏、藤原氏、または三道諸国の勇士ら」であって、主名宛先が源氏であることから、伝達者は清和源氏の、しかも、嫡流筋の人間であることが望ましかったのだろうが、問題が2つあった。
 行家が為義の子の行家(義盛)であること、と、その行家の伝達する令旨が真正な(最勝王こと)以仁王の令旨であること、をどう証明するか、という・・。
 前者については行家は清和源氏であれば誰でも知っている鳥居禅尼による「証明書」をもらうことで解決できた・・頼朝に関しては、平治の乱の時に一緒に戦っていたので面識はあっただろうが、何せ、20年も経っている・・し、後者については頼政が行家を八条院の蔵人にして八条院による「証明書」をもらうことで解決できた、というのが私の想像だ。(太田)

 次に、弟湛覚との抗争から軍事活動が始まったのも注目すべき点である。・・・
 『仁和寺諸記抄』<も踏まえれば、>・・・前年10月以来の弟との抗争が、この時期には反国家的軍事行動にまでエスカレートしていることが分かる。
 湛増がなぜこのような行動を起こしたか。その疑問はこの段階での湛増の三山における政治的<立ち>位置を見れば解決する。
 長快に始まった熊野別当家は長快の死後、嫡男で新宮の拠点を受け継いだ長範が別当となって継承した。別当職は長範の後、岩田家の長兼、本宮から後に田辺に移る湛快が中を継いだが、やがて新宮家の正嫡行範の手に移った。
 行範の後も新宮家の範智が就任し、その後も新宮家の正嫡の行命と決まっていた。このように、湛増の時代には新宮家が別当を出す正統な家として確立しつつあったのである。
 田辺家は田辺に進出することによって新宮家にも匹敵するほどの実力を養いながらも岩田家等とともに一庶流の位置に甘んじなければならなかった。事態は湛増が別当として三山の主導権を握るのは困難な方向に向かっていた。そこで湛増は、内乱を積極的に地域に持ち込み、軍事力を自己のもとに集中し、三山における政治的主導権を一気に獲得せんという企てを立てたのである。
 湛増が諸勢力にも先駆けて挙兵に踏み切った要因は、三山の政治状況の中から、このように説明できるのである。
 ではその後の展開を・・・『百錬抄』<も踏まえつつ、>見てい<くと、この>・・・湛増の挙兵<は、一旦、>挫折し<てしまったのである。>・・・
 <やむなく、>11月17日、湛増はいったん降伏し、息僧を人質に差し出して宥免を乞うた。・・・
 <こ>の挫折による窮地を、湛増は伊勢・志摩方面に水軍を発向させることで脱出していく。
 湛増がこの地方を狙ったのは、軍事力がはるかに劣る伊勢神宮の所領が多く、またこの地方が平家の本拠地にも近かったため、<平家>政権に揺さぶりをかけられると期待したからである。・・・
 2月・閏2月にかけて、阿波国・尾張国へも出兵している。・・・
 この年、熊野では別当範智が死に、後を新宮家正嫡の行命が継承しようとしていた。・・・
 湛増は<、>軍事行動の成功を盾に・・・行命を孤立させ追い込んでいった。
 身の置き場のなくなった行命は熊野を去り、都の平家を頼ろうとした・・・。
 また、田辺家のなかにあって湛増に対抗していた湛覚は、・・・1183<年>11月19日の木曽義仲のクーデターのときに院方として討たれているので、その時までに熊野を離れ、縁を頼って後白河上皇のもとに身を寄せていたことになる。
 こうして熊野における湛増の軍事政権が成立したのである。・・・
 熊野は、太平洋と瀬戸内の航路が出会う列島における海上交通の要地であり、その沿海部には、当然、・・・「海賊」と呼ばれた・・・海民や海を基盤とする領主たちが、古来より数多く存在していた。・・・
 彼らは緩やかに三山の傘下に属し、比較的自由な活動を展開してきたのである。
 瀬戸内などにおける平家支配の難民的海民も、この地に流入していただろう。
 ところが平清盛が政権を獲得すると、こうした状況に変化が生じてきた。・・・
 紀伊国が平家の知行国化すると、熊野に対する支配も当然強化の方向に向かったのである。・・・
 湛増に従ったのは、熊野地方に対する平家の支配強化の動きに反発する、この地の海上勢力であったに違いない。・・・
 反平家の立場で三山の実権を掌握した湛増が水車を率いて源義経軍に合流したことが都に伝えられたのは、屋島合戦後の・・・1185<年>2月21日のことである。・・・
 湛増は、この段階までは独自の軍事行動を展開していた。・・・
 湛増の源氏軍参加は、義経の要請に応じたものと思われる・・・
 <その>湛増は、・・・1184<年>10月に、念願の<熊野>別当職に補任されている。
 この補任について、阪本敏行氏は一の谷合戦後、義経が左衛門少尉・検非違使に任じられ10月に院内昇殿を許された、後白河院による人事と一連のものと考えている。・・・
 この段階から両者が一味として活動していた結果である可能性は高いと言えるのではないだろうか。・・・」(下田奈津美「熊野別当と熊野水軍–湛増期における熊野水軍の動向–」(注21)より)
 
https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2012/h2012_05.pdf

 (注21)京都学園大学人間文化学部2012年度卒業研究
https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/human_association_2012.html

⇒以上からも、後白河上皇が、治承・寿永の乱の真っ最中に、頼朝を見限り、武家総棟梁候補を義経に切り換えた可能性が高いこと(後述)が推認できる、というものだ。
 最後に閑話だが、下田奈津美の、学部卒業論文での、この文章力、この論理性、には恐れ入った。
 もとより、文章力で言えば、例えば、同世代の芥川賞作家は、これまで何人もいるわけだが、両者を兼ね備えるというのは稀有のことだ。
 その彼女、ネット上では、同年の木津川下り関係者の催し事としての講演会で講師の一人を務めたことしか事績が出てこないのはどういうわけか。
 結婚して姓が変わっただけかもしれないが・・。(太田)
—————————————————————————————–

 (3)石橋山の戦い(1180年8月23日)

 以下、広義の治承・寿永の乱のほぼ全ての戦いを紹介するが、その目的の一つは、武家総棟梁指名と武家への権力移譲事業、が、いかに、文字通り日本全国を舞台にした、困難極まるものであったかを実感してもらうことだ。

 「[源行家<は、恐らくは熊野に一旦戻った後に、>東国へと向か<い>、まずは、]4月27日に・・・蛭ヶ小島(または北条館)を訪れた。行家はほかへも令旨を届けるためにすぐに立ち去った。

⇒「以仁王の挙兵<の際、>・・・頼政の末子の広綱や、<長男の>仲綱の子の有綱・成綱は<仲綱の前>知行国の伊豆国にい<て、>・・・源頼朝の挙兵に参加<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%94%BF
というのだから、行家が令旨を届けたことは、儀式に過ぎなかったとさえ言えそうだし、いずれにせよ、(伊東祐親が真面目に頼朝を監視していたかどうかに関わりなく、)行家は安全かつ確実に令旨を頼朝に届けることができたわけだ。
 なお、行家の東国でのミッションは、令旨を真っ先に届けたと思われる頼朝との、令旨の「正式な」伝達を行ったところの、この「儀式的な」面会、以外はつけたしに過ぎなかったのではなかろうか。(太田)

 5月、挙兵計画が発覚し、以仁王と頼政は準備不充分のまま挙兵を余儀なくされ、平家の追討を受けて戦死(以仁王の挙兵)。6月24日、京の三善康信<(注22)>(頼朝の乳母の妹の子)が平家が諸国の源氏を追討しようとしているので直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるようにと急報を送ってきた。

 (注22)「元々は太政官の書記官役を世襲する下級貴族で、算道の家柄の出身。・・・
 母が源頼朝の乳母の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、月に3度京都の情勢を知らせていた。・・・1180年・・・5月の以仁王の挙兵の2ヶ月後、康信は頼朝に<件の>使者を送<ったもの>。・・・
 1184年・・・4月、康信は頼朝から鎌倉に呼ばれ、鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼されると、これを承諾した(この時、中宮大夫属入道善信と呼ばれている)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E5%BA%B7%E4%BF%A1
 1184年4月当時の天皇は後鳥羽だが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87
まだ、中宮はいなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E4%BB%BB%E5%AD%90
ところ、中宮職には、太皇太后宮職、皇太后宮職も含まれるが、三善康信が誰の中宮職だったのかは突き止められなかったが、上西門院かも。

⇒三善康信が頼朝の乳母の妹の子であったのは恐らく本当だろう。
 しかし、朝廷の一技官であったはずの康信が、月3度も・・が本当だとして・・頼朝に書状を届けるだけでも当時のことだから費用を含めて大変だっただろうし、そもそも、月3度も届けるだけの情報を集める費用と労力はそれ以上大変なものだったはずだ。
 第一、そんなに朝廷内で情報を漁っていたら、いくら鈍感な平家だって、疑念を抱いたはずだ。
 となると、康信には、スポンサー兼情報提供者がいたはずだということになる。
 それは、後白河の依頼を受けた、八条院か上西門院から更に指示された誰かだろう。
 私は、この三善康信は、後白河の2号工作員と仮に名付けたい。
 なお、康信は、承久の乱の時、本人も一族も、鎌倉側に積極的に就く
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E5%BA%B7%E4%BF%A1
が、恐らく、後白河からの指示は全部果たした、そして、後白河の死とともに朝廷側との縁は切れた、と自分達自身を納得させたのではないか。(太田)

 また、源頼政の孫の源有綱が伊豆国にいたが、この追捕の為清盛の命を受けた大庭景親が8月2日本領に下向して頼朝らの緊張が高まった。<(注23)>・・・

 (注23)「大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。・・・1144年・・・に源義朝の郎党が相模国田所目代と共に三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻した(大庭御厨事件)。この義朝らの行動は朝廷から不問に付される。・・・
 1180年・・・5月、以仁王と源頼政が平氏打倒の兵を挙げると・・・追討の任にあたり、これを破った(以仁王の挙兵)。その後も在京していた景親は平家の家人の上総介・伊藤忠清に呼ばれ、駿河国の長田入道から北条時政(頼朝の舅)と比企掃部允(頼朝の乳母の夫でこの時には死去している)が伊豆国の流人の頼朝を擁立して謀反を企てているとの密書があったと知らされる。実際に頼朝は挙兵を決意し、内々に準備を進めていた。頼朝に同心する者の中には兄の景義もいた。
 8月2日に東国の所領へ帰国した景親は、9日に佐々木秀義を自邸へ招いて頼朝に謀反の疑いあることを相談した。秀義の息子たち(定綱、経高、盛綱、高綱)は既に頼朝と意を通じており、驚愕した秀義は直ちに頼朝に使者を送り告げた。この報告を受けて、頼朝は挙兵を急ぐことを決める。17日、頼朝は挙兵し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%99%AF%E8%A6%AA
 大庭景義(1128?~1210年)。「1156年・・・の保元の乱においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%99%AF%E7%BE%A9
が、「父景宗の墓があった相模大住郡豊田に拠る<すぐ下の>弟豊田次郎景俊と・・・いちはやく・・・源頼朝の挙兵に応じ,・・・たもとをわかって平家方の総大将となり,石橋山で頼朝軍を破った<が、その後、>・・・降参した相模の平家方大将の弟景親を斬った。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%BA%AD%E6%99%AF%E7%BE%A9-1061215
 ちなみに、末弟の俣野景久(?~1183年)は、「兄の大庭景親に与同して、石橋山の戦いでは平氏方につき源頼朝の討伐に参加し、頼朝を敗走させた。・・・その後、景親は源氏方に捕らわれ処刑されたが景久は逃亡し、北陸に敗退した平維盛軍に合流しなおも戦い続けた。しかし、倶利伽羅峠の戦いで源義仲軍と兵戈を交え、加賀国篠原(信濃国飯山との説もある)において討死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A3%E9%87%8E%E6%99%AF%E4%B9%85

 実は命を狙われていたのは源頼政の孫の源有綱であって頼朝が狙われていたのは誤報だったという説がある。・・・

⇒前述したように清盛は頼朝をさして警戒していたとは思えないことに加え、すぐ後で述べるように、以仁王や頼政の死後も、(清盛の心中を読み切っていた?)頼朝が悠々と挙兵計画を時間をかけて練っていることから、私もこの説乗りだ。(太田)

 27日に京より下った三浦義澄、千葉胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告する。
 一方この頃伊豆国の元の知行国主であった源頼政の敗死に伴い、・・・6月29日<に>・・・伊豆国の知行国主は<、頼政家から、>平清盛の義弟平時忠となり、それによって伊豆国衙の実権は伊東氏が握ることになり、源頼政に近かった工藤氏<(注24)>、北条氏は逼塞していくことになる。

 (注24)「藤原南家為憲流<。>・・・852年・・・、藤原為憲の官職が「木工助」であったため「工藤大夫」と称したのが源流<で、>・・・伊豆における工藤氏は平安時代から鎌倉時代にかけて勢力の伸張に従い鮫島氏、狩野氏、伊東氏、河津氏などそれぞれの地名を苗字とするようになった。中でも伊東氏は南北朝時代に日向国に移住し大きく栄えた。また一族の工藤行政は、鎌倉幕府に仕えた際、鎌倉二階堂に屋敷を構えたのを機に”二階堂”を称し、その子孫は二階堂氏となった。・・・遠江国の井伊氏もその後裔と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E6%B0%8F

⇒それにしても、いくら知行国主が国司推薦権と官物収得権を保有するだけ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%9B%BD
とはいえ、頼政に代わる知行国主に平時忠(後出)を就けるとは、とことん、清盛は脇甘だったなと思う。(太田)

 またその頃治承三年の政変に伴う知行国主の変更により、坂東各地では新知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方目代により旧知行国主系の豪族達が圧迫されており、頼朝が挙兵した場合旧知行国主系豪族の協力が見込まれることが予想できた。
 頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向を探らせた。『源平盛衰記』によると波多野義常は返答を渋り、山内首藤経俊に至っては「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」と嘲笑した。だが、大庭景義(大庭景親の兄)は快諾し、老齢の三浦義明は涙を流して喜び、一族を集めて御教書を披露して同心を確約した。千葉常胤、上総広常もみな承諾したという。三浦氏、千葉氏、上総氏はすべて平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
 頼朝は8月17日をもって挙兵することを決め、まず手始めに・・・<まだ>在任1か月余りに過ぎな<かったところの、>・・・伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。山木兼隆は元々は流人だったが平時忠と懇意であったために目代となり急速に伊豆で勢力を振るうようになっていた。また目代であるがゆえに旧知行国主系の工藤氏、北条氏の攻撃の標的とされることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-ryoji.htm ([]内)
 山木兼隆(?~1180年)は、「桓武平氏大掾氏の庶流<。>・・・検非違使少尉(判官)として別当平時忠の下で活躍し<ていたが、>・・・父・・・平信兼・・・の訴えにより罪を得て(理由は不明)・・・1179年・・・1月に右衛門尉を解任され、伊豆国山木郷に流される。・・・<前々伊豆守の>頼政と<前>伊豆守・・・の源仲綱が討たれた後の・・・1180年・・・6月29日に平時忠が伊豆の知行国主、猶子の平時兼(平信国の子)が伊豆守に任命され・・・兼隆<は>目代<に>任命<された。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%A8%E5%85%BC%E9%9A%86

⇒時忠は、わざわざ、現地にいた、トロそうで人望もなさそうな山木兼隆を目代に就けたのではないだろうか。(太田)

 「8月17日、伊豆北条に挙兵し、同国目代の山木兼隆を討った頼朝は、ついで三浦氏の軍との合流を望み相模に進出、石橋山に布陣した。しかし23日夕、<大庭>景親勢がこれを強襲、伊東祐親<(注25)>も背後をうかがった。

 (注25)     工藤祐経—————x   
          |          |
    伊東祐親-万劫御前 |
        -三浦義澄室 |
  -北条時政前室 |
        -八重姫 曾
        -河津祐泰—–曾我祐成 我
             —–曾我時致 兄
        -伊東祐清       弟
          |
         比企尼の三女
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E8%A6%AA ←祐親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E7%A5%90%E7%B5%8C ←祐経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%B4%A5%E7%A5%90%E6%B3%B0 ←祐泰        https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%B8%85 ←祐清

 三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義(いいだいえよし)、梶原景時など、景親の手に属しながらも内応する者があり、彼らの計らいで絶命の危機を逃れた頼朝は、箱根山中を経て土肥郷(どいごう)(神奈川県湯河原町、真鶴(まなづる)町)に脱出、28日には真鶴岬から海上を安房(あわ)(千葉県)に渡り、再挙を図ることになった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-30612

⇒頼朝にとっては、この敗戦は全く予想外のことだったはずだ。
 まず、大庭景親については、彼が、佐々木秀義を全く疑っていなくて、秀義に対して頼朝に関する軽口を叩くような人物で、この軽口のために予定よりも挙兵が前倒しになったとはいえ、景親が、坂東における親頼朝勢力が圧倒的であることが分からないほどバカだとまでは思ってもおらず、いずれにせよ、兄の景親と景俊が頼朝に合力するというのに、あえて末弟の俣野景久と頼朝討伐に乗り出すとは思っていなかったのではないだろうか。
 次に、伊東祐親についてだが、つい最近まで縁戚だった北条氏と縁戚である三浦氏が頼朝側につくことは分かっているだろうから頼朝追討は自制するだろうし、いずれにせよ、一度自分の命を救ってくれた祐清が、今度も、父祐親による頼朝追討を押しとどめてくれると思っていたのではないだろうか。
 もっとも、こういうこともありうることからこそ、後白河は、頼朝に、奥州への逃亡を勧めたというのに、この勧告に従わなかった頼朝は、すんでのところで命を失うところだったわけだ。
 とまれ、こういう次第で、諸戦い中、一回目の戦いは、平家側の勝利に終わったけれど、頼朝は九死に一生を得たわけだ。(太田)

 (4)由比ケ浜の戦い(1180年8月24、26日)

  ア 小壺坂合戦(8月24日)

 「頼朝と合流すべく所領の三浦半島を出た三浦義澄、和田義盛ら三浦一族500騎は丸子川(酒匂川)の辺りまで来ていたが、豪雨の増水のために渡河できずにいたところ、頼朝軍の敗北を知り、引き返した。
 三浦一族は鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠<(注26)>の軍勢と遭遇。・・・双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た。停戦がなり、双方が兵を退いた」

 (注26)畠山重忠(1164~1205年)。「多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従って20年に渡り忠実な家人として仕えた。
 ・・・1180年・・・8月17日に義朝の三男・源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵した。この時、父・重能が大番役で京に上っていたため領地にあった17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。・・・
 10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。・・・
 1181年・・・7月の鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。この頃に重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に迎えている。だが、この時期の重忠は父の重能がいまだに平家方にあったこともあり、必ずしも頼朝の信任を得ていなかったとする見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E9%87%8D%E5%BF%A0

  イ 衣笠城合戦(8月26日)

 「26日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら平家方の大軍が三浦半島に押し寄せた。三浦一族は本拠の衣笠城で防戦するが、先の合戦で疲労していたこともあって支えることができず、城を捨てて船で海上へ逃れることに決した。
 このときに89歳の三浦義明は・・・ひとり城に残り、討ち死にしている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
⇒畠山重忠の行動は、概ね、頼朝のヨミ通りだったはずだ。
 これは、諸戦い中、平家側の2度目の勝利だ。
 但し、相手方は石橋山の戦いでの敗北を引きずっており、平家側のまともな勝利だったとは言い難い。(太田)

 (5)波志田山合戦(1180年8月25日)

 はしたやまかっせん。「令旨は・・・甲斐国、信濃国へも伝達され<ていた>。・・・12世紀初頭に甲斐へ土着した甲斐源氏は甲府盆地一帯に勢力を及ぼしており、工藤氏など頼朝に近い伊豆の武士と姻戚関係を持つ氏族もいれば、加賀美遠光の一族である秋山氏や小笠原氏、武田有義など在京して平家方に仕えている氏族も存在していた。
 甲斐に所縁のある氏族のうち、工藤景光は頼朝の挙兵に賛同し一族の茂光・親光父子が頼朝のもとへ馳せ参じており、富士北麓の甲斐大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)を領する加藤光員・景廉兄弟は石橋山合戦の後に富士山麓に潜伏している。・・・
 甲斐源氏<は、>・・・石橋山合戦直後の8月12日・22日段階で挙兵していたと考えられている。
 ・・・石橋山合戦の敗退が甲斐へ伝えられると、甲斐源氏の一族のうち安田義定を筆頭とする、工藤景光・行光、市川行房ら伊豆の頼朝と近い氏族が頼朝救援に向かっている。
 また、平家方では大庭景親の弟である俣野景久が駿河国目代の橘遠茂<(注27)>とともに甲斐へ軍勢を派遣しており、両勢は8月25日に「波志田山」<(注28)>において衝突し<、平家方が敗北し>たという。・・・

 (注27)「駿河橘氏家祖。・・・遠茂の男為茂は・・・1187年・・・に北条時政の計によって、富士郡田所職に安堵された。
 <蛇足ながら、>安珍・清姫のモデルとなった・・・清姫<や>・・・六歌仙の一人<の僧>喜撰<や>・・・三筆<の一人の>橘逸勢<、更には、>・・・雑賀氏<や>・・・楠木氏<も橘氏だ。>」
https://seiseiruten.jimdofree.com/%E6%A9%98%E6%B0%8F%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%B3%BB%E5%9B%B3/%E6%A9%98%E6%B0%8F%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BA%8B%E5%85%B8/
 (注28)はしたやま。「「波志田山」の位置は富士北麓の西湖と河口湖の間に位置する足和田山(富士河口湖町)などが考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%BF%97%E7%94%B0%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6

 甲斐源氏は石橋山での頼朝敗退を知り甲斐へ退去したと考えられているが、・・・甲斐源氏の武田信義、一条忠頼らは9月に入ると信濃国伊那郡へ出兵し、9月10日に大田切郷(長野県駒ヶ根市)の菅冠者平友則(信濃平氏笠原頼直の子)を討つと甲斐へ帰還し、9月14日には甲斐北西部に想定される「逸見山」において頼朝の・・・命令<を>伝達<する>・・・使者北条時政を迎える。さらに9月24日には石和御厨(笛吹市石和町)において頼朝の使者土屋宗遠を迎え出陣を要請され、10月13日に武田信義を頭領とする甲斐源氏の一族は駿河へ出陣し、鉢田合戦や富士川合戦において平家方と戦う。・・・
 <この時点では、>信濃国府を抑え中信・北信地域で反平家活動を行っている木曾義仲らは・・・<甲斐源氏とは違って、まだ、>頼朝の命令下ではなく独自の行動を行っていたと考えられている」(上掲)

⇒ようやく源氏側が、待望の一勝目をあげたわけだ。(太田)

 (6)鉢田の戦い(1180年10月14日)

 はちたのたたかい。「10月13日、武田信義<(注29)>、一条忠頼、安田義定らの甲斐源氏は加藤光員、加藤景廉など石橋山の戦いで敗れた頼朝配下の武将たちをその軍に加え富士北麓若彦路へ向かった。

 (注29)1128~1186年。「武田氏の初代当主で新羅三郎義光の曾孫でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9

 同日、橘遠茂と長田入道は甲斐勢力を撃滅すべく富士野を回って甲斐国に攻め込もうとする。翌14日、駿河勢が鉢田に進軍したところ甲斐勢と遭遇し戦闘が開始される。山岳地帯の戦闘は甲斐勢が優勢となり、橘遠茂の子息二名、長田入道が討ち取られ、橘遠茂は捕虜となった・・・。
 都から平家本軍が到着する前に行なわれたこの戦いにおいて、平家方の橘遠茂・長田入道が敗北した結果、駿河は甲斐源氏の手中に落ちた。これは10月20日の富士川の戦いにおいて平家が敗北することになる要因の一つにもなった。
 なお、9月に波志田山合戦の行なわれた波志田山と鉢田山の位置は同一とする説もあるが波志山と鉢田山の位置は現在も特定されていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒行家による令旨の伝達が、頼朝に対するものしか伝えられていないのは、他には、八条院ルートで伝達されたケースが多かったからではないか、と、私は見ている。
 例えば、義仲には、八条院蔵人の兄の仲家からの密使の形で伝達されたのではなかろうか。
 また、やはり八条院蔵人でもあったが、当時、下野にいたと思われる足利義兼自らが、伯父の新田義重・・失敗・・、や、従兄弟の山名義範、や、従兄弟の子の里見義成ら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E9%87%8D
に対し、頼朝の麾下に帰参するよう根回しをした、と、私は見ている。
 令旨が伝達された後、頼朝から声をかけられた武家ももちろん多数あったことだろう。
 これで、平家側が2回続けて敗北したことになる。(太田)

 (7)市原合戦(1180年9月7日)

 「平家に与する信濃の豪族・笠原平五頼直が源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた。それを察した源氏方(信濃源氏の井上氏の一族)の村山七郎義直と栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で・・・信濃国水内郡市原・・川中島への犀川渡河地域と考えられている・・付近での戦いが行われた。・・・
 村山方は、源義仲に援軍を要請した。それに応じて大軍を率いて現れた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却した。そして、越後の豪族・城氏の元へと逃げ込んだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6

⇒またもや、源氏側の勝利。
 以後、源氏の内ゲバは当然別扱いだが、平家側が勝った場合のみ、何回目かを記すことにする。(太田)

 (8)鎮西反乱(1180年9月~1182年4月)

 例外的に、表記に関しては、(やや性格を異にすることから、)たくさんの戦いを一括りにして、要約的に紹介する。

 「1180年・・・9月に九州筑紫で反乱が起きた・・・。この反乱者は肥後国の豪族菊池隆直<(注30)>とみられる。この反乱行為に同じく肥後の武士である阿蘇惟安、木原盛実なども加わった。

 (注30)?~1185年。「日宋貿易拡大による平家の九州支配に反発<して>・・・反乱を起こす。・・・平家は、11月17日に熊野の湛増と共に隆直に対して赦免の決定を下している。湛増は平家に人質を出しているが、隆直の赦免に関しては、鎮西に兵を差し向ける余裕がないための体面的な処置と考えられる。・・・
 1182年・・・4月、隆直は貞能に降って平家に属した。・・・1185年・・・3月の壇ノ浦の戦いでは平家方で戦い、敗北したのち源義経に投降<し、>・・・斬首された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E9%9A%86%E7%9B%B4

 翌・・・1181年・・・に入って鎮西における反乱行為はますます活発化し、2月には反乱勢力は大宰府を焼き討ちするなどの行為を行なっている。
 それに対して都の平家は・・・1181年・・・1月に鎮西に派兵することを検討するが、実際には出兵することができなかった。その間にも鎮西における反乱は拡大し、豊後国でも臼杵惟隆、緒方惟栄兄弟による反乱が発生した。
 同時期に発生していた畿内、美濃、尾張の反乱に手一杯で鎮西に出兵できない平家は、・・・1181年・・・4月筑前の親平家の豪族である原田種直<(注31)>を太宰権少弐に任じて、反乱勢力に当たらせたが、この任官も実効的<たりえ>ず、・・・1181年・・・8月平家家人平貞能<(注32)>が鎮西に下向し、反乱勢力制圧に乗り出すことになる。

 (注31)1140~1213年。「原田氏は天慶の乱(藤原純友の乱)鎮圧に活躍した大蔵春実の子孫、大蔵氏の嫡流。代々大宰府の現地任用官最高位の大宰大監・少監(大宰府の第三等官・管内の軍事警察を管轄)を世襲する。最初期よりの武士団のひとつ。・・・
 保元の乱以降、大宰大弐(大宰府の第二等官)に続けて任官した平氏(平清盛・平頼盛)と私的主従関係を結ぶ。平清盛の長男・重盛の養女を妻とし、大宰府における平氏政権、日宋貿易の代行者となる。・・・平氏の軍事力の中核のひとつでもあ<った。>・・・<平家が滅びると、>平家没官領として領地を没収された(・・・3700町歩)。関東(一説には扇ヶ谷)に幽閉されるも・・・1190年・・・に赦免され、御家人として筑前国怡土庄に領地を与えられる。・・・
 一族およびその子孫は筑前・筑後・肥前を中心に繁栄。鎮西大蔵朝臣六家(原田氏・波多江氏・秋月氏・江上氏・原氏・高橋氏)といわれる家々を中心に国人領主、大名に成長するも、豊臣秀吉の「九州征伐」により没落。秋月氏を除き他家の陪臣となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%A8%AE%E7%9B%B4
 (注32)さだよし(?~?年)。「平清盛の家令を勤め・・・、清盛の「専一腹心の者」・・・といわれた。・・・1167年・・・5月、清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、平氏の中核的な家人集団も清盛から重盛に引き継がれた。同じ有力家人の伊藤<藤原>忠清<(前出)>が重盛の嫡男・平維盛の乳父であったのに対して、貞能は次男・平資盛の補佐役を任された。忠清は「坂東八カ国の侍の別当」として東国に平氏の勢力を扶植する役割を担ったが、貞能は筑前守・肥後守を歴任するなど九州方面での活動が顕著である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD

 貞能は約1年かけて鎮西の平定活動を行い、最終的には・・・1182年・・・4月頃菊池隆直が貞能に降伏して鎮西の反乱は一応の終結を見ることになるが、この反乱により平氏の鎮西における支配基盤が弱体化した。
 菊池隆直が降伏した後も平貞能は九州に留まっていたが・・・1183年・・・源義仲が都に迫る勢いを見せると貞能は制圧した鎮西の軍を引き連れて上洛する。その後平家は都落ちをするが平家が最初に目指したのは九州だった。しかし、貞能に平定されていたはずの鎮西の豪族たちは都落ちした平家に非協力的もしくは敵対的なものが多く、一旦は鎮西に上陸した平家はそこから追い出されることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E5%8F%8D%E4%B9%B1
 「平氏は<1183年>10月に九州の地を追われるが、貞能は出家して九州に留まり平氏本隊から離脱し・・・1184年・・・2月・・・に資盛と平貞能<は>豊後国の住人によって拘束された<らしい。>
 平氏滅亡後の・・・1185年・・・6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で[1184年・・・5月<に>]東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した・・・。この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E8%83%BD 前掲
 宇都宮朝綱(1122~1204年)は、「鳥羽院武者所、白河院北面武士。藤原姓宇都宮氏3代当主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E7%B6%B1 ([]内も)

⇒平貞能も後白河の工作員だった可能性があるが、一応、除いておく。(太田)

 (9)富士川の戦い(1180年10月20日)

 「頼朝挙兵の報は、9月1日・・・に大庭景親より福原へもたらされた。5日・・・に平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定する。
 <ところが、>追討軍の編成は遅々として進まず、平維盛、忠度、知度らによる追討軍が福原を出立したのは22日・・・であった。京に入っても総大将の維盛と次将(参謀役)の藤原忠清<(注33)>が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があり、京を発したのは29日・・・になってしまった。

 (注33)伊藤忠清(?~1185年)。「伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身<。>・・・
 保元の乱で平清盛の軍の先陣を務め、源為朝と戦う。この時、為朝の強弓を前に苦戦を強いられ、弟の忠直(伊藤六)が戦死する。・・・
 左兵衛尉を経て、・・・1170年・・・に右衛門少尉となる。忠清は平氏一門の中でも特に平重盛に近仕しており、重盛の嫡男・維盛の乳父でもあった。その後、何らかの理由で上総国に配流された忠清は、現地の有力在庁官人・上総広常の歓待を受ける。・・・
 忠清は閑院内裏の警備軍を指揮する立場にあり、・・・1177年・・・4月の延暦寺大衆の強訴では防備に当たった。この時に威嚇射撃の矢が神輿に命中し、大衆側に死傷者が出た。この結果、院と延暦寺の抗争は激化し、天台座主・明雲の配流と奪還、後白河法皇による延暦寺攻撃命令、鹿ケ谷の陰謀へと展開していくことになる。
 治承三年の政変(1179年)で忠清は、解官された藤原為保に代わり上総介となり、従五位下に叙せられた。その際に、「坂東八ヵ国の侍の別当」・・・として東国の武士団を統率する権限も与えられたらしい。・・・上総国の国衙を掌握した忠清は、現地上総広常に対して恩を忘れた強圧的な態度に転じ、陳弁のため上洛した広常の子・能常を拘禁する。忠清の圧迫に怒った広常は、やがて平氏に反旗を翻すことになる。
 治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵では、弟の景家や嫡子の忠綱とともに以仁王を追撃する。宇治川では馬筏(いかだ)を組んで渡河を決行、源頼政らを討ち取った。以仁王の生死は不明で南都に逃げ込んだという情報も流れたことから、平重衡・維盛は南都に攻め込もうとするが、忠清は「晩に臨みて南都に着くの条、思慮あるべし、若き人々は軍陣の子細を知らず」・・・と制止した。・・・
 富士川で反乱軍と対峙するが、数万の敵兵に対して官軍はわずか千騎という有様で、忠清は形勢不利と判断して維盛に撤退を進言する。忠清は「次第の理を立て、再三教訓」して、撤退を渋る維盛を説得したという・・・。・・・
 ・・・1183年・・・7月の平氏の都落ちには出家して同行せず、畿内にとどまって木曾義仲との和睦を図るなど独自の動きを見せる・・・。一ノ谷の戦いが終結した後の・・・1184年・・・7月、忠清は平田家継とともに平氏の本拠地の伊賀・伊勢で大規模な反乱(三日平氏の乱)を起こした。東国軍の主力はすでに源範頼に率いられて鎌倉に帰還していたため、京都の防備は手薄になっていた。このころ鎌倉から伊賀国に大内惟義、伊勢国に山内首藤経俊が代官として配置され、平氏や義仲の残党狩りが行われていた。反乱の背景には、鎌倉方の強権支配に対する反発があったと推測される。
 鎌倉方の佐々木秀義が戦死するなどの激戦が展開された後、反乱は鎮圧される。家継は戦死するが、忠清は逃亡し潜伏を続ける。翌年、源義経が屋島に出撃する時に、後白河法皇は忠清の脅威を懸念して制止しようとするなど、その存在は侮れないものだった。平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡した後の5月、忠清は志摩国麻生浦で加藤光員の郎党に捕らえられ、同16日に六条河原で処刑された・・・。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%B8%85
 なお、義朝の母の父であって、7年間出雲守を務め、白河院近臣でもあったところの、藤原忠清は、藤原北家
http://zisaku.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/1-aa8e.html
で別人。

 平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、甲斐国では甲斐源氏が、信濃国では源義仲が挙兵した。
 追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めたことで7万騎(『平家物語』)の大軍となるが、所詮は寄せ集めであり、折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しみ、士気は非常に低かった。・・・
 大庭氏、伊東氏、駿河豪族などの在地親平氏勢力の壊滅や坂東などの豪族たちが雪崩をうって頼朝らについたという状況は、在地勢力による反乱軍への初期対応を戦略の一貫に組み込んでいた平氏方の構想を挫くことになった。・・・
 『吾妻鏡』では、甲斐源氏に対して頼朝は北条時政、加藤景廉らを派遣して、その指示のもとに行動していたように記されているが、これは後世の幕府による創作であり、甲斐源氏は頼朝とは別に以仁王の令旨を受けて挙兵しており、この時期に頼朝の指揮下に入る理由がなく、そもそも維盛の追討軍の目的は頼朝ではなく、甲斐源氏であったという見方もある。・・・

⇒河内源氏である甲斐源氏にとって、清和源氏の嫡流的存在が義朝の嫡男の頼朝であることは自明であり、この時、北条時政らが派遣されたか否かにかかわらず、甲斐源氏は、意識の上では頼朝の指揮下に入っていたはずだ。
 (義仲の場合は、頼朝の庶兄の義平に父義賢を殺され、自分もすんでのところで殺されるところだった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2
ことから、義朝、ひいては頼朝に含むところがあり、事情がやや異なる。)
 <10月>17日・・・に武田信義は維盛に挑戦状を送りつけ、「かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という不敵な内容に侍大将の伊藤(藤原)忠清が激怒し、使者は斬らない兵法は私合戦に置いての事で、官軍には適用されないとして使者2人の首を斬った・・・。・・・
 ・・・18日<または>・・・20日、甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、『吾妻鏡』によると頼朝は駿河国賀島に進んだとある。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。・・・この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている。両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていたものと思われる。
 両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結する。・・・
 平氏撤退に関しては以下のような逸話が有名である。その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。・・・
 平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、忠清は撤退を進言した。総大将の維盛もこれに同意し、平家方は総崩れになって逃げ出した。遠江国まで退却するが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていた。・・・
 なお、従来は頼朝が富士川の戦いの当事者と見なされていたが、最近の見解では合戦に勝利した主体そのものが甲斐源氏であり、『吾妻鏡』の記述は治承・寿永の乱で頼朝が常に源氏の中心であったかに装う後世の創作で、実際には頼朝は後方にあって副次的な役割しか果たしていないという説が有力である。近年発行の出版物では甲斐源氏主体説をとるものが増えている。・・・
 甲斐源氏の武田信義が駿河、また安田義定は遠江へと本格的に進出し、駿河・遠江は甲斐源氏の勢力下に収まることになる。一方、頼朝はこのまま平家方を追撃して上洛しようと望むが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄がこれに反対して東国を固めるよう主張した。頼朝は東国武士たちの意志に逆らうことができず、まだ頼朝の傘下に入っていない同盟軍武田信義が駿河、安田義定が遠江と坂東と都を結ぶ東海道の途上を制圧しているので、彼らの意向を無視して上洛することもできなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒私見では、藤原忠清は、後白河上皇の、1号工作員源頼政、2号工作員三善康信に次いで早い時期からの工作員(3号工作員)であって、平家の家人なのに、1177年に延暦寺大衆を挑発することによって平家の立場を危殆に瀕せしめたことから始まり、1179年に東国に派遣された際にあえて上総広常等の有力武家の間に反平家意識を醸成し、1180年に治承・寿永の乱が始まってからは、さしあたりはまともな働きをして見せて清盛や維盛らに自分を信頼させた上で、自分が乳父であったところの、維盛、の後見役として関東追討軍の実質的な総司令官に収まり、同軍の編成を遅延させ、所要の兵員数も確保できないようにし、しかも、出発期日も遅らせることで、甲斐源氏や頼朝に十分な準備をする時間も与え、富士川の戦いにおいては、敵の使者を殺害するルール違反をあえて行って敵の士気を高めてやると共に、維盛を含む征討軍の不安や疑心暗鬼を掻き立てる言動を行い、その上で、維盛に撤退を事実上強い、征討軍を瓦解へと追い込んだ、としか思えない。
 そもそも、忠清が維盛の乳父になったのは、維盛が生まれたのが1159年の始めであることから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%B6%AD%E7%9B%9B
1159年の始めということになるが、その時、後白河は、前年の8月まで天皇だったところ、既に(私見によれば治天の君たる(コラム#省略))上皇になっていたところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
平治の乱の後に、「藤原信頼に与していた藤原成親は助命されているが、成親の妹・経子を妻にしていた重盛の嘆願が背景にあったと推測され<、かつ、>乱の終結後<の>合戦の恩賞の除目<で>、重盛<を>勲功賞として伊予守に任じ<、更には>年が明けてすぐに従四位下<にして>、左馬頭も兼任<させ>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B
といった具合に散々恩を売っておいた重盛に、長男の維盛が生まれた時に、名指しで忠清をその乳父にさせたのではなかろうか。
 (もちろん、後白河は、重盛の部下であった忠清に、かねてから目を付けてリクルートしてあった、と見るわけだ。)
 清盛の嫡男である重盛の嫡男は将来平家の総帥になる、と見ての布石だったのだろう、と。
 なお、そんな忠清が、最終的に非業の死を遂げるのは、後白河が、忠清の果たした役割を明かすことなく、というか、平家西走後といえども、まだ源氏側の最終勝利が確定していない時期において、そんなことをすれば、後白河も忠清も平家の憎悪の対象になり命を狙われることになったであろうから、明かすに明かせず、その結果として、忠清が源氏方によって殺害され、更にその結果として、後白河としては幸いにも忠清の口封じができた、と見ている。(注34)

 (注34)「1183年・・・7月の平氏の都落ちには出家して同行せず、畿内にとどまって木曾義仲との和睦を図るなど独自の動きを見せる・・・。
 一ノ谷の戦いが終結した後の・・・1184年・・・7月、忠清は平田家継とともに平氏の本拠地の伊賀・伊勢で大規模な反乱(三日平氏の乱)を起こした<が、>・・・反乱は鎮圧される。・・・忠清は逃亡し潜伏を続ける。翌年、源義経が屋島に出撃する時に、後白河法皇は忠清の脅威を懸念して制止しようとするなど、その存在は侮れないものだった。平氏一門が壇ノ浦の戦いで滅亡した後の5月、忠清は志摩国麻生浦で・・・捕らえられ、同16日に六条河原で処刑された・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%B8%85 

 さて、この1180年11月の富士川の戦いの直後の1181年1月14日、高倉院が崩御し、後白河上皇の治天の君復帰が避けられなくなったところへ、今度は、清盛が閏2月4日に死去した。
 すると、「宗盛は<、>「今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候」と表明して、後白河院に恭順する姿勢を示した。宗盛の発言を受けて、後白河院は公卿議定を開いて追討の中断を決定する。院近臣・静憲が宗盛に議定の決定を伝えると、宗盛は追討使として弟・平重衡を下向させることを理由に、追討のための院庁下文を発給することを要求した。静憲が「それでは話が違う」と抗議すると、宗盛は「頼盛・教盛等の卿を招き相議し、重ねて申さしむべし」と返答した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B
という出来事が起こっているが、平家の無残な最期はここに確定したと言えるところ、それは、この時の宗盛の変心によると言ってもいいわけで、この変心をもたらしたものが、工作員による工作だった可能性があると思うのだが、解明できなかった。(太田)

 (10)金砂城の戦い(1180年11月4日)

 かなさじょうのたたかい。「1180年・・・10月、富士川の戦いに勝利した源頼朝は敗走する平家を追撃すべしと命じるが、上総広常<(注35)>、千葉常胤<(注36)>、三浦義澄<(注37)>らが、まず佐竹氏<(注38)>を討つべきと主張した。

 (注35)「桓武平氏良文流、房総平氏、・・・上総権介平常澄の八男(嫡男)。・・・上総氏は上総介あるいは上総権介(かずさごんのすけ)として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長である。・・・
 広常は、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であ<ったところ、>・・・義朝が敗れた後は平家に従ったが、父・常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景や常茂の間で上総氏の家督を巡る内紛が起こり、この兄弟間の抗争は後の頼朝挙兵の頃まで続いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E5%BA%83%E5%B8%B8
 (注36)「桓武平氏良文流千葉氏の一族。父は下総権介・千葉常重。上総広常とは又従兄弟。平安時代末期における下総国の有力在庁官人であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B8%B8%E8%83%A4
 (注37)桓武平氏良文流、三浦氏」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%BE%A9%E6%BE%84
 上総広常の父の平常澄が烏帽子親。三浦義澄の妹が上総広常の弟の正室。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B8%B8%E6%BE%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%BE%A9%E6%98%8E
 (注38)「河内源氏・・・義光流<。>・・・常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族・・・
 平安時代の後期には、・・・常陸北部七郡を支配し、常陸に強い勢力を持つ常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係をもとに強い勢力基盤を築いていた。また、中央では伊勢平氏と、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部にも積極的に介入するなど常陸の有力な豪族としての地位を確立していた。
 治承・寿永の乱においては、佐竹氏は平家にくみしたために源頼朝によって所領を没収された。後に頼朝に従って奥州合戦に加わった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F

 その意見を取り入れた<、という形にした(太田)>頼朝は<、>平家追撃を諦め佐竹討伐に向かうことにする。・・・
 まず、上総広常が、縁者である佐竹家の嫡男・佐竹義政を矢立橋に誘い出し誅殺した。・・・
 <そして、>5日、・・・佐竹氏当主隆義は在京中で不在であった<が、>・・・金砂城に立て籠もった次男の佐竹秀義らに対して総攻撃が仕掛けられ、・・・頼朝は、広常の献策により、金砂城には入城していなかった秀義の叔父佐竹義季を味方につくよう勧誘<し、その>義季<が>頼朝軍に加わって金砂城を攻撃し<、>城のつくりに詳しい義季の案内で金砂城は攻め落とされた。・・・
 その後、城を守っていた秀義は奥州(または常陸奥郡)の花園城へと逃亡した。・・・
 地理的には現に鬼怒川水系と香取海を支配して更に北の奥州藤原氏と提携の可能性があり、関東に残る平氏方最大勢力であった佐竹氏を屈服させた事は、関東を基盤とした頼朝政権確立の上で重要な位置を占める戦いであった。
 しかし、頼朝は関東の諸豪族に対しては一旦帰服を促す使者を派遣した上で対応を決定しているのに対して、佐竹氏に対してはそうした動きが確認できないことから、この戦いは相馬御厨や香取海沿岸の帰属問題で佐竹義宗(隆義の弟)や片岡常春と対立関係にあった上総広常・千葉常胤などの房総平氏および同一族と婚姻関係にある三浦義澄が房総地域から佐竹氏勢力を排除するために頼朝に攻撃を要求したとする学説もある。・・・また佐竹氏の存在が奥州藤原氏と共に頼朝の上洛拒否の理由とされた。以上のようなことから、この金砂城の戦いのみで佐竹氏を屈服させたわけではなく、治承・寿永の乱の後期まで佐竹氏は常陸国において頼朝に対して敵対的な行動を取り続けたとみる学説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%A0%82%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒頼朝の心中には、(それが後白河の意向の伝達であると恐らく受け止めたところの、)三善康信による奥州亡命の勧め以来、義経を匿まってきた奥州藤原氏への猜疑心が蟠っており、その義経が奥州藤原氏が同行させた郎等を率いて、藤川の戦いで勝利した頼朝の黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)に到着すると、義経に自分の麾下の兵力をつけて共に京に向けて出発したら、機会を見て義経が自分に刃を向けると共に、背後を奥州藤原軍につかせ、自分が挟み撃ちにされかねない、と、一層猜疑心を高めたのではなかろうか。
 だから、頼朝は、急遽予定を変更し、自らは関東に留まることにした、と。
 そして、このことを隠すために、上総広常らに言い含めて件の注進を自分に対してさせた、と。
 それはまた、頼朝が将来行おうとしていたところの、対義経/奥州戦、にも資する、とも。(太田)

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[源義経と彼を巡る人々]

〇源義経(1159~1189年)

 「源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前は九条院<(注39)(後出)>の雑仕女であった。

 (注39)「近衛天皇中宮<だった>・・・藤原呈子」のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%91%88%E5%AD%90

 父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死。・・・
 後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った。
 やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、・・・1174年・・・3月3日桃の節句(上巳)に鏡の宿に泊まって自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高い。
 ・・・源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。・・・
 <さて、時代は飛んで、>・・・1184年・・・2月9日の一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平氏一門の首を都大路に引き渡し獄門にかけることを奏聞するため、少数の兵で都に駆け戻る。朝廷側は平氏が皇室の外戚であるため、獄門にかけることを反対するが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である」と強硬に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平氏の首は都大路を渡り獄門にかけられた。
 『吉記』・・・1185年・・・正月8日条によると、平氏の残党を恐れる貴族達は、四国へ平氏追討に向かう義経に都に残るよう要請するが、義経は「2,3月になると兵糧が尽きてしまう。範頼がもし引き返すことになれば、四国の武士達は平家に付き、ますます重大なことになります」と引き止める貴族達を振り切って出陣する。・・・
 壇ノ浦合戦後、義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室の守覚法親王の記録『左記』に「彼の源延尉は、ただの勇士にあらざるなり。張良・三略・陳平・六奇、その芸を携え、その道を得るものか(義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物)」とある。
 ・・・頼朝と対立した義経は・・・1185年・・・10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにもかかわらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。
 追いつめられた義経が平氏や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れるため、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。『玉葉』の記主である九条兼実は頼朝派の人間であったが、義経の平穏な京都退去に対し「院中已下諸家悉く以て安穏なり。義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。洛中の尊卑随喜せざるはなし(都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである)」と褒め称えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C

  ※
-良頼-良基-隆宗-宗兼-池禅尼(平清盛後妻)-平頼盛
    藤原季兼-季範—-由良御前
              |——源頼朝
            源義朝
              |—–全成/義円/義経
            常盤御前
              |—-一条能成
    藤原長忠-忠能室-一条長成
        -基隆室
  ※ |
-経輔-師家-家範-基隆–藤原忠隆-藤原基成–藤原秀衡室
    -藤原信頼             
          -近衛基実室
                  |
-道長-頼通-師実- 忠実-藤原忠通–近衛基実(=後白河)
-藤原頼長 |
           -平清盛——娘

 ※兄弟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%95%B7%E5%BF%A0 等
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E5%AE%9F 等

◦藤原呈子(1168年から九条院)(1131~1176年9月)

 (鳥羽の皇后にして近衛天皇の母である)美福門院の猶子で後に忠通の養女にして(崇徳天皇の後の後白河天皇の弟である)近衛天皇(~1155年)の中宮。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%91%88%E5%AD%90 前掲

◦常盤御前

 「近衛天皇の中宮・・・藤原呈子・・・の雑仕女<(ぞうしめ)>で、雑仕女の採用にあたり<、呈子の実父の>藤原伊通の命令によって都の美女千人を集められ、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で聡明で一番の美女であったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E5%BE%A1%E5%89%8D
 「のち源義朝の妾となり、今若、乙若、牛若の3児をもうける。平治の乱(1159)に敗れた義朝が殺されると、常盤は平氏の追及を逃れて3児を連れ大和国(奈良県)に隠れた。しかし、平氏に捕らえられた母を助けるため六波羅に自首し、許された。このとき平清盛の妾とな<り、>・・・廓御方(左大臣藤原兼雅女房)をもうけ・・・たとも伝えられる。のち一条大蔵卿藤原長成に嫁した。3児は仏門に入ったが、鞍馬山(京都市左京区鞍馬本町)にのぼった牛若がのち義経となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E5%BE%A1%E5%89%8D-104626
 「平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていない。・・・
 やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの・・・1186年・・・6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえた・・・。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる。常盤に関する記録はこれが最後である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E5%BE%A1%E5%89%8D 前掲

◦藤原忠能(「ただよし」か。?~?年)

 参議、左京大夫、修理大夫
http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu02.htm
 白河院・鳥羽院の院近臣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%95%B7%E6%88%90
       
◦一条長成(ながしげ。?~?年)

 父<は>藤原忠能<。>・・・
 1152年・・・には従四位下加賀守となっており、同年末には但馬守に遷任されている。・・・1157年)、大蔵卿に任ぜられ、正四位下に叙せられた<が、>・・・公卿にはなれずに終わっている。・・・
 長く子がなかったが、源義朝の側室であった常盤御前(阿野全成・義円・義経の母)との間に嫡男・能成と女子一人を儲けた。・・・
 邸宅が一条大路沿いにあったことから一条大蔵卿と号した。・・・
 藤原北家道隆流(水無瀬流)であり、後の摂関家一条家とは別系統。また同時期の権中納言・一条能保(中御門流、源頼朝の妹婿)や、一条忠頼(甲斐源氏)とも別である。
 義経が幼少時、陸奥国平泉の藤原秀衡に庇護されたのは、長成の支援によるものといわれる。秀衡の舅である藤原基成や平治の乱の首魁の藤原信頼は長成の母方の従兄弟にあたる藤原忠隆の子であり、親戚関係にあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E9%95%B7%E6%88%90

◦一条能成(よしなり。1163~1238年)

 「1167年・・・、5歳にして従五位下に叙爵する。その後は中級貴族として過ごすが、異父兄の義経が武人として頭角を顕すとこれに接近する。平家滅亡後、義経が異母兄の源頼朝と対立した後も、能成は義経と行動を共にし、・・・1185年・・・11月の都落ちの際には自らも武装しこれに随行したという・・・。翌月、義経派の廷臣の一人として頼朝により弾劾され、侍従職を解官されている。
 義経の死から19年後の・・・1208年・・・12月、修理権大夫として政界に復帰。・・・1218年・・・従三位に叙され、父・長成の果たせなかった公卿昇進をしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E8%83%BD%E6%88%90

⇒能成の復権は、当時の治天の君の後鳥羽上皇が、後白河が、実は義経を武家総棟梁にしたかったという話を知っていて、その義経に殉じようとした能成を高く評価していたからだろう。(太田)

◦藤原忠隆(1102~1150年)

 「院庁の年預を務めるなど、鳥羽院政期を代表する院近臣として活躍した。また鷹狩を好み、馬術にも優れるなど、武の道においても一目置かれる存在であり、平忠盛ら武人とも広く交流した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9A%86
 「年預(ねんよ)は、院司に置かれた役職の1つ。院庁を監督して院中の事務執行を担当する責任者で、四位・五位の受領が別当を務めて院年預(いんのねんよ)あるいは年預別当(ねんよべっとう)と呼称されるのが恒例であった。後には院の執事や執権がこれを兼務する場合もあった。著名な年預に白河院の藤原基隆、鳥羽院の藤原忠隆、後白河院の藤原俊盛、美福門院の平忠盛などがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%A0%90

◦藤原基成(もとなり。1120頃~?年)

 藤原基成<は、>・・・藤原北家中関白家<で、>・・・父<が>藤原忠隆<、そして、>・・・妹が関白・近衛基実の室で、その子である<、つまりは、基成の甥の>基通も関白になっている。
 ・・・1143年・・・4月に陸奥守に任官、6月に鎮守府将軍を兼任し平泉へ下向する。鎮守府将軍の在任期間は不明だが、陸奥守は重任して・・・1153年・・・閏12月まで在任している。・・・時期は不明だが、基成は基衡の嫡男・藤原秀衡に娘を嫁がせている。
 任が終わる直前に帰洛し、・・・1155年・・・12月に民部少輔に補任されたが、・・・1159年・・・の平治の乱で敗れた異母弟・信頼との縁座によって陸奥に流された。以降、秀衡の岳父として衣川館に住み、奥州藤原氏の政治顧問的な立場を確立した。歴代の陸奥守は基成の近親者が歴任し、国衙にも大きな影響力を及ぼしたと見られる。
 また、基成の父の従兄弟に一条長成がいる。長成の室は源義朝の妾であった常盤御前であり、義朝と常磐の間の子である源義経が兄・源頼朝に追われた際に奥州に逃亡したのも、長成から基成への働きかけによるものとの推測もある。
 秀衡の没後、基成の外孫でもある藤原泰衡が家督を継ぎ、それを補佐するが、・・・1189年・・・7月の頼朝による奥州追討(奥州合戦)を受け、敗北した泰衡は頼朝によって梟首され、奥州藤原氏は滅亡した。基成は平泉が陥落した後の9月18日、頼朝の御家人である東胤頼によって3人の息子と共に降伏し捕縛された。後に釈放され帰京しているが、以後の消息は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E6%88%90
 「藤原泰衡が義経を襲撃した背景には、祖父であり後白河法皇とも通じていた中央貴族藤原基成の強い勧めがあったからだとも言<う>。」
http://kazahana.holy.jp/fujiwara_yasuhira.html

⇒少なくとも1159年の平治の乱以降、基成は、近衛基実、ひいては、治天の君の後白河上皇のための工作員(4号工作員)であった、というのが私の見方だ。
 後白河/基実が基成に与えた任務は、武家総棟梁の筆頭スペアをその地で保護すべく、奥州を、平家、そして、来るべき武家総棟梁、の手が届かない聖域として維持し続けることであった、と、私は見ている。
 そして、実は、近衛基実とその嫡子の基通もまた、後白河上皇のための(自発的な)最高工作員的な存在であった、とも。
 近衛基実が、1164年4月に「平清盛の娘・盛子と結婚している。清盛は元々二条天皇の乳父であるとともに急速に台頭してきた平家一門を後ろ盾に得ようとしたと考えられている(実際にこれ以降、清盛の一族が摂関家の家司などの家政職員に登用されるようになる)。翌・・・1165年・・・には六条天皇の摂政となる。しかし翌・・・1166年・・・7月26日、僅か24歳で病により薨御。・・・基実の子供たちは幼く摂政は基房が就任するが、清盛と藤原邦綱の工作で摂関家の所領や日記の大半は一時的に盛子が継承して将来的には基実の嫡男である[ところの、藤原忠隆の娘の子の]基通(盛子の養子となっていた)が継承することとされた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%AE%9F 
のは、基実と基通が、後白河上皇の対平家最高工作員的な存在たる父子だったと考えれば、全て説明がつく。
 (「基通<が>・・・後白河法皇の男色の相手として寵愛著しかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%8C%E5%AD%90
とされているのは、基通が関白や摂政になる前にも、また失脚している間も、夜、頻繁に二人が密談を交わすために流した、あるいは頻繁に二人が密談を交わした結果生まれた、噂だろう。) 
 なお、基通が対平家最高工作員的な存在だった決め手となる証拠の一つは、「清盛は摂関家と血縁関係を結ぶべく、近衛基実に娘の盛子を正室として配したが、盛子はまだ幼く、基実が盛子との子をなす前に早世したため、基実の遺児である基通に、六女の完子<(さだこ)>を正室として配した。・・・<完子は、>1177年・・・に男子を出産するも夭折。・・・1178年・・・閏6月<に>・・・出産した・・・女児の動向も不明。・・・1183年・・・7月、平家一門が安徳天皇を擁して都を落ち延びる際、基通は同行を拒否して後白河法皇の元に逃れた<が、>完子は一門と共に西走した。・・・1185年・・・、壇ノ浦の戦いで平家一門が海中に沈む中、命を長らえた完子は建礼門院と共に都へ護送される。基通は安徳天皇に代わって擁立された後鳥羽天皇の摂政となって宮廷に返り咲くが、帰洛後の完子との関係は不明。その後の完子の記録はなく、出家したものと推測される。」(上掲)と、基通と完子が一貫して仮面夫婦でしかなかったと思われることだ。
 (私は、二人の間に生まれた男子を基通が殺した可能性すらあると思っている。)(太田)

〇同母長兄・阿野全成(あのぜんじょう。1153~1203年)

 「醍醐寺にて出家させられ<たが、>・・・以仁王の令旨が出されたことを知ると密かに寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下った・・・。石橋山の戦いで異母兄の頼朝が敗北した直後の8月26日、佐々木定綱兄弟らと行き会い、相模国高座郡渋谷荘に匿われる。10月1日、下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面を果たした。兄弟の中で最初の合流であり、頼朝は泣いてその志を喜んだ。頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ・・・、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚する。阿波局は・・・1192年・・・に頼朝の次男千幡(後の実朝)の乳母となった・・・。・・・
 駿河国阿野荘を領有し鎌倉幕府の有力御家人として将軍家につかえた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%85%A8%E6%88%90

⇒頼朝が阿野全成を対平家戦等に起用しなかったのは、全成が武士としての教育訓練を全く受けていなかったからだろう。(太田)

〇同母次兄・義円(1155~1181年)

 「初め園城寺にて出家して卿公(きょうのきみ)円成となり、後白河天皇皇子である円恵法親王の坊官を務めていた。「卿公」は母が再婚した養父の一条大蔵卿にちなむ命名と考えられるので、養父の縁故によって円恵に仕えたと見られる。
 異母兄の頼朝が打倒平家の兵を挙げるとその指揮下に合流し、父である義朝から一字とって義円と改名する。・・・1181年・・・、叔父源行家が尾張で挙兵すると、頼朝の命により援軍としてその陣に参加。墨俣川河畔にて平重衡らの軍と対峙する(墨俣川の戦い)。この時、義円は単騎敵陣に夜襲を仕掛けようと試みるが失敗。平家の家人・高橋盛綱と交戦の末に討ち取られた。享年27。なお、『吾妻鏡』には義円が頼朝の元に赴いた記述がないため、義円は直接尾張に入り独自に挙兵したのではないのかという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%86%86

⇒頼朝は、阿野全成を対平家戦等に起用しなかったのだから、義円も起用したとは考えにくいので、私は、義円が勝手に従軍した、という説乗りだ。(太田)
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[義経論(その1)]

 「佐藤進一は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平氏追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平氏を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平氏を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。
 上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河法皇が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする<『吾妻鏡』に拠った>通説を批判している 。
 頼朝が義経を平氏追討に派遣しなかったのは、無断任官に対する制裁などではなく、京都の治安維持に義経が必要であり公家側の強い要望があったからである。後白河院は義経の治安維持活動に期待して検非違使・左衛門尉に任じた。しかしその結果、義経は後白河院の側近に編成されたことになり、幕府への奉仕が不可能になったため、それが頼朝の怒りを招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経を鎌倉で拘束せず京都へ帰したのは、院御厩司に補され院の側近となった義経を利用して後白河院を挑発するためであった。頼朝は後白河院を頼朝追討の宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果、多くの政治的要求を突きつけることに成功したのである。・・・
 菱沼一憲<は、>・・・頼朝が義経を派遣した当初の目的は寿永2年10月宣旨を受けて東海道・東山道地域の治安回復にあたるとともに朝廷との関係を改善することが目的であり、義仲との軍事的対決を意図したものではなかった。それが、法住寺合戦によって頼朝は義仲との対決を決意して範頼率いる義仲討伐軍を別途派遣し、先行していた義経に合流を命じたとする。
 こうした経緯から、頼朝から朝廷との政治交渉の権限を認められていたのは義経のみであった。対義仲戦、続く対平氏戦における主たる将であったのは範頼であったが、後白河法皇への戦勝報告は義経が行い、その後も在京代官として義仲に代わって京都の治安維持に当たったのも義経であった(当時の朝廷の一番の関心は京都の治安問題であった)。・・・
 <なお、>無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らない・・・
 元木泰雄は・・・挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。
 義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一ノ谷の戦いも、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。
 合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。
 頼朝は戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。
 義経は頼朝追討の院宣を得たにもかかわらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与えることが出来ない義経には与しなかった。・・・
 退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C 前掲 

⇒近衛基実(1143~1166年)は、平治の乱当時、関白・藤原氏長者であり、後白河上皇の意を受け、藤原基成を、平家が手を出せない(娘婿がいるところの)奥州に「流した」のも、恐らくは「姉」の九条院にも話を通した上で、常盤御前とその三人の子供達を一条長成に「保護させた」のも、彼である、というのが私の見解だ。
 その上で、基実は、長成に、三人の成長を見守り、そのうち最も武家の棟梁たるに相応しい子を選び、基成の下に送り届けよ、と、命じた、と。
 それは、当時、既に、正四位下大蔵卿であった長成が、雑仕女上がりの常盤御前を、側室ならぬ、正妻、いや、少なくとも後世まで記録として残る唯一の配偶者として迎え、しかも、彼女との間で嫡男まで残したのは、常盤の義朝との間の子供達の保護だけではなく、その子供達の箔付けのためだったのではないか、とも。
 与えられたこのミッションに従い、長成は、一番下の義経に白羽の矢を立て、預かり手として準備万端整えていたところの、基成、の下に届けた、と、見るわけだ。
 義経が自分で出奔したというのはフィクションであり、義経という名前を考えたのも、基実と長成だろう。
 もちろん、その目的は、清和源氏中の河内源氏の嫡流たる頼朝のスペアたる者を確実に確保しておくことだ。
 それは、客観的に見れば、頼朝家の永続のためにも有難いことだったというのに、頼朝は、後白河が自分を使い捨てにして義経(家)を武家総棟梁に指名するつもりではないかという疑心暗鬼に捉われ続け、義経を「殺害させられる」まで支えたところの、(頼朝の目には後白河の策謀根拠地と映っていた)奥州藤原氏を壊滅してしまったばかりか、残された、清和源氏の自分にとっての競争相手となりうる有力武将達の大部分を殺害してしまい、その結果、自分の死後における、北条氏による頼朝家の男系子孫の絶滅による乗っ取りを許すこととなった、というわけだ。
 ここで、まずは、義経の上京までの経緯を押さえておきたい。
 源義仲排除を目指す後白河から、頼朝に上京の要請が届き、「頼朝は<1983年>閏10月5日に鎌倉を出立するが、平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、義経と中原親能を代官として都へ送った・・・義経と親能は11月に近江国に達したが、その軍勢は500 – 600騎に過ぎず入京は困難だった。そのような中で法住寺合戦が勃発し、義仲は後白河院を幽閉する。京都の情勢は後白河院の下、北面・大江公朝らによって、伊勢国に移動していた義経・親能に伝えられた。義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して兵力の増強を図った。義経の郎党である伊勢義盛も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。翌・・・1184年・・・、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C
というのだが、頼朝は、依然、上京するつもりなどさらさらなく、上京するフリをしただけで鎌倉に引き返し、義経が、何もできなくて恥をかくこと、あわよくば義仲によって討たれること、を期待して、(恐らく、飢饉下、糧食調達がままならないといった名目で)少人数だけで送り出したが、伊勢国等で義経一行に加わる武士等が多数現れたことに慌て、急遽、(どう後白河にどう取り繕ったのか知らないが、)範頼に大軍を付けて送り出し、義経に手柄を独り占めさせないようにした、というのが私のヨミだ。
 頼朝としては、対義経戦略を練り直し、義仲退治後、この義経を、後白河が、頼朝の代理人として重用するであろうことを予想し、しかるべき時にそのことにイチャモンをつけることで義経の足を引っ張り、義経に自分へ叛逆させた上で義経を誅殺する、という計画に変更した、とも。(太田)
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[源範頼](1150?~1193?年)

 「生母は・・・遠江国池田宿の遊女とされている。・・・
 父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、養父の藤原範季が東国の受領を歴任する・・・1161年・・・以降、範季の保護を受けたと考えられ<てい>る。・・・
 <そして、>範季・・・の一字を取り「範頼」と名乗る。・・・
 1180年・・・に挙兵した兄・頼朝の元にいつ参戦したかは明示した史料はないが、最初は頼朝ではなく、出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動して、遠江国を占拠した甲斐源氏安田義定と協力関係にあったと考えられる。
 ・・・1183年・・・2月、常陸国の志田義広が三万余騎を率い鎌倉に進軍。その進軍に下野国の小山氏が迎撃し野木宮合戦となる。範頼は援軍として関東での活動が初めて史料(吾妻鏡)で確認される。小山氏の活躍により勝敗は決しており、残敵掃討戦参加のように考えられるが、甲斐源氏と頼朝との協力関係の中で、義定から派遣されたと見るべきである。

⇒ここから、二つのことが推測できる。
 一つは、甲斐源氏に対しては、頼朝が北条時政等を派遣したことになっているのに、(遠い所にいた義経ならいざ知らす、)甲斐同様の近い位置に範頼がいたにもかかわらず、そうした話が全く伝わっていないことであり、頼朝が範頼を蔑ろにしていたか、範頼の方もそのことを感じ取っていた可能性が大だということ、二つには、やはり、甲斐源氏は頼朝の指揮に服すに至っていた可能性が高い、ということだ。(太田)

 ・・・1184年・・・1月、頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、大軍を率いて上洛し、先に西上していた義経の軍勢と合流し<た。>・・・

⇒にもかかわらず、頼朝は、そんな範頼に大軍を率いさせて上京させたわけだ。
 胡散臭いこと、限りなしだ。(太田)

 <後に、>義経<が>頼朝追討の挙兵に失敗し、同年11月に都を落ちた・・・際、<範頼の>養父・藤原範季の実子で範頼と親しかった範資は、範頼から兵を借りて義経追討に加わっている(河尻の戦い)<が、>範季は潜伏中の義経を匿った事で頼朝の要請により解官されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%AF%84%E9%A0%BC
 この藤原範季(のりすえ。1130~1205年)は、「藤原南家高倉流の祖。・・・官位は従二位・式部権少輔。・・・<承久の乱後佐渡に流されることとなる>順徳天皇の外祖父。・・・
 保元2年(1157年)には六位蔵人に補せられて後白河天皇に仕え、翌・・・1158年・・・従五位下に叙爵された。
 有能な行政官・政治家でありながら、平清盛に滅ぼされた源義朝の遺児である範頼を育て、九条兼実の家司でありながら兼実とそりの合わない後白河院の院司を兼ね、源義経が頼朝に追われた際には義経を支持し、奥州藤原氏の滅亡後に藤原泰衡の弟・高衡を匿う等、当時の権力者の意向に背く危険な選択を選び続けた・・・
1161年・・・正月26日:近江守。9月15日:常陸介・・・
1166年・・・3月17日:上野介・・・
1173年・・・7月7日:辞上野介・・・
1176年・・・正月30日:陸奥守・・・。3月30日:鎮守府将軍・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E5%AD%A3

⇒摂津源氏の多田行綱(コラム#省略)・・工作員(0号)とでも銘打つべきか・・同様、藤原南家の藤原範季も、後白河天皇/上皇の分身として行動した工作員(5号)であって、前者は非業の死を遂げ、後者は生を全うした、と見る。
 すなわち、義経は頼朝のスペアであったところ、後白河によって、範季は、その義経のそのまたスペアとして(義経より年長だが生母が、義朝の生母より更に「卑しい」)範頼を保護・養育させられ、次いで追討される立場となった義経を、自分の実子とは真逆に匿わせられ、更に、二度にわたって義経を保護してくれた藤原秀衡への感謝、と、義経を保護したために奥州藤原氏が頼朝に一族誅殺の憂き目にあったこと、への罪滅ぼしに、秀衡の、生き残った唯一の息子を匿わせられた、と。
 ところが、頼朝は、まず、義経を、そして範頼をも、殺害することで、後白河の配慮を、完璧なまでに無に帰してしまう。
 後白河は、治天の君として自分を継ぐこととなることが予定されていたところの、後鳥羽、に対し、さぞかし、頼朝に対する自分の絶望的な落胆の思いを吹き込んだことだろう。(太田)
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[源希義(まれよし)](1152~1180/1182年)

 「1159年・・・の平治の乱で父兄が死亡した後、駿河国香貫(現 静岡県沼津市香貫町)にて母方の伯父の藤原範忠によって朝廷に差し出され、兄頼朝が伊豆へ配流になった日と同日の・・・1160年・・・3月11日土佐国介良荘(現 高知県高知市介良)に流罪となる。以降「土佐冠者」と号し、そのまま流刑地にて成人した。」
 妻についても子についても確実な記録はない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%B8%8C%E7%BE%A9
 「夜須氏は土佐国夜須荘を本拠とし、平治の乱で敗れた源義朝の遺児・希義が土佐に配流されてくると、これを援助して源家再興を計る。<1180年または>1182年・・・、挙兵の準備を整えて希義を迎えようとするが、平家方の蓮池家綱・平田俊遠がこれを察知。希義は殺害され、行宗は間一髪で海上に逃れ・・・鎌倉の源頼朝(希義の同母兄)の下に馳せ参じる。
 同年、頼朝の命により、源有綱の軍を先導して土佐に再上陸、蓮池・平田ら平家方勢力を殲滅する。元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは敵方の岩国兼秀・兼季兄弟を生け捕りにするという功を立てる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E9%A0%88%E8%A1%8C%E5%AE%97

⇒頼朝の同母弟だというのに、後白河は、義朝の他の生き残った男子達に比して、まことに粗略な扱いをしたものだ。
 とはいえ、頼朝/鎌倉幕府の方も、希義の没年や係累をまともに記録する気などさらさらなかったことが見て取れる。(太田)
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[頼朝上洛問題]

 表記については、既に、各所で取り上げてきているが、ここで、若干の重複を顧みず、改めて整理しておく。

○一度目の上洛未遂

 「頼朝の上洛の意思が最初に明示されている史料はいうまでもなく、<1180年10月20日、>富士川合戦に勝利した頼朝が「上洛すべきの由を士卒などに命ぜらる」という史料である(『吾妻鏡』治承四年一〇月二一日条)。それはとどめられたものの、頼朝がこの意思を貫こうとしていたことは翌々年二月に伊勢神宮に対して提出した願文に「無為・無事に参洛を遂げ」と記していることに明かである(『吾妻鏡』養和二年二月八日条)。」(保立道久(前出)「頼朝の上洛計画と大姫問題」(『黎明館調査研究報告』20号)
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/reimei2.html

⇒そんなものは、後白河向けの見せ金に過ぎない、と、私は見ている。
 なお、本拠を京ではなく鎌倉に置いたことと、上洛問題とを関連付けて説明しようとした説が見当たらない(注40)のは不思議だ。(太田)

 (注40)鎌倉幕府のウィキペディア。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C

 まず、当時における、奥州の重要性を理解する必要がある。↓

 「涌谷町は日本で初めて金が採れた地で、それは天平二十一(七四九)年の出来事でした。採れた金は奈良で造営中であった東大寺大仏の表面に塗る金に用いられ、大仏は無事に完成しました。」
http://www.town.wakuya.miyagi.jp/sangyo/kanko/mesho/rensai/h3002sakintori.html
 「東北で砂金の採掘が始まる以前は、日本は朝鮮半島から金を輸入していた。東大寺の大仏に用いる金が不足した時に陸奥国で金が発見され、聖武天皇が東大寺に行幸して喜んだという記録が『続日本紀』にある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%B2
 「玉山金山は「陸奥の金」として日本で初めて金が発見されたと伝えられる金山のひとつで、天平の時代にはすでに砂金のかたちで金を産出していたとされる。その産金は奈良東大寺の大仏に使われたほか、奥州藤原氏の黄金文化を支え、中尊寺金色堂にその産金量の膨大さが見て取れる。藤原清衡が宋に10万5000両もの金を贈り、朝廷に年々四貫目の金を朝貢して殿上人を羨望せしめたといわれる。平重盛が唐の育王山に寄贈した3500両の金も当山産出とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B1%B1%E9%87%91%E5%B1%B1
 「阿育王寺は・・・浙江省寧波市に位置する禅寺です。具名は阿育王山広利禅寺といいます。4世紀に阿育王塔の出現にはじまり、唐代には律寺、北宋代には禅寺となり、南宋時代には五山十刹の禅宗五山の第5位に列せられました。舎利信仰の場として知られるのみならず、有数の大禅刹であり、多くの日本人が舎利や禅の修行に訪れました。」
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page004f.html
 「マルコ・ポーロが伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた平泉の中尊寺金色堂がモデルになっているという説がある。当時の奥州(現在の東北地方)は莫大な砂金を産出しており、奥州藤原氏によって国際貿易に使用されていた。マルコポーロが元王朝に仕えていた13世紀頃、奥州の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に<支那>と交易を行っていたとされ、そこからこの金色堂の話が伝わったものとされる。・・・
 大元朝後期に中書右丞相トクトらによって編纂された『宋史』「日本伝」では、・・・「東の奥洲」で黄金を産出し、対馬のことと思われる「西の別島は白銀を出だし」などと記している。・・・
 イスラーム世界(アラビア語・ペルシア語圏)に伝わった日本の旧称「倭國」に由来するといわれる「ワークワーク・・・」ないし「ワクワーク・・・」は金山を有する土地として知られている・・・
 中世の日本はむしろ金の輸入国であり、黄金島伝説と矛盾する<との説もあるが・・。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%B0
 「陸奥国<は、>・・・武士にとっては必要不可欠な馬や武器を調達する・・・国<でもあった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E9%A0%BC
 「平安時代の初期から次第に陸奥の産馬は多くなり,その後期になると従来本邦の馬産地として知られていた信濃・甲斐・上野および武蔵の諸国にとってかわらんばかりの様子であった。・・・
 平泉の藤原氏は砂金と馬の産地を支配し,それを経済的基盤としてその富強をほこった。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/11/5/11_5_389/_pdf
 「1189<年の>・・・奥州合戦・・・で源頼朝は全国的な動員(南九州の薩摩・かつて平氏の基盤であった伊勢や安芸など)、かつて平氏・源義仲・源義経に従っていた者たちの動員をも行っている。・・・さらに不参の御家人に対しては所領没収の厳しい処罰を行ったこと、頼朝が挙兵以来となる自らの出馬を行ったことと併せて考えると、頼朝が自身に従う「御家人」の確立という政治的意図を持っており、奥州合戦はそのための契機となったともいえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E5%90%88%E6%88%A6
 「陸奥留守職<は、>鎌倉幕府の奥州統治機構。・・・奥州征伐の翌年,[大河兼任の乱平定後<、>]源頼朝がこの職に伊沢家景を任じ国内庶民の訴訟取次ぎをじたのが始り。以後,伊沢氏はこの職を世襲し,留守氏を称した。」
https://kotobank.jp/word/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E7%95%99%E5%AE%88%E8%81%B7-140642
 「95年・・・頼朝は再び葛西・伊沢両氏に対して,故藤原秀衡の後家<・・藤原基成の娘(前出。太田)・・>の庇護を命じたが,・・・これを〈両人は奥州惣奉行たるに依て也〉と評した」
https://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E7%B7%8F%E5%A5%89%E8%A1%8C-38706#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ([]内も)
 「奥州は砂金の産地でしたが、もともと秀衡の代には産出量が減っていたこともあり、全盛期のような富は徐々になくなっていきます。」
https://study-z.net/6075
 「南部氏は源義光(みなもとのよしみつ)を祖とする甲斐源氏の流れをくみ、代々牧監(ぼっかん)を務める家柄だった。いわば公営牧場の管理責任者。その牧野は、かつて聖徳太子に馬を献上したという伝説も残るほど名馬の産地として知られていた。後に南部藩の初代藩主となる南部光行(みつゆき)も、馬については人並み以上の見識と眼力があった。頼朝の奥州攻めに従軍し、そこで広大な山野を駆け巡る馬たちの姿を見た光行は、「この地で牧場経営に着手したい」と自ら上申して糠部(ぬかのぶ)5郡を賜わったという。
 ・・・1191<年>10月、光行は73名の家臣を伴って甲斐の南部郷を出発した。由比ヶ浜から海路を北上し、同年12月に八戸の浦へと上陸。翌年は相内(あいない)(青森県南部町)に居城を構え、・・・1221<年>に息子の行朝・朝清・宗朝・行連の4兄弟が、それぞれ一戸・七戸・四戸・九戸を分割統治した。最も力を注いだ産業は言うまでもなく馬産で、この地から出た馬はいつしか南部馬もしくは南部駒と呼ばれるようになった。」
https://www.facebook.com/yabusamejoshi.tour/posts/1073867796070494/
 「頼朝の奥羽平定 に際し功を立てた武人が奥羽各地を分け与えられたが,その中には<、このように、>牧監の経歴をもつ御家人もあ<り、既述のように、>甲斐国巨摩郡南部の地頭の南部氏は,南部牧波木井牧の牧監で,陸奥糠部の地を与えられた<わけだが、このほか、>七戸および八戸の地頭の工藤氏は伊豆の牧監であ<り、>岩代の相馬氏はもと下総国相馬に住した。南部・相馬両家共馬産地の出身である。相馬氏が祖先からの風習を移し,野馬を中越原に放したのは,後年の妙見神馬の牧の発端となった。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/11/5/11_5_389/_pdf 前掲

⇒結局、「富士川の戦いに勝利<した後、頼朝は、>・・・千葉常胤や上総広常らの言を容れ常陸国の佐竹氏討伐に向かう。この最中、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている。
 帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を処刑する。次いで佐竹秀義を討つべく常陸国へと進軍する。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
というわけで、頼朝は上洛しなかったわけだが、これは頼朝の予定の行動であり、千葉常胤達の言上などなかった可能性があるし、仮にあったとしても、それはダシに使われただけあって、河内源氏義光流とはいえ、佐竹氏の脅威など大したものではないけれど、佐竹は、奥州の、(経済力と軍事力の源泉たる、金と馬を握る)藤原秀衡(1122?~1187年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%A1%A1
/藤原基成/源義経、一派、と組んでいたわけであり、義経が、頼朝に次ぐ武家総棟梁候補として後白河上皇に指名される有力候補であることは明白であった以上、上皇と義経の真意をいわば威力偵察するのが佐竹攻めの真の狙いであった、と、私は見ている。
 そして、そんな風に頼朝が考えるかもしれないことを、後白河/基成、はある程度先読みしていて、頼朝の疑心暗鬼を軽減させるために、義経を、秀衡に頼んで数十騎の郎党をつけさせて、先制的に頼朝のところに「派遣」した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C
のではないか、とも。
 もとより、頼朝からすれば、それは、秀衡によるところの、直接頼朝の支援も佐竹氏の支援もしないという、いわば中立宣言に過ぎない上、義経の郎従付きの「派遣」だって、頼朝への合力目的なのか、頼朝陣営へのトロイの木馬の送り込みなのか、分からないわけだが・・。
 いずれにせよ、佐竹攻めに向かう途中で、義経がやってきて、自分への臣従を誓ったので、若干なりとも行動空間に余裕ができた頼朝は、佐竹討伐後、引き続き奥州攻め準備(威力偵察)に着手する予定であったのを変更することにしたけれど、後白河/基成/秀衡、を抑止するため、引き続き鎌倉に残ることにしていた、と。(太田)

○二度目の上洛未遂

 「後白河院が義仲の頭越しに<1183>年十月<に>宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。頼朝は閏10月5日に鎌倉を出立するが、平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、義経と中原親能を代官として都へ送った。・・・
 義経と親能は11月に近江国に達したが、その軍勢は500~600騎に過ぎず入京は困難だった。・・・

⇒この間の経緯についての私のヨミは既に記した。(太田)

 そのような中で法住寺合戦が勃発し、義仲は後白河院を幽閉する。京都の情勢は後白河院の下、北面・大江公朝<(注41)>らによって、伊勢国に移動していた義経・親能に伝えられた。

 (注41)?~1200年。「大江氏であるが、詳しい系譜は不明。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%85%AC%E6%9C%9D

 義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して兵力の増強を図った。義経の郎党である伊勢義盛も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。翌・・・1184年・・・、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C

⇒頼朝が範頼に大軍を率いさせて更に派遣した経緯についての私のヨミも既に記したところだ。(太田)

○三度目の上洛未遂

 「頼朝の上洛の野望が王権中枢における本格的な政治問題となったことを示す史料は<1184年1月20日に源義仲が討たれ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2
更に、範頼と義経が2月7日の一ノ谷の戦いで勝利を収め、平重衡を捕えて京に戻った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
直後の>『九条兼実日記』寿永三<(1184)>年二月一六日条であろう。それによれば、兼実のところにやってきた源雅頼<(注42)>は、その家人の中原親能が「院御使」として頼朝の上洛を促すために東国に下向した<(注43)>と語り、さらに「頼朝四月に上洛すべし」という観測をも伝えている。・・・

 (注42)1127~1190年。「公卿・歌人。村上源氏顕房流、・・・官位は正二位・権中納言。・・・
 源頼朝の近習である中原親能が雅頼の家人で、その妻が次男・兼忠の乳母であったため、治承4年(1180年)に頼朝が蜂起した後は頼朝の意思の伝達者として、京と鎌倉、特に九条兼実との間の仲介をした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E9%A0%BC
 (注43)「朝廷では頼朝が義仲を討ったことで・・・平将門の乱における藤原秀郷の先例に倣って正四位下に越階させるとともに、同じく藤原忠文の先例に倣って「征夷将軍」に任じるべきだとの意見が上ったが、将軍に任命するには節刀を授けるなどの儀式や将軍の下に付ける軍監・軍曹を任命する除目が必要であるとの意見も出された。そこで、頼朝本人の意見も聞くために(<義仲が討たれた>粟津の戦い翌日である)<1284>年1月21日に鎌倉に向かって使者が送られたが、頼朝は過分な望みは無く全ては朝廷の意向に従いたいとする申状を提出することにした。その使者が2月20日に京都に帰還すると改めて議論が行われ、意見がまとまらなかった征夷将軍を含めた官職への任命は頼朝の申状に沿う形で再び先送りにしてまずは叙位を先行させるとして、3月27日の除目で正四位下への叙位のみが行われた」(上掲)

 この時期の『九条兼実日記』を見ると、雅頼の周辺が頼朝と兼実を結ぶ最大のルートとなっていたことがわかる。雅頼は村上源氏の一流に属し、以仁王、そして義経・頼朝の挙兵において重要な位置をもっていたとされる八条院<(暲子内親王。コラム#省略)>に近い存在であった。雅頼の子供兼忠は八条院よりの御給をうけた人物であることも注意される。この関係で雅頼は八条院領相模国前取社を支配していたと思われるが(参照、石井進「源平争乱期の八条院周辺」『石井進著作集』七巻)、中原親能が雅頼の家人となっているのは、親能が相模国で生育したという経歴をもっていることとも関係している。親能は雅頼の息子の兼忠の乳母夫でもあり、雅頼ときわめて深い関係を結んでいた。いうまでもなく、中原親能は土肥実平とともに義経の義仲追討軍について上洛し、「頼朝代官として九郎につき上洛せしむるところなり、よって万事奉行をなす」といわれた人物であるが、土肥実平には、親能のような京都の貴族社会との密接な関係は知られていないから、少なくとも、この段階での雅頼ー親能の関係は頼朝にとってきわめて重要なものであったことは疑いない。・・・
 頼朝と政子の間に頼家が誕生したのは1182年・・・八月で、頼家はまだまだ幼く、・・・義経を乳母の・・・比企尼・・・孫娘の聟、さらに自己の猶子として<自分の後の>東国の盟主に据えるという構想<が頼朝にはあったのではなかろうか。>」
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/reimei2.html 前掲

⇒この史実を発掘した保立(前出)には敬意を表したいが、私は、その解釈には必ずしも同意できない。
 そのような構想を後白河に認知させたいと頼朝が本当に思っていたのなら、上洛したはずだし、そもそも、上洛を促したのは後白河なので話の辻褄が合わない。
 「注43」から分かるように、後白河は、1月21日に使者を鎌倉に下向させたばかりだというのに、その返事を聞かないうちに、頼朝に上洛を促す使者を、2月16日までに更に下向させていることになるわけであり、その用向きが将軍の名称問題ではなかったことは明らかだ。
 当時、義経は在京しており、頼朝に対して、頼朝の次の武家総棟梁を義経にし、その後で頼家に武家総棟梁を継がせたらどうか、という話を後白河が頼朝に対して直接したかった、と見たらどうか。
 そして、頼朝は、その情報を得たか自ら察知して、この上洛要請に応じなかった、と。
 その時、いかなるタテマエを持ち出して上洛を断ったのかは、そもそも、この上洛要請自体を、『吾妻鏡』は記録から落としているようなので全く分からないわけだが、私は、頼朝のホンネは、彼が最初から義経に強い警戒心を抱いていて、そんな義経について、中継ぎとはいえ、後継指名を促される可能性がある上洛、ないしは、秀衡が背後を衝く形で援軍の派遣が妨げられつつ京と鎌倉の間で、或いは京で、(義経自身はそんなことは全く考えていなかったと思うが、)義経軍に襲撃される恐れがある上洛、は、何が何でも避けたいと思っていたからだ、と、私は想像を逞しくしている。(太田)

○四度目の正直

 「1190年・・・10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発つ。平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入った。
 9日、後白河法皇に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。頼朝は権大納言・右近衛大将に任じられたが、12月3日に両官を辞した。任命された官職を直ちに辞任した背景としては、両官ともに京都の朝廷における公事の運営上重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻ることが困難になると判断したとみられている。11月9日の夜、頼朝は九条兼実と面会して政治的提携を確認した。頼朝の在京はおよそ40日間だったが後白河院との対面は8回を数え、朝幕関係に新たな局面を切り開いた。義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位は、より一般的な治安警察権を行使する恒久的なものに切り替わり、翌年3月22日の建久新制で頼朝の諸国守護権が公式に認められた。12月14日、頼朝は京都を去り29日に鎌倉に戻った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D

⇒1189年閏4月30日に義経が死に、7月から9月にかけて奥州の藤原氏を滅ぼし、12月から翌1190年3月にかけての、藤原泰衡の家臣であった大河兼任の乱を鎮圧した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E5%90%88%E6%88%A6
ことによって、当面の、武家総棟梁スペアを抹殺すると共に、将来改めて指名がなされる可能性がある武家総棟梁スペアの聖域たりうる地域の非聖域化を果たしたことで、頼朝は、後白河上皇や後白河を継ぐ今後の治天の君達の武家総棟梁スペアの指名権を事実上奪うことに成功したことになる。
 頼朝の初上京は、この事実を、念には念を入れて、後白河に通告し、確認させることが目的であったと見る。
 しかし、頼朝は、この結果、頼朝家の男系子孫が根絶やしになった時に、一体誰が誰をどうやって新たな武家総棟梁に選ぶのか、という深刻にして誰も解決し得ない難題を後世に残すことになってしまったことに気付いていなかったわけだ。(太田)
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 (11)近江攻防(1180年12月6日)

 「10月の富士川の戦いで平家が敗れると、同年11月17日尾張・美濃の源氏が蜂起し<、>その後11月20日には<近江源氏の>山本義経<(注44)>・柏木義兼兄弟が挙兵。蜂起した近江源氏は北陸と平安京を結ぶ物流拠点である琵琶湖を占拠し、北陸から都へ上る年貢を差し押さえた。

 (注44)?~?年。「源義光の系譜を引く近江源氏。父は義光の長男で佐竹氏の祖となった源義業の次男山本義定。・・・
 1183年・・・、山本義経は・・・源義仲の軍勢に加わり入京、平氏から身を隠して比叡山に逃れた後白河法皇が都へ戻る際、義経の子・錦部冠者義高が警護している。都では治安維持を担った義仲により京の警備を担当する武将の一人に配置され、伊賀守次いで若狭守に任じられた・・・。
 ・・・1184年・・・1月20日、義仲は源範頼・義経軍に攻められ(宇治川の戦い)没落した。この合戦で義仲軍として参戦した子の錦織義高は逐電し行方不明となり、義広(義弘)は戦死した・・・。これ以後、山本義経は史料に登場せず、消息は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E7%B5%8C

 園城寺の僧兵達も近江源氏と手を結び、その連合軍は一時平安京を占拠する勢いを見せた。また東国の甲斐源氏とも連絡をとっていたよう<だ。>・・・
 福原に都を遷していた朝廷は、11月21日平安京への還都を決定。26日には平清盛が平安京に戻る。続いて高倉上皇から近江寺社勢力に対して謀反人追討の院宣が発せられる。12月1日平家家人平田家継が近江源氏に攻撃を開始し、2日には平知盛が追討に向かった。6日に行なわれた戦闘では知盛らによって近江源氏が打ち破られた。この戦に敗れた兵の多くは美濃へ逃れて抵抗を続けることになる。平家は園城寺内の反乱軍に同意した僧兵たちにも攻撃を加え、その結果園城寺の一部が炎上する。
 12月13日には近江において最後まで抵抗を続け馬渕城にたてこもって山本義経が追い落とされるが、12月24日頃山本城にこもって抵抗を続けていることが確認されている・・・。その後山本義経は1183年の源義仲軍の上洛に同行することになる。
 12月には近江の攻防が終息に向かうが、南都勢力の活動が活発化し尾張美濃の源氏は翌年まで反乱活動を続けることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E6%94%BB%E9%98%B2

⇒これは、諸戦い中、平家の3度目の勝利だ。
 平家の数少ない、まともな勝利だったと言えそうだ。(太田)

 (12)南都焼討(1180年12月28日)

 「平治の乱の後、大和国が自身の知行国になった際、清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視し、大和全域において検断を行った。これに対して南都寺院側は強く反発した。特に聖武天皇の発願によって建立され、以後鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また大衆と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗していた。だが、治承3年(1179年)11月に発生した治承三年の政変で、皇室と摂関家の象徴ともいえる治天の君後白河法皇と関白松殿基房が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間にも危機感が広がり、・・・1180年・・・5月26日の以仁王の挙兵を契機に園城寺や諸国の源氏とも連携して反平氏活動に動き始めた。
 以仁王の挙兵が鎮圧された後の6月、平氏は乱に関わった園城寺に対して朝廷法会への参加の禁止、僧綱の罷免、寺領没収などの処分を行ったが、興福寺はこの時の別当玄縁が平氏に近い立場をとっており、寺内部に平氏との和睦路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされなかった。平氏と興福寺の緊張関係は、平氏の福原行幸後に一定程度緩和されていたが、この年の末に近江攻防で園城寺・興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は12月11日に平重衡が園城寺を攻撃して焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになる。・・・
 平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の・・・の寺社勢力に属する大衆の討伐を目的として・・・<これら>寺院を焼討にした・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E7%84%BC%E8%A8%8E

⇒この時の関白は近衛基通であり、彼は、「興福寺の僧兵が平家に反乱を起こそうとしたときは、それを食い止めようと尽力している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
とされているが、私は、むしろ、後白河上皇と関白基道は、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の共同担い手として、それぞれ、東大寺、興福寺の大衆の跳ね上がりを「食い止めようと尽力」したどころか、「黙認」した、と見ている。(太田)

 (13)墨俣川の戦い(1181年3月10日)

 すのまたがわのたたかい。「源行家が進出したとの報を得て尾張への進撃を前提に兵糧や軍船水夫を徴収の支度を進め平宗盛を将とする出陣が予定されていたが、<1181年>閏2月、平清盛が死去し出撃は一時中断される。しかし・・・1181年・・・閏2月15日平氏は、平重衡を将とする軍を尾張へ派遣した。それに対して、源行家は軍勢が墨俣川東岸に陣を敷き待ちかまえた。行家は頼朝の麾下には入らず独立勢力して三河・尾張国で勢力圏を築いていた。 3月10日両軍は、墨俣川を挟んで対峙した。行家軍は夜間の奇襲を企てて渡河した。しかし、平氏軍が濡れている兵士が敵であることに気付いたため、行家の奇襲はすぐに見破られ、行家軍は大敗した。この時、行家の軍に加わっていた源義円(頼朝の異母弟、源義経の同母兄)、源重光(泉重光、山田重満とも。尾張源氏)、源頼元、頼康(ともに大和源氏)といった源氏一門の諸将が戦死、行家の次男行頼が敵軍の捕虜となっている。
 行家勢はその後、熱田に篭ったがそこも打ち破られて三河の矢作川まで撤退し、行家はそのまま敗走した。また平氏はそれ以上進撃せずに撤退した。・・・
 尾張を制圧した平氏がそれ以上東へ進めなかった要因は 頼朝の援軍への警戒、後白河法皇と宗盛の反乱軍への追討方針の齟齬 そして何よりも飢饉による兵糧の不足が挙げられている。
 その後平氏は飢饉に悩まされつつも反乱鎮圧の主眼を畿内、西国へ向けるようになり、東国に対しては奥州藤原氏や越後の城氏と提携して東国包囲網を築く方策を検討するようになる・・・。敗北した行家は頼朝に接近を図るが後に源義仲の元へと走ることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E4%BF%A3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒後白河が、藤原基成を奥州藤原氏の下に遣わせてあり、頼朝が背後を衝かれることを恐れている、と指摘しつつ、平家の東上を押しとどめた、と、私は想像している。
 (頼朝は、後にこの後白河の論理を逆用することになるわけだ。)
 とまれ、これは、諸戦い中、平家の4度目の勝利だ。
 勝因は、武士としてのまともな教育訓練を受けていないところの、行家、の弱さだろう。(太田)(太田)

 (14)横田河原の戦い(1181年6月)

 「城助職<(読み?)(注45)>は大軍を率いて信濃国に侵攻し、雨宮の渡しの対岸に位置していた川中島平南部の横田城に布陣する。

 (注45)助茂(助職、資職)→長茂(ながもち)(永茂、永用)。1152~1201年。越後平氏。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%95%B7%E8%8C%82

 それに対して義仲は上州に隣接する佐久郡の依田城を拠点に、木曽衆・佐久衆(平賀氏等)・上州衆・・・を集結して北上、6月13日横田河原において両者が激突する。その際、千曲川対岸から平家の赤旗を用いて城軍に渡河接近し、城本軍に近づくと赤旗を捨てて源氏の白旗を掲げるという井上光盛の奇策が功を奏した。また越後軍には長旅の疲れや油断もあって9000騎余が討たれたり逃げ去り、兵力では城軍に遥かに劣る信濃勢が勝利を収める。・・・
 助職は負傷して300騎ばかりで越後に逃げ帰るが敗戦後は離反者が相次ぎ、奥州会津へと撤退することを余儀なくされる。その後、助職は会津にて奥州藤原氏の攻撃を受けそこも撤退させられ、一連の戦いの後、城氏は一時没落を余儀なくされる。・・・

⇒なんと、奥州藤原氏は、(恐らくは後白河の内意を受けて、)事実上、源氏側に加担したわけだ。(太田)

 一方勝利を収めた義仲は越後国府に入り、越後の実権を握る。この信濃勢の勝利の後、若狭、越前などの北陸諸国で反平氏勢力の活動が活発にな<った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「<その後、城助職は、>8月15日、惣領家の平宗盛による義仲への牽制として越後守に任じられる。・・・しかし越後守となるも長茂は国衙を握る事は出来なかった。・・・1183年・・・7月の平家都落ちと同時に越後守も罷免された。
 ・・・1185年・・・に平<家>が滅亡して源頼朝が覇権を握ると、長茂は囚人として扱われ、梶原景時に身柄を預けられる。・・・1189年・・・の奥州合戦では、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた。
 頼朝の死後、梶原景時の変で庇護者であった景時が滅ぼされると、1年後に長茂は軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げる。・・・1201年・・・、軍を率いて景時糾弾の首謀者の1人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて討たれた(建仁の乱)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%95%B7%E8%8C%82 前掲
 「越後平氏(えちごへいし)は、桓武平氏繁盛流惣領家の常陸平氏(大掾氏)のうち越後国で分岐した奥山氏と城氏を中心に発展した氏族。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%B9%B3%E6%B0%8F

 (15)野木宮合戦(1183年2月23日)

 「下野国の野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で源頼朝らと・・・源為義の三男であり、源頼朝の叔父にあたる・・・志田義広らが争った合戦。・・・敗れた志田義広は源義仲の下に加わるが、最期は伊勢国で討たれた。・・・
 野木宮合戦には源頼朝の弟で後の平家討伐で重要な役割を果たす源範頼が初めて登場するが、この戦いでは門葉かつ頼朝の弟でありながら、一介の将としての参加でかつ兄の頼朝から出陣の命を受けた形跡すらない。また、京都もしくは遠江で育ったとみられる範頼がいつ頼朝の麾下に参じたかに関する記録も存在しない。
 これについて、近年になって菱沼一憲は・・・範頼の養父である藤原範季は下野国の受領を務めており範頼が根拠地とする基盤が存在したこと<等を挙げて、>・・・この当時小山氏・下河辺氏・八田氏らが擁していたのは頼朝ではなく範頼で、野木宮合戦は源範頼と志田義広による北関東における勢力拡大を巡る私戦に過ぎず、鎌倉の頼朝はこの戦いとは無関係であったとする説を提示した(なお、菱沼は野木宮合戦は・・・1181年・・・説を取る)。・・・
 その後、・・・1182年・・・までに範頼・小山氏らはいずれも頼朝勢力と合流しているが、後に範頼は誅殺され<ることになる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9C%A8%E5%AE%AE%E5%90%88%E6%88%A6

⇒私は、この菱沼説を採りたい。(太田)

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[養和の飢饉]

 「養和元年(1181年)に発生した大飢饉である。・・・
 前年の1180年が極端に降水量が少ない年であり、旱魃により農産物の収穫量が激減、[秋は大風と洪水で五穀がことごとく実らず、]翌年<から>[二年間、]京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。大量の餓死者の発生はもちろんのこと、土地を放棄する農民が多数発生した。地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した。・・・
 『方丈記』では京都市中の死者を4万2300人と記し<ている。>・・・
 こうした市中の混乱が、木曾義仲の活動(1180年挙兵、1183年上洛)を容易にする遠因となっていたことも考えられており、・・・1183年・・・5月の砺波山の戦い(倶利伽羅峠の戦い)まで平氏・頼朝・義仲の三者鼎立の状況がつづいた背景としてもこの飢饉の発生が考えられる。
 こうした状況のなかで入洛した義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたため、たちまち市民の支持を失ってしまった。一方、源頼朝は、年貢納入を条件にすることで、朝廷に東国支配権を認めさせた(寿永二年十月宣旨)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E5%92%8C%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89
https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo/yoritomo-youwakikin.html ([]内)

⇒当然のことながら、東国からも、米等の年貢が本来は京に運ばれていたのだから、頼朝は、糧食搬送隊を同行させて自ら平家追討軍を率いて義仲より先に上京すれば、兵粮不足の平家を打倒することなどいと容易いはずだったのに、それをあえてやらず、義経を塩漬けにしておくと共に、平家のみならず朝廷をも干上がらせ、かつ、義仲が京に乗り込むのも座視しつつ、その義仲ともども朝廷を一層の苦境に陥らせること、でもって、年貢の徴集・搬送を取引条件にして後白河から寿永二年十月宣旨を引き出す、という、一石二鳥の悪だくみをし、まず、この宣旨を獲得し、その上で、次に義経つぶしに乗り出したわけだ。(太田)
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 (16)火打城の戦い(1183年4月27日)

 「1182年・・・は養和の大飢饉の影響が深刻化したなどの要因もあり<、平氏は、>鎮西以外への出兵は<行わ>なかった。・・・1183年・・・に入ると飢饉はようやく好転し、平氏は東国反乱勢力活動を再開する。その矛先の第一は兵糧の供給地たる北陸道の回復であった。
 1183年・・・4月17日平氏は平維盛を大将として北陸に出陣。4月26日には平家軍は越前国に入った。27日越前・加賀の在地反乱勢力が籠もる火打城・・福井県南越前町今庄・・を取り囲むが火打城は川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれており、そのため平氏側は城に攻め込むことができなかった。数日間平氏は城を包囲していたが、城に籠もっていた平泉寺長吏斉明が平氏に内通し人造湖の破壊の仕方を教えた。平氏は得た情報を元に湖を決壊させて城に攻め入り、火打城を落とした。その後平氏は加賀国に入った。
 なお、この寿永の北陸の追討の宣旨は「源頼朝、同信義、東国北陸を虜掠し、前内大臣に仰せ追討せしむべし」という内容であったということが『玉葉』に記されており、源義仲が当初から追討の目的であったという認識は当時の都の人々にはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%89%93%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒相手は「在地反乱勢力」だったが、とにもかくにも、諸戦い中、平家の5度目の勝利だ。(太田)

 (17)般若野の戦い(1183年5月9日)

 「平維盛は越中、越後国境にある寒原の険(現在の親不知付近)を占領し木曾義仲軍が越中へ進軍してくるのを寒原の険で迎え撃つという作戦を立て、越中の地理に詳しい越中前司平盛俊に兵5,000を与えて先遣隊とし越中へ進軍させた。
 その頃、越後の国府にいた木曾義仲は平氏軍が越前・加賀が手中に収め越中へ進軍するとの知らせを受け、平氏軍が越中を確保する前に平氏軍を撃破するため自ら軍を率いて越中へ兵を進めることにした。
 まず今井兼平が木曾義仲軍の先遣隊として兵6,000にて越後国府を出発。平氏軍より先んじて越中に入り御服山(ごふくやま;現在の呉羽山)に布陣して平氏軍を迎え撃つ体勢を整えた。
 平氏軍の先遣隊平盛俊軍は、5月8日に加賀より倶利伽羅峠を越えて越中へ入った。平盛俊が般若野にまで軍を進めたとき源氏軍先遣隊(今井兼平軍)が呉羽山を占領したことを知り、その日はあえてそれ以上の進軍を行わず般若野に留まることにした。
 5月8日夕刻、平盛俊軍が般若野から前進しないことを察知した今井兼平軍は敵の意表をつく夜襲を決断。闇にまぎれて敵へ接近し5月9日明け方に攻撃を開始した。
 平盛俊軍は善戦したが5月9日午後2時ごろに戦況不利に陥り退却。
 越中浜街道を進軍し、5月9日には六動寺(現在の新湊市六渡寺)に宿営していた木曾義仲軍は5月10日に般若野の今井兼平軍に合流。5月11日朝、倶利伽羅峠へ向かって般若野を出発した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E9%87%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3)

 (18)倶利伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)(1183年5月11日)

 「一旦後退した平家軍は、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた。
 平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲

⇒「平重盛の子どもである維盛・・・は、平家一門ではやや浮いた存在でもあった。というのも、鹿ケ谷の陰謀に重盛の義兄の藤原成親が関与していたことが発覚。重盛の政治的立場はとたんに悪くなり、やがて重盛は若くして病死してしまう。維盛・・・は、成親の娘を正室に迎えていたから、なお具合が悪い。しかも、重盛は清盛の前妻の子。後妻の時子の子である宗盛が一門の中で台頭してきたことで、維盛・・・の地位はなんとも微妙なものになっていく。・・・都落ちにあたり、一門の中で妻子を残したのは維盛・・・のみ。・・・維盛・・・は一ノ谷の戦い前後に、密かに陣を抜け出し、熊野へ援軍を求めて密かに陣を抜け出したという。しかし、援軍を得られなかった維盛・・・は那智に逃れ、熊野灘の山成島の松の木に、清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして入水自殺したという。享年27。」
https://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2014/09/05/000000
という、こんなひ弱な維盛を、富士川に送り出した清盛、倶利伽羅峠に送り出した叔父の知盛、のどちらも、軍事的危機に瀕した平家の棟梁としては失格だ。(太田)

 (19)篠原の戦い(1183年6月1日)

 「倶利伽羅峠の戦いでの敗北により、平維盛が率いる平氏軍は京方面へ北陸道を上っていったが、源義仲軍はすぐに追撃を始め加賀篠原・・・(現・石川県加賀市旧篠原村地区)・・の地で平氏軍を捉えた。敗走中に追撃を受けた平氏軍はほとんど交戦能力を失い惨憺たる体で壊走し、義仲軍の圧勝であった。・・・平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経(藤原忠清の子)らは一人の供もなく逃げ去った。この3人の侍大将と、大将軍(平維盛)らの間で権威を争っている間に敗北に及んだという・・・。
 この後、6月6日に敗れた平家軍が出陣した時の半数となって帰京し、義仲は10日に越前、さらに13日には近江へ入った。義仲軍の近江到着の報が京に届いた頃、鎮西反乱を鎮圧した平家の家人平貞能が帰京し、数万の軍勢を期待されたが、実際には1,000余騎程度で人々を大いに落胆させている。
 義仲は6月に都への最後の関門である延暦寺と交渉し、7月に入京を果たした。その直前に平氏一門は京を離れ西方へと逃れていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒「盛俊・景家は宗盛の家人、忠経は維盛の小松家の家人であり、一門主流と小松家の確執が指揮系統の混乱を招いた可能性もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E4%BF%8A
というのだが、「越中の地理に詳しい」(前出)上に「剛力の持ち主として有名で、平清盛の政所別当を務めるなど実務にも長じていた」盛俊(上掲)が加わっていながら、越中の地理にも加賀の地理にも詳しい有力武将がいなかった義仲軍に、兵力が遥かに上回っていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
というのに、一方的に打ち負かされた平家軍は、盛俊を含め、軍事に関してはアマチュアばかりだったという感を深くする。
 とにかく、維盛についても当てはまるが、清盛も重盛も、その男児達に十分な武士としての教育訓練を施さなかったのではないか。(太田)

 (20)水島の戦い(1183年閏10月1日)

 「6月末、京都を守る最後の砦とも言える延暦寺では、源氏に味方しようとする大衆と源平両氏の和平を模索する僧綱の間で対立が起こっていた。平氏は、宗盛以下公卿10人が「延暦寺を平氏の氏寺に、日吉社を氏社とする」という起請文を連名で出し、延暦寺の懐柔に躍起となっていた。
 義仲軍が近江勢多に、行家軍が伊賀国に到達したため、平忠度率いる100騎が丹波国に、資盛・貞能率いる3,000騎が宇治を経て近江に向かう。
 22日になると延暦寺の僧綱が下山して、義仲軍が東塔惣持院に城郭を構えたことを明らかにした。丹波の忠度は撤退し、資盛・貞能は宇治で行家軍に行く手を阻まれ、摂津国河尻では多田行綱が船を差し押さえ、平氏の補給路を遮断していた。宗盛は一門の中核である知盛・重衡率いる3,000騎を勢多に、頼盛を山科に投入するが、もはや京都の防衛は絶望的な情勢だった。
 24日、安徳天皇は法住寺殿に行幸するが、すでに「遷都有るべきの気出来」という噂が流れており、平氏が後白河法皇・安徳天皇を擁して西国に退去する方針は決定していたと思われる。・・・しかし、後白河法皇は25日未明、法住寺殿を脱出して延暦寺に向かう。・・・動転した宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・建礼門院・近衛基通・一族を引き連れて周章駆け出した。しかし、3年前の福原行幸と異なり安徳天皇や平氏に付き従う者は少なく、頼盛や小松家は離脱の動きを見せ、同行していた基通も途中で引き返した。頼盛・基通は京都に残留するが、小松家は後白河法皇と連絡が取れなかったため、やむを得ず宗盛の後を追った。

⇒「富士川の戦いで追討軍が大敗したという報告が届くと、宗盛は還都を進言して清盛と激しい口論となり、周囲の人々を驚かせた。従順だった宗盛までが反対意見を述べたことで、今まで押さえ込まれていた還都論は一挙に再燃する。清盛も還都に同意せざるを得なくなり、23日に一行は福原を出発、26日に帰京した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%9B%9B
という挿話を思い出して欲しい。
 1180年5月26日に以仁王が討ち取られた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%8C%99%E5%85%B5
直後の、以仁王の令旨が発せられという背景の下、各地の源氏等の動向を監視し、万全の対応策を検討し、採用すべきクリティカルな時期である、6月2日に福原遷都を強行した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%8E%9F%E4%BA%AC
清盛の判断は間違っていたけれど、富士川の戦いで敗北したか否かに関わらず、同様の理由で、12月11日の還都もまたすべきではなかった。
 それに、福原は、天然の要害である(一ノ谷の戦い参照)し、港もあったことから水軍さえ押さえておけば孤立することもなく、長期戦の総司令部を置く場所としては最適と言っても良かったからだ。
 ここで、平宗盛は、第一(最初)の大判断ミスを犯しと言えよう。
 次に、1081年閏2月に、宗盛は、「自ら出馬して「一族の武士、大略下向」する予定であったところへ清盛の病が「十の九はその憑み無し」という状況となり派兵<を>延期」した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%9B%9B 前掲
が、これが第二の大判断ミスであり、また、既述したところの、清盛の死後、「後白河法皇は宗盛に和平を打診した<のに対し、>宗盛は後白河法皇が頼朝と独自に交渉したことを咎めず、その和平案にも「この儀尤も然るべし」と一定の理解を示しながら、「我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべし」という清盛の遺言を盾に、「勅命たりと雖も、請け申し難きものなり」と拒否」した(上掲)のが第三の致命的な大判断ミスであり、1183年4月17日に北陸追討軍が出発した(上掲)ところ、それが遅れてこの時期になったことや平家総帥となった宗盛が出陣しなかったことは止むを得ないとしても、追討軍を、せめて、知盛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E7%9B%9B
か重衡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E8%A1%A1
ではなく、維盛なんぞに率いさせたのが第四の大判断ミスだ。
 そして、西走に同行させるつもりの後白河に、(後白河を軟禁状態に置かなかったために)1183年6月25日未明に延暦寺に脱出され、その後白河によって平家が追討宣旨の対象とされた(上掲)のが、第五の大判断ミスだ。
 更に、第六の大判断ミスは、1183年11月28~29日の室山の戦いでの勝利の後、上洛を図らなかったこと(後出)だ。
 大勢は変らなかっただろうが、少なくとも、平家は華々しく散ることができ、あのような野垂れ死に的な最期を迎えることを回避できた可能性が高いというのに・・。
 もっと馬鹿げているのは、第七の大判断ミスにして最後の大判断ミスが、1183年12月2日の源義仲からの和平提案を拒否したことだ。(後出)
 これは、大化けする可能性が皆無ではなかったというのに・・。
 その宗盛だが、「壇ノ浦の戦いで・・・知盛・経盛・教盛ら一門が入水する中、宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の清宗とともに引き上げられ捕虜」になり、京で引き回された後、鎌倉に送られ、助命を乞うが、京都に送還される途中で斬首された。(上掲)
 このように、宗盛の「晩年」を振り返ると、清盛は、重盛の死後、宗盛を公家の養子に押し込むなりして、何がなんでも、知盛を嫡男にしなければならなかった、と思う。(太田)

 後白河法皇は27日に京都に戻り、28日に「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として平氏追討宣旨を下す。ここに平氏は賊軍に転落することになり、味方を集める事が困難となった。
 宗盛は一門を引き連れて、福原から海路を西へ落ち延びる。目指す先は九州の大宰府だった。大宰府は・・・平氏の家人・原田種直が現地の最高責任者・大宰少弐となっていた。平氏は8月中旬には九州に上陸するが、豊後の臼杵、肥後の菊池は形勢を観望して動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地の情勢は厳しいものだった。特に豊後は院近臣・難波頼輔の知行国であり、後白河法皇の命を受けた緒方惟栄が平氏追討の準備をして待ち構えていた。惟栄が重盛の家人だったことから資盛が説得に赴くが、交渉は失敗に終わる。
 9月、宗盛は後白河法皇に「臣に於て全く君に背き奉るの意無し。事図らざるに出で周章の間、旧主に於ては且らく当時の乱を遁れんため、具し奉り外土に蒙塵し了んぬ。然れどもこの上の事、偏に勅定に任すべし」という内容の書状を送り、事態の打開を図った。後白河法皇は宗盛の提案を黙殺したらしく、義仲に平氏追討を命じている。結局、平氏は10月には九州の地を追われ、再び海上を漂うことになった。
 九州を追われた平氏は、阿波国の田口成良の支援により何とか四国に上陸する。この時、義仲軍は妹尾兼康を討って備中国まで進出していた。宗盛は戦闘を回避するため、義仲に使者を送り「今に於ては偏に帰降すべし。只命を乞はんと欲す」と申し入れるが、義仲は応じなかったらしい。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%9B%9B
 「当時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。平氏を追討するため、・・・1183年・・・9月20日に源義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍していったが、閏10月1日、四国へ渡海する前に、水島・・現在、水島といえば倉敷市水島もしくは、水島群島(上水島・下水島)を指すが、合戦当時は、現在の同市玉島地域にある柏島もしくは乙島(ともに現在は陸地化)、あるいは両島および周辺の島々の総称であったとされる。・・付近で平氏軍に敗れた。
 義仲軍を率いていたのは、義仲の同族である武将足利義清・足利義長兄弟と海野幸広(海野氏)である(『源平盛衰記』)。
 平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平氏の射手が義仲軍へ矢を浴びせかけて戦闘が開始した。平氏軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸した。最終的に平氏軍は勝利し、義仲軍は足利義清・海野幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、高梨高信、仁科盛家といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走することになった。この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り、一ノ谷の戦いを迎えることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒これは、諸戦い中、平家の6度目の勝利だ。
 勝因は、義仲が水軍を持たなかったことだろう。(太田)

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[寿永二年十月宣旨]

 以前(コラム#11434で)少し触れたことがあるし、この原稿でも既に言及しているが、ここで詳述しておく。

 「・・・1183年・・・7月、北陸道での敗戦により平氏が京を脱出すると、直後に源義仲軍が入京した。この時点で京の朝廷が直面した課題は、官物・年貢の確保であった。西走した平氏は瀬戸内海の制海権を握り、山陽道・四国・九州を掌握していたため、西国からの年貢運上は期待できなかった。また東国も、美濃以東の東海・東山道は源頼朝政権の勢力下におさめられ、北陸道は源義仲の支配下にあった。これら地域の荘園・公領は頼朝あるいは義仲に押領されていたため、同じく年貢運上は見込めなかった。さらに義仲は入京直後、山陰道へ派兵して同地域の掌握を図っていた。8月・9月という収穫期を目前としながら、諸国の荘園・公領から朝廷・諸権門への年貢運上はほとんど見込めない状況にあったのである。
 さらに、入京した源義仲軍が、京中および京周辺で略奪・押領をおこなっていたことも併せて、京の物資・食料は欠乏の一途をたどり朝廷政治の機能不全が生じ始めていた。・・・
 一方、源頼朝も大きな課題に対面していた。源義仲の入京直後に行われた朝廷の論功行賞では、頼朝による政治交渉が功を奏し、勲功第一は頼朝、第二が義仲、第三が源行家とされた・・・が、義仲が受領(従五位下左馬頭・越後守)任官を果たした・・・のに対し、頼朝には本来の官位復帰すら与えられず、謀叛人の身分のままとされた。さかのぼって同年前半、常陸の源義広<(志田義広)>が反頼朝の兵を挙げ、同国の大掾氏や下野の藤姓足利氏(足利忠綱)らがそれに同調する動きを見せたが、頼朝はこの反乱を鎮圧したものの、北関東の情勢は頼朝にとって非常に不安定な状態に陥っていた。その後、源義広は義仲との連携を選び、ほどなく源行家も義仲と結ぶようになる。そして夏になり、義仲軍が北陸で平氏軍に相次いで勝利し、以仁王遺児の北陸宮を奉じて上洛を果たすと、近江源氏(山本義経)、美濃源氏(山田重澄)らのみならず、頼朝と連携を結び遠江にいた甲斐源氏の安田義定も義仲のもとへ続々と合流していった。この時点において、義仲の権威と名声は頼朝のそれをはるかに上回っていたのである。平氏家人打倒を共通の目的として頼朝麾下に集結した関東武士団連合も、本来的には所領をめぐり潜在的な対立関係にあったのであり、敵対勢力の排除や淘汰にともなって徐々に結合が弱まり始めていた。元木泰雄は、こうした中で義仲が目覚しい活躍をみせたことは、頼朝政権が崩壊する可能性さえもたらしかねなかったとする。
 上記の状況下において、頼朝は政治的な窮地に立たされ、危機感を強く抱いた。上横手は、頼朝の対朝廷外交の主眼は、頼朝が源氏の嫡宗であること、そして唯一の武家棟梁であることの2点を朝廷に公認させることだったと指摘している。7月末に頼朝が勲功第一と評定されたことはその外交方針による成果だといえるが、その後の状況は、義仲に優越しようとする頼朝外交があえなく失敗したことを物語っている。
 ここで頼朝政権内部の状況にも目を向けると、平広常<(注46)>ら有力関東武士層には東国独立論が根強く存在しており、頼朝を中心とする朝廷との協調路線との矛盾が潜在していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8

 (注46)上総広常(?~1184年2月)。「桓武平氏良文流、房総平氏、上総氏<。>・・・上総氏は上総介あるいは上総権介(かずさごんのすけ)として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長である。
 広常は、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であった。・・・1156年・・・の保元の乱では義朝に属し、・・・1159年・・・の平治の乱では義朝の長男・源義平に従い活躍。・・・平治の乱の敗戦後、平家の探索をくぐって戦線離脱し、領国に戻る。
 <その>後は平家に従ったが、父・常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景や常茂の間で上総氏の家督を巡る内紛が起こり、この兄弟間の抗争は後の頼朝挙兵の頃まで続いている。・・・1179年・・・11月、平家の有力家人・伊藤忠清が上総介に任ぜられると、広常は国務を巡って忠清と対立し、平清盛に勘当された。また平家姻戚の藤原親政が下総国に勢力を伸ばそうと<した>・・・。
 ・・・1180年・・・8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、又従兄弟の千葉常胤とともに2万騎の大軍・・を率いて頼朝のもとへ参陣した。
 『吾妻鏡』では、『将門記』の古事をひきながら、場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」とはある。
 なお『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である。
 同年11月の富士川の戦いの勝利の後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は・・・金砂城の戦い<で>・・・秀義を攻め、これを敗走させる・・・。・・・
 1183年・・・12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時・天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男・上総能常は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。広常の死後、千葉氏が房総平氏の当主を継承した。
 慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した・・・1190年・・・、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べたことを記している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E5%BA%83%E5%B8%B8

  -国香-貞盛-維衡-正度-正衡-正盛-忠盛—–清盛
高望-良将-将門
-良文-忠頼-忠常-常将-常長-常家=上総常晴=上総常重
               -千葉常兼-↑—常重-⤴    ↑
              -相馬常晴-⤴ —上総常澄—上総広常
                          —印東常茂(庶次兄)
                          —伊西常景(庶長兄)

 ※「=」は養子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B8%B8%E5%B0%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B8%B8%E9%95%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B8%B8%E6%99%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B8%B8%E6%BE%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F#%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%B9%B3%E6%B0%8F

⇒将門(?~940年)はご存知のように、「「新皇」を自称し、東国の独立を標榜した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80
人物だが、将門の従兄弟の子であった忠常(967/975~1031年)は、「1028年・・・6月、・・・安房国の国府を襲い、安房守・平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが受領との対立が高じたものと思われる。朝廷は忠常追討を命じ、追討使平直方が派遣された。官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。乱は房総三カ国に広まり、合戦の被害と官軍による強引な徴発により大いに疲弊した(平忠常の乱)。・・・1030年・・・9月、平直方が解任され、甲斐守・源頼信が追討使に任じられた。長期にわたる合戦で忠常の軍は疲弊しきっており、・・・1031年・・・春に忠常は出家し・・・頼信のもとへ出頭して降伏した。平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。同年6月、京へ連行される途上の美濃国野上で病没した。忠常の首は刎ねられ、京で梟首とされたが、後に首は親族へ返されている。子の常将と常近も罪を許された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8 前掲
という人物であり、広常が将門の縁戚で忠常の子孫であることや、本人自身の不穏な言動から、頼朝が広常に本当に猜疑心を抱いていた可能性は皆無ではないが、言いがかりと見るのが自然であり、この広常殺害もまた、頼朝の酷薄さを物語る挿話であると言えよう。(太田)

 「前者は以仁王の令旨を東国国家のよりどころとしようとし、後者は朝廷との連携あるいは朝廷傘下に入ることで東国政権の形成を図る立場であった。この2路線の相克が、爾後、頼朝政権が退勢を挽回する上で重要となってくる。

⇒「東国国家派」なるものは、頼朝が、扱いにくいと思った武家を潰すためにでっちあげた御伽噺だ、というのが私の見方だ。(太田)

 物資の確保を狙う朝廷側(後白河院)と、義仲に優越する必要に迫られていた頼朝側との間で、9月ごろから交渉が開始した。まず後白河院から頼朝へ何らかの要請がなされたとされるが、・・・後白河院からの要請に対して、頼朝は3か条からなる回答を示している。1点目は神社仏寺へ勧賞を行うこと、2点目は院宮王臣家以下の荘園を本所の領有に復帰させること、3点目は斬罪の寛刑特令を発布すること、であった(『玉葉』十月四日条)。
 佐藤進一は、後白河院の真の狙いは国衙支配の回復であったろうが、頼朝の回答は荘園領有権の回復に言及しているのみであり、国衙支配の回復には触れていないことから、国衙支配の回復が重要な外交カードになっていたと指摘する。
 また、佐藤は、寛刑特令発布について、義仲による平氏残党掃討を牽制する意図があったと考えている。

⇒この頃、『玉葉』の「著者」の九条兼実は「政治の中枢から一定の距離を置」いており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
こんなものは単に噂を書き記したものであって真に受けるべきではあるまい。
 だから、詮索する必要もないのだが、1点目について、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」の意味だと解する者もいるようだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2
が、誰も、正面から取り上げていないのは、説明するのが困難な内容だからだろう。(太田)

 10月中旬に至って交渉は妥結した。朝廷から下されたその宣旨は、東海・東山両道の荘園・公領の領有権を回復させることと、それに不服の者については頼朝へ連絡し「沙汰」させる、という2つの内容を有していた(詳細は上記「内容」節を参照)。前段は朝廷側の要求の実現であり、後段は頼朝側の要請が承認されたものと解されている。後段に現れる「沙汰」の意味するところについては様々な議論があるが、佐藤進一が提示した「国衙在庁指揮権」とする見解が有力である。佐藤は、朝廷が求めていた東国における国衙支配の回復が宣旨の前段にて示されたことは、頼朝の譲歩だといえるが、後段において実質的な国衙在庁指揮権が頼朝の権利として公認されたのだとした。

⇒後白河も頼朝も、思いは同じであって、「勲功第一」の頼朝が、武家総棟梁であることを世間に明示することであり、そのことを、頼朝の実効支配下にある地域について、頼朝に権力(「沙汰を致す」権限)を与えるという宣言を発することによって果たした、と、私は見ている。
 (権力移譲は既定路線なので、佐藤進一が主張するところの「後白河院の真の狙い<が>国衙支配の回復であった」はずはない。)
 なお、「沙汰を致す」云々に触れているのは『玉葉』だけのようだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8 前掲
が、兼実は、宣旨そのものを見ているように読めるので史実だと考える。(太田)

 頼朝は、義仲に対する優越を確実にするため、宣旨の対象地域に北陸道を加えるよう朝廷へ要請していた。折りしも義仲は西走した平氏追討のため、10月初頭から播磨へ出陣しており、京に不在であったが、義仲を恐れた朝廷は北陸道を宣旨から除外した。山本幸司は、この点に頼朝と義仲を両天秤にかける後白河院の政治的意図があったとする。これに対して河内祥輔は3ヵ条の回答の冒頭に京攻めについて神仏の功徳のみを述べて義仲の功績を全否定していることを挙げ、頼朝の要請した対象地域には現在義仲が軍事的に占領している全地域すなわち京都を含めた畿内一帯も含まれていたが、北陸道の除外によって畿内も当然除外されたとする。

⇒北陸道が除かれたという話も、『玉葉』だけが典拠のよう(上掲)だが、そこは伝聞なので、やはり、信用できない。
 頼朝が、空振りの内容を宣旨に書かせようとすることなどありえないだろう。(太田)

 宣旨の発布を知った義仲は激しく怒り、後白河院に対し「生涯の遺恨」とまで言うほどの強い抗議を行っている・・・。

⇒義仲が激しく怒ったのは、頼朝が武家総棟梁に指名されたこと、その一点だろう。(太田)

 宣旨の発布と同時に、頼朝は配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に叙せられ、謀叛人の立場から脱却した。元木泰雄は、この時点で頼朝は王権擁護者の地位を得たとし、宣旨による頼朝の最大の成果は、東国行政権というよりも王権擁護者の地位だったとの見解を示している。

⇒言葉遣いはともかくとして、元木の言う通りだと思う。(太田)

 本宣旨を獲得したことにより、頼朝政権は対朝廷協調路線の度合いを強めた。それまで頼朝は、朝廷が使用していた寿永年号を拒み、治承年号を使用し続けていたが、宣旨発布の前後から寿永年号を使用し始めている。

⇒治承から養和に改まった1181年7月も、養和が寿永に改まった1182年5月も
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E5%92%8C
後白河の自由が平家によって奪われていたとの判断の下、以仁王が用いた当時の年号を頼朝は使い続けたけれど、後白河が(義仲はともかくとして、少なくとも)平家からは解放されていることが件の宣旨によって十二分に証明された以上、宣旨当時の年号に切り換えることにした、というだけのことだろう。
 (なお、治承→養和、養和→寿永、のそれぞれの改元のいきさつを少し調べたのだが分からなかった。)(太田)

 その一方で、幕府内の東国独立論は大きく後退していった。東国独立論を強く主張していた平広常が同年12月に暗殺されたことは、頼朝政権の路線確定を表すものと考えられている。

⇒繰り返すが、東国独立論など、御伽噺以外の何物でもない、と見なければならない。(太田)

 頼朝は宣旨施行のためと称して、源義経・源範頼ら率いる軍を京方面へ派遣した。軍は11月中旬までに伊勢へ到達している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8 前掲

⇒既に記しているように、頼朝自身は鎌倉に留まったことこそ注目すべきであると考える。(太田)
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[義経論(その2)]

 「菱沼一憲<は、>・・・まず、頼朝が義経を上洛を命じた段階では、あくまでも後白河法皇に供物を届けることを目的としており、『玉葉』寿永2年11月7日条にも、頼朝代官(義経)が近江到着の時点で兵力は5・600騎しかなく合戦の備えをしていなかったことが記されている。また、同じく10日条には義仲が義経入洛を認める様子を見せている。頼朝が義経を派遣した当初の目的は寿永2年10月宣旨を受けて東海道・東山道地域の治安回復にあたるとともに朝廷との関係を改善することが目的であり、義仲との軍事的対決を意図したものではなかった。それが、法住寺合戦によって頼朝は義仲との対決を決意して範頼率いる義仲討伐軍を別途派遣し、先行していた義経に合流を命じたとする。
 こうした経緯から、頼朝から朝廷との政治交渉の権限を認められていたのは義経のみであった。対義仲戦、続く対平氏戦における主たる将であったのは範頼であったが、後白河法皇への戦勝報告は義経が行い、その後も在京代官として義仲に代わって京都の治安維持に当たったのも義経であった(当時の朝廷の一番の関心は京都の治安問題であった)。頼朝は朝廷との連携を強めて対義仲・平氏戦への軍事作戦や東国支配の確立を円滑に推進するための「事務的代官」として義経を、実際の軍事作戦を行う大将の役割を果たす「軍事的代官」として範頼を置くことで自らの方針を推進しようとしたとみる。
 <これに対し、>元木泰雄<は、>・・・挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。
 義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一ノ谷の戦いも、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。
 合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C

⇒義経、次いで範頼、上京を巡る私見については既に記した。
 重要なのは、これも繰り返しだが、寿永2年10月宣旨でいわば成立したばかりの東国における頼朝政権において、そのナンバーツーは義経、で、すっと下がったナンバースリーが範頼だった、という事実だ。
 私は、当時は衆目、この政権の次のリーダーは義経、という認識であったろうと見ている。
 但し、酷薄な頼朝だけは、少なくとも頼家が生まれた時点以降は、時機を見て義経を抹殺しようと決意していた、と。(太田)
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[平時忠]

 1130~1189年。「平清盛の継室である平時子<(二位尼)>の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院<(平滋子)>は異母妹にあたる。・・・
 1160年・・・頃から時忠は清盛の思惑から外れ、独自の動きを見せるようになる。・・・
 1168年・・・2月に憲仁親王が践祚(高倉天皇)、3月には妹・滋子が皇太后となる。滋子の叔父・平信範は平教盛とともに蔵人頭となり、時忠は従三位に叙せられた。清盛が出家して政界を表向き引退したこともあって、高倉天皇即位後の政治は後白河院が主導権を握った。時忠も滋子の兄という立場から、後白河院の側近として活動することになる。・・・

⇒この折、時忠は、かなり高位ではあるけれど、後白河の工作員(6号)として取り込まれた、と見る。(太田)

 時忠は閑院内裏<で>内侍所(神鏡)を取り出してから・・・平氏<の>・・・都落ちに同行した。・・・安徳天皇および平氏に付き従った貴族は、わずかに時忠・時実・信基・藤原尹明に過ぎなかった。27日、後白河法皇は都に戻り、翌日に開かれた議定において平氏追討が決定した。8月6日に平氏一門は一斉に解官されるが、法皇は安徳天皇の帰京・神器の返還を交渉するため、時忠の解官は見送っている。もっとも交渉は不調に終わったらしく、16日には時忠も解官となった。・・・

⇒後白河は(神器「回収」要員たる)時忠を守ろうとしたものの、本当のことを言うわけにはいかず、ついにそれを断念した、ということだろう。(太田)

 時忠は壇ノ浦で捕虜となり、4月26日に入洛した。時忠は神鏡を守った功績により減刑を願い、娘(蕨姫)を源義経に嫁がせ・・・た。・・・

⇒時忠は、後白河が言い含めた通り、少なくとも、神器のうちの鏡だけは、「回収」を果たしたところ、後白河は、時忠に、今度は、義経への肩入れを命じた、というわけだ。(太田)

 5月20日、捕虜となった人々の罪科が決定し、時忠・<その子>時実・信基・藤原尹明・良弘・全真・忠快・能円・行命の9名が流罪となった。・・・
 8月中旬には時忠・時実を除く7名が配地に下るが、時忠・時実は義経の庇護を受けて都に残留していた。

⇒むしろ、義経が、後白河の内意を踏まえ、時忠親子を保護した、ということだろう。(太田)

 義経の動きに不信感を抱いた頼朝は、梶原景季を派遣して時忠・時実がいまだに在京していることを咎め、朝廷には配流の速やかな執行を言上した。9月23日、時忠は情勢の悪化を悟り、配流先の能登国に赴いた。・・・
 11月3日、義経は都を退去して再起を図ろうとしたが、あえなく自滅する。時実は義経に同行したが捕らえられ、翌・・・1186年・・・正月に上総国に配流された。・・・
 時忠の邸宅は一旦は没収されて平家没官領となったが、頼朝は時忠の家族をそのまま居住させた。

⇒後白河は、頼朝に対し、人を介して、時忠が平家に対する「高級」工作員であったこと、かつ、今回も・・事実に反するが・・義経に対して工作員として送り込んであった旨を仄めかしたのだろう。(太田)

 娘の宣子は後鳥羽天皇の典侍となっている。後の・・・1195年・・・3月に頼朝が上洛した時、時忠邸は若宮供僧<(注47)>の宿坊となった。<時忠の継室の>領子と<2人の娘の>帥典侍尼(宣子)が鎌倉の頼朝に愁状を出したところ、頼朝は後鳥羽天皇や吉田経房に配慮したらしく収公を差し止め、時忠の遺族に返還している。・・・

 (注47)「神仏混交<下の神社の>・・・社役を務める僧侶である供僧」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B2%A1%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%9D%8A

⇒いや、頼朝は、後白河(~1192年)に配慮したのだ。(太田)

 ・・・1189年・・・2月24日、時忠は能登国の配地で生涯を終えた。墓は石川県珠洲市大谷町則貞の国道249号傍にあり、石川県指定史跡となっている。・・・
 頼朝は時忠の薨去を聞いて「智臣の誉あるによりて、先帝の朝、平家在世の時、諸事を補佐す。当時と雖も朝廷の為に惜しむべきか」と語っている。・・・

⇒この頼朝の時忠評のよってきたる所以は、もうお分かりだろう。(太田)

 同年5月、奥州藤原氏の追討宣旨を要求する頼朝に、後白河院は配流されている時実らの赦免を申し入れる。頼朝はこの要請を受け入れ、時実らは帰京した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%BF%A0
 「1183年・・・7月に入ると、義仲・行家軍が入京の可能性が現実味を帯び、7月25日に安徳天皇が後白河法皇の御所がある法住寺殿に行幸<し>た。ところが、後白河自身はその日のうちに比叡山に避難してしまった。これを知った内大臣平宗盛は京都脱出を決意、平清経・時忠に命じて天皇及び摂政近衛基通、剣璽を京都から連れ出すように命じた。天皇と剣璽は六波羅で平氏一門と合流してその日のうちに西国へと落ちていったが、基通は途中で離脱して知足院に隠棲していた平信範(時忠の叔父)の下に逃れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E4%BD%8F%E5%AF%BA%E5%90%88%E6%88%A6
 平信範
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E7%AF%84

⇒平信範も、後白河の工作員だった可能性は否定できない。(太田)
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 (21)法住寺合戦(1183年11月19日)

 「1183年・・・7月末に源義仲と源行家は平氏を追い落として入京するが、その時点から序列を争う両者の不和が現れていた。・・・
 行家は公然と義仲と別行動を取るようになり、11月8日に西国の平氏追討の任を朝廷から公式に受けて京から出陣した。・・・
 ほぼ同じ頃、鎌倉の源頼朝から代官として派遣された源義経と中原親能の軍勢が近江国に到着して都の情勢を伺っており、平氏、鎌倉、法皇、行家と四面楚歌に陥った義仲は、完全な孤立状態に追い詰められ、その焦燥は11月19日の法住寺合戦で爆発する事になる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「木曾義仲<は、>院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した・・・。・・・
 この戦いで、明雲、円恵法親王、源光長・光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E4%BD%8F%E5%AF%BA%E5%90%88%E6%88%A6

 (22)室山の戦い(1183年11月28/29日)

 「行家は11月29日(『玉葉』による。『吉記』では28日)、播磨国室山に陣を構える平知盛・平重衡率いる平氏軍を攻撃する。五段構えに布陣した平氏軍は、陣を開いて攻め寄せる行家軍を中に進入させて包囲した。行家は郎従百余名を討たれながら大軍を割って逃げ、高砂まで退いたのち、海路で本拠地の和泉国に到着し、河内国へ越えて長野城(大阪府河内長野市、金剛寺領長野荘)へ立て籠もった(『平家物語』「室山」)。

⇒これが、諸戦い中、平家の最後(7度目)の勝利だ。
 行家が、熊野に逃れたのが、保元の乱の後なのか平治の乱の後なのか、説が分かれているようだ
https://kotobank.jp/word/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E5%AE%B6-139231
が、彼は武士としての教育訓練を十分に受ける機会がなかったと私は見ている。
 それが、(その資質の問題もあったかもしれないが、)行家が、彼が主軸となった戦いで、敗北し続けた理由だと思う。(太田)

 この行家<の>惨敗により、平氏側では水島合戦に続く勝利を得て都奪還の気運が高まり、即時上洛を主張する知盛と反対する宗盛との間で口論となっている。12月には都で平氏上洛の噂が流れ、近江国に控える鎌倉軍の動きを警戒する義仲を刺激した。義仲は12月2日に平氏に起請文を送って和平交渉に乗り出し、奥州の藤原秀衡に頼朝追討の院庁下文を出させるが、いずれも不調に終わり、諸勢力が水面下で様々に動く中、事態は宇治川の戦いへと展開してゆく。
 義仲は翌年の正月、河内国長野城に立て籠もって反旗を翻した行家を追討すべく樋口兼光を派遣し、行家はそこでも敗れて紀伊国の名草へ逃げ込んでいる。行家は義仲滅亡後の2月3日、再び都に戻って義経に接近し、鎌倉との対立を煽ることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲

 (23)宇治川の戦い(1184年1月20日)

 「・・・孤立を深める義仲は平家との和平を打診するが、拒絶される。
 [<すなわち、>[義仲は12月2日に平氏に起請文を送って和平交渉に乗り出し、奥州の藤原秀衡に頼朝追討の院庁下文を出させるが、いずれも不調に終わ<る。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ]
 12月、義仲は後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を発出させる。そして翌・・・1184年1月、義仲は征東大将軍に任命された。1月20日、頼朝は近江にまで進出させていた範頼、義経に義仲追討を命じた。・・・
 入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北と状況の悪化により脱落者が続出して千騎あまりに激減していた。また、義仲は平家との和平交渉とともに後白河法皇らを奉じて北陸道へ下る事も考えていたようであるが、関東は飢饉によって兵力を動員できず義経の兵も千騎ほどという情報が入ってきたため、北陸下向を中止して迎え撃つ判断をしてしまったのである(『玉葉』寿永3年正月13・14日条)。

⇒東国まで飢饉になっているというのは、頼朝が意図的に流したデマであると思われ、そんな話を鵜呑みにしてそのまま記しているところにも、『玉葉』の信頼性の低さが現れている。(太田)

 義仲が敵の実勢を把握したのは15日の夜であり、翌16日には範頼が北陸道の入口である近江国の瀬田に兵を進めて義仲軍を京都に閉じ込めてしまった(「関東が飢饉によって兵力が動員できない」という情報自体が頼朝側が流した偽情報であった可能性もある)<!(太田)>。
 義仲は義仲四天王の今井兼平に500余騎を与えて瀬田の唐橋を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。・・・
 <そして、>義経軍に宇治川を突破される。義経軍は雪崩を打って京洛へ突入する。義仲が出陣し、義経軍と激戦とな<り、>・・・奮戦するが遂に敗れ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 (24)粟津の戦い(1184年1月20日)

 「根拠地のある北陸への逃走を試みた・・・義仲が近江国粟津に着いたところ、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、最早戦力として成り立たなくなっていた義仲軍は潰滅し、・・・<義仲は、>顔面に矢を射られて討ち死に<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E6%B4%A5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 (25)一ノ谷の戦い(1184年2月7日)

 「この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。
 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E8%B0%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 (26)三草山の戦い(1184年2月5日)

 「平氏追討の宣旨を受けた源範頼・源義経率いる源氏軍は平氏が拠点とする福原を目指して出陣した。2月5日に摂津国に入ると、東西から挟み撃ちにするために軍勢を二手に分け、大手(福原の東方)を攻める範頼は西国街道を、搦手(福原の西方)を攻める義経は丹波路を進み、2月7日が矢合わせ(攻撃決行)となった。
 一ノ谷を目指して丹波路を進軍する義経を迎え撃つため、平氏方の平資盛・平有盛・平忠房・平師盛らが播磨国三草山の西に布陣する。義経は東方に陣をとり、源平両軍が三里ほどの至近距離で対峙した。・・・
 夜討ちを予想していなかった平氏軍は武具を解いて休息しており、源氏軍の夜討ちにあわてふためいて敗走し、あっけなく源氏軍の勝利となった。
 資盛・有盛・忠房は高砂より海路で屋島に渡り、師盛はかろうじて福原の平氏本隊へ戻っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8D%89%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある・・・。・・・

⇒後白河が一貫して頼朝を支援していることに宗盛以下、平家側が気付かなかったのは、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の蚊帳の外だった平家だけに、さすがに責められないが、それにしても、後白河も阿漕なことをするものだ。(太田)

 平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。・・・多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。
 2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。・・・
 午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ源氏軍をひるませる。平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。・・・
 生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。
 精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。・・・崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。・・・
 混乱が波及して平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。
 生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口(山の手)の救援に向かった。午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。
 安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かった。・・・
 範頼軍は平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を、義経・安田義定軍は、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経をそれぞれ討ち取ったと言われている。・・・
 後白河法皇は捕虜になった重衡と三種の神器を交換するよう平氏と交渉するが、宗盛はこれを拒絶し、合戦直前の休戦命令に従っていたにも係らず、突然源氏に襲われたということに対する抗議と「休戦命令は平氏を陥れる奇謀ではなかったか」との後白河法皇への不審を述べ立てている。・・・
 <なお、>山の手を攻撃した将が安田義定か多田行綱かは本によって、まちまちであり、本によっては折衷案なのか安田義定と多田行綱の両人の名を併記していることもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E8%B0%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
⇒京が攻めるに易く守に難い位置にある上、四囲に防壁もなく、だからこそ、平家は義仲勢が迫ると京を脱出したし、義仲も、鎌倉勢が迫ると京を脱出した。
 それゆえ、背後は山で東西は守り易く、前面は海で、水軍さえ相対的に強大であれば、守れるし、場合によっては海上から逃げることもできるところの、福原への遷都を清盛が、以仁王令旨が出た有事であるからこそ、決行しようとしたのだろうが、鎌倉も福原と似たような地勢であることは興味深い。
 いくつもある、頼朝が鎌倉を本拠地にした理由の一つとして、この点も忘れてはなるまい。
 ところで、どうして、桓武天皇は、そんな京に遷都し、防壁すら設けなかったのだろうか。
 それは、自分が作った桓武天皇構想を可及的速やかに実現することによって、京よりも遥かに前方において、海外からの攻撃を撃破できるようにすることを祈念しつつ、後継の天皇家の人々等に奮起を促すために、あえてそうした、というのが私の想像(妄想?)だ。(太田)

 (27)三日平氏の乱(1184年7~8月)

 「1183年・・・7月の平氏西走後も、その本拠であった伊賀・伊勢両国には平氏家人が播居しており、・・・1184年・・・3月に大内惟義が伊賀の守護に補任され、武蔵国の御家人大井実春が平家与党討伐のため伊勢に派遣される。7月7日辰の刻(午前8時頃)に平家継を大将軍とする反乱が勃発し、襲撃を受けた惟義の郎従が多数殺害された。時を同じくして伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山を切り塞いで謀反を起こし<た>・・・。(『玉葉』7月8日条)。

⇒こういう話は、公然たる出来事であり、『玉葉』といえども、ある程度、信用はできるわけだ。(太田)

 19日には近江国大原荘で鎌倉軍(官軍)と平氏残党が合戦となる。家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られた。平信兼・藤原忠清は行方をくらました。反乱はほぼ鎮圧されたものの、源氏方も老将佐々木秀義が討ち死にし、死者数百騎に及ぶ大きな損害を受けた。
 8月3日、・・・頼朝は、蜂起した平氏勢力の中の最有力人物である平信兼の捜索を義経に命じる。
 10日、信兼の3人の子息、兼衡・信衡・兼時が京の義経邸に呼び出され、斬殺、自害へ追い込まれている。義経はその2日後に信兼討伐に出撃した(『山槐記』8月10日条)。その後の合戦の経過について貴族の日記による記録はないが、『源平盛衰記』によると、伊勢国滝野の城に立てこもる100騎ほどの信兼軍が激戦の末、討ち取られたという。
 この平信兼追討の最中の8月6日、義経は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。
 8月26日、鎌倉に義経から信兼の子息3人を宿所に呼び寄せて誅した事、信兼が出羽守を解官されたとの報告が届き、9月9日、信兼以下平氏家人の京都における所有地を、義経の支配とするよう頼朝から書状が出された(『吾妻鏡』)。
 藤原忠清は翌・・・1185年・・・まで潜伏を続けて都を脅かした。一ノ谷の戦い以降、源範頼以下主な鎌倉武士は帰東しており、またこの反乱の最中の8月8日に、範頼は平氏追討のために鎌倉を出立し、9月1日に京から西海へ向かっている。平氏残党に対する都の不安は大きく、後白河院は治安維持のために翌年正月の義経の屋島出撃を引き留めており、義経の検非違使・左衛門尉任官は、このような情勢の不安による人事であった。近年の研究では、義経が平氏追討から外されたのは、後年の編纂書『吾妻鏡』が記すような無断任官による頼朝の怒りのためではなく、京都の治安維持に義経が必要であり、法皇や貴族たちの強い反対があったためと考えられている。
 なお、平信兼と平家継は源義仲打倒の立場から、義経の入京に協力した京武者たちであった。『吾妻鏡』では信兼の息子たちが事件の張本であったとするが、彼らは義経の屋敷に出向いていることから反乱と深い関わりは持っていなかったと見られる。信兼追討の背景には、独立性の強い京武者の排除、従属させようとする頼朝の方針があったと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%97%A5%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1_(%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3)

⇒私も、上掲の最後の段落の指摘に基本的に同意なのだが、頼朝の狙いは、用済み後、義経を誅殺することを前提に、義経の郎党化する可能性があったところの、平家方でも頼朝方でもない勢力を次々に潰していくことであった、と、見ている次第だ。
 この場合は、伊賀・伊勢両国のそういう勢力を潰すために、頼朝が、「伊賀国に大内惟義、伊勢国に山内首藤経俊<を>代官として配置<し>、・・・強権支配<を行わせ>」(前出)て挑発した、と。
 そのとばっちりを受けて、後白河の工作員たる藤原忠清が、可哀そうに、非業の死を遂げることになったわけだ。(太田)

 (28)藤戸の戦い(1184年12月7日)

 ふじとのたたかい。「<1184年>9月1日・・・、源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かった。海上戦に長けた平氏軍に対し、水軍を持たない追討軍はその確保が課題であった。・・・
 しかし源氏軍の水軍確保は進まず、範頼は10月に安芸国まで軍勢を進出させたが、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛<(注48)>によって兵站を絶たれ、11月中旬になると範頼から鎌倉の頼朝へ兵糧の欠乏と東国武士たちの士気の低下を訴える手紙が次々送られている。・・・

 (注48)?~1185年。「平清盛の次男である平基盛の長男。・・・藤原定家に師事し歌人としても名を上げた。都落ちの際に自身の詠草を定家に託し、その包み紙に書かれた和歌は後に新勅撰和歌集に入集している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%A1%8C%E7%9B%9B
 平基盛(1139~1162年)は、「平清盛の次男。同母兄に重盛がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%BA%E7%9B%9B

 平行盛は500余騎の兵を率いて備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう、倉敷市粒江)に城郭を構えた。九州上陸を目指す源氏軍にとって、この山陽道の平氏拠点の攻略は必須課題であり、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約500mの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向か<い、>・・・向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたという。平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%88%B8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 (29)葦屋浦の戦い(1185年2月1日)

 あしやうらのたたかい。「源範頼率いる平氏追討軍が筑前国の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町・西浜町・白浜町・幸町一帯の湾港)で、九州の平家方の豪族原田種直<(前出)>らとの合戦に勝利して九州上陸を果たした<。>・・・
 この合戦の勝利により、平氏の地盤であった長門・豊前・筑前は範頼軍に制圧され、わずかな海峡を隔てて彦島の平氏は孤立させられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%B1%8B%E6%B5%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 (30)屋島の戦い(1185年2月19日)

 「1183年・・・7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国の田口成良<(注49)>に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。・・・

 (注49)しげよし(?~?年)。「阿波国、讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、・・・1173年・・・、清盛による大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られる。・・・
 治承・寿永の乱が起こると軍兵を率いて上洛し、平重衡の南都焼討で先陣を務めた・・・。美濃源氏の挙兵で美濃国へ出陣し、蹴散らされて被害を出している。・・・1183年・・・7月の平氏の都落ち後、四国に戻って讃岐を制圧する。屋島での内裏造営を行い、四国の武士を取りまとめた。一ノ谷の戦い、屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦うが、屋島の戦いの前後、源義経率いる源氏方に伯父・田口良連、弟・桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。・・・
 斬罪<ないし>・・・火あぶりの刑<に処されたが、>・・・<これ>は焼討の罪を問われたのではないかとする推測もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8F%A3%E6%88%90%E8%89%AF

 一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。その後、義経は畿内の軍事と治安維持を担当することになる。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。この体制に基づき義経の指揮の元、梶原景時を摂津・美作、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使としその地域の武士達を統制に乗り出した他、大内惟義、山内経俊、豊島有経などが畿内の惣追捕使となった。
 一方同年6月、頼朝は朝廷に奏上して範頼を三河守、一族の源広綱を駿河守、平賀義信を武蔵守に任官させ、頼朝は知行国主となり関東知行国を獲得した。
 同年7月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させた。後鳥羽天皇である。これにより、朝廷と平氏は完全に決裂した。・・・
 梶原景時、土肥実平らが山陽道に乗り出したが、6月に入ると屋島に残る平家の勢力が再び山陽道に及び始め、その地の鎌倉御家人たちが平家に度々襲撃されるようになる・・・。そのため西国への大規模な出兵が必要となった。その山陽道遠征軍の指揮をとるのは当初義経が予定されていたが、7月に入ると今度は畿内で三日平氏の乱が勃発し、その畿内の反乱を鎮圧するのに義経は専念せざるを得なくなる。そのため頼朝は山陽道への出兵の総指揮者を範頼に変更した。同年8月7日、範頼率いる和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎が鎌倉を出立した。

⇒もはや、平家追討のための総大将に誰が最適任かなど、頼朝にとってはどうでもいいのであって、とにかく、(そうなることが必至であると見切っていたわけだが、)義経を後白河に重用させ、その足をすくって義経を誅殺することが最優先だった、ということだ。(太田)

 三日平氏の乱は鎌倉方御家人佐々木秀義が戦死するなどの激しいものであり、乱そのものが鎮圧された後も、首謀者の一人である藤原忠清などの行方がわからず都は軍事上の不安を抱えている状態だった。そのころ都の治安維持に義経が必要不可欠であると判断した後白河法皇は8月[6日、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C ]
 8月27日に範頼は入京して追討使に任じられ、9月1日に3万余騎をもって、京を発し九州へ向かった。
 山陽道を進む範頼軍は10月には安芸国に達し、12月には備中国藤戸の戦いで平行盛の軍を撃破している。だが、範頼の遠征軍は長く伸びた戦線を平氏軍に脅かされ兵糧の調達に窮し、関門海峡を知盛に押さえられており、船もないため九州にも渡れず進撃が止まってしまった。いったんは長門国まで進出するが、兵糧が尽きて周防国へ後退している。範頼は窮状を訴える書状を次々と鎌倉に送っている。侍所別当の和田義盛ですら鎌倉へ密に帰ろうとする事態になり、範頼軍の将兵の間では厭戦気分が広まり全軍崩壊の危機に陥った。思わしくない戦況に鎌倉の頼朝は焦燥した。

⇒ただ、範頼がこんなに苦戦するとは頼朝にとっても想定外だったに違いない。(太田)

 一方、京に留まっていた義経は後白河法皇に引き立てられ、9月には従五位下に昇り、10月には昇殿を許されている。義経は後白河法皇との結びつきを強めた。
 ・・・1185年・・・1月に範頼は豊後国と周防国の豪族から兵糧と兵船を調達して、ようやく豊後国へ渡ることに成功。2月1日、範頼は筑前国芦屋浦で平氏方の原田種直<(注50)>を破る。

 (注50)1140~1213年。「原田氏は天慶の乱(藤原純友の乱)鎮圧に活躍した大蔵春実の子孫、大蔵氏の嫡流。代々大宰府の現地任用官最高位の大宰大監・少監(大宰府の第三等官・管内の軍事警察を管轄)を世襲する。・・・
 保元の乱以降、大宰大弐(大宰府の第二等官)に続けて任官した平氏(平清盛・平頼盛)と私的主従関係を結ぶ。・・・妻は平重盛の養女(重盛の叔父・平家盛の娘)。・・・大宰府における平氏政権、日宋貿易の代行者となる。・・・
 治承3年(1179年)11月の平氏による政変では、郎党を率い御所の警護を行う。治承5年(1181年)2月、九州における反平氏の鎮西反乱で肥後の菊池隆直らと合戦する。また、寿永2年(1183年)8月の平氏都落ちの際には私邸を安徳天皇の仮皇居にしたと伝えられる・・・。
 ・・・1185年・・・2月、源範頼軍との葦屋浦の戦いにより、弟・敦種が討ち死にした。同年2月の屋島の戦い、3月の壇ノ浦の戦いに敗北し、平家没官領として領地を没収された・・・。関東(一説には扇ヶ谷)に幽閉されるも・・・1190年・・・に赦免され、御家人として筑前国怡土庄に領地を与えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%A8%AE%E7%9B%B4

 範頼は背後から彦島の知盛を衝くことを企図するが兵船が不足して実行できなかった。
 この苦境を知った義経は後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得た。
 2月、義経は摂津国の水軍渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信<(注51)>の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めた。

 (注51)かわのみちのぶ(1156~1222年)。「1180年・・・8月に源頼朝が反平氏の兵を挙げると、それに呼応し・・・1181年・・・に父・通清と共に本拠の伊予国風早郡高縄山城(現在の愛媛県松山市)に拠って平維盛の目代を追放した。しかし伊予内外の平氏方の総攻撃を受け、通清は同城で討ち死にした。
 その後、通信は高縄半島でゲリラ戦を展開し、進入していた備後国の沼賀西寂を倒し、阿波国の田口成直を喜多郡比志城(現在の大洲市)で撃破して主導権を握った。・・・1185年・・・2月、源義経が平氏追討のため四国へ下ってくると、通信は軍船を率いて屋島へ赴き、不在中に田口教能の襲撃を受けるが、志度合戦で義経に軍船を献上して源氏方に加わった。壇ノ浦の戦いにも参加し、通信の軍船が中堅となって活躍した。・・・
 一遍<は>・・・孫」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E4%BF%A1
 「河野氏(かわのし、こうのし)は、伊予国(愛媛県)の有力豪族で、越智氏の流れをくむとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F

 出航直前の2月16日に後白河法皇の使者高階泰経が渡辺津に来て、義経に「大将が先陣となることはない」と京へ戻るよう法皇の意を伝えている。これに対して義経は「自分には存念があり、先陣となって討ち死にする覚悟があります。」と決意を述べている。この頃まだ都の治安維持には義経が必要不可欠とみられていたからである。 しかし義経はその制止を振り切って出陣に踏み切ることになる。 このころ範頼が九州から引き上げるという話がありこのことが平家を勢いづかせることが懸念されていた。・・・
 <そして、義経は、暴風雨をついて、>わずか5艘150騎<の兵力で渡海し、阿波国の>・・・勝浦に上陸した義経は在地の武士近藤親家を味方につけ、<讃岐国の>屋島の平氏は、田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、1000騎程しか残って<いなかったこともあり、義経は有利に戦いを進め、>・・・やがて、渡邊津から出航した梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫<ると>、平氏は彦島へ退いた。
 屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失った。既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒義経のこの働きぶりを見て、頼朝は、義経を誅殺する機会を早期に見つけなければならない、と焦燥感にかられたに違いない。(太田)

 (31)壇ノ浦の戦い(1185年3月24日)

 「従来はこの出陣は、『吾妻鏡』・・・の記載に基づき、頼朝の命令によって行われたとみなされていた。しかし、下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。
 『吾妻鏡』元暦<(1185)>2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は、性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。
 吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも、義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。・・・

⇒1183年8月6日に後白河法皇が義経を左衛門少尉、検非違使尉に任じた時に、頼朝はこれを問題視するどころか、「9月、・・・頼朝<が>周旋<して>河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎え」させている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C 前掲
 その同じ「9月に・・・従五位下に昇り、10月には昇殿を許され」(前出)た時にも、問題視していない。
 にもかかわらず、義経が平家を殲滅して1185年4月24日に京に凱旋し、その後、「かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され」(前掲)たことを咎めたのは言いがかり以外の何物でもない。
 その頃、「平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶った」(前掲)ことは問題視されてしかるべきだとの説に関しても、私は、後白河の「命令」に従ったものであると見ており、時忠が神鏡を守った功績は、義経・・義経自身、神剣は失われたが鏡璽は取り戻した(
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%A2%E9%9B%B2%E5%89%A3
及び前掲)・・のみならず、頼朝としても大いに理解できたはずだから、これを咎めることもまた困難だったはずだ。
 それどころか、前に示唆したように、頼朝は、平時忠が後白河の工作員であったことを、少なくともこの頃までには知っていた可能性が高いのだから、何をかいわんや、だ。
 義経は、頼朝によって、結果として「狡兎死して走狗烹らる」羽目になったのではなく、最初から「烹らる」ことが決まっていたのだから・・。
 なお、義経は頼朝には無断で出兵した可能性が高いわけだが、頼朝が、後になってもこのことは問題にしなかった・・このことを言いがかりに使わなかった・・のは、政府側の武士は、政府が危殆に瀕した時には命を待たずに兵力を用いて対処してよいとの慣行が、1019年の刀伊の入寇の時に確立していた(コラム#省略)からだろう。(太田)

 彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』<)、>・・・平氏軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘<・・『平家物語』の誤記らしい。すぐ下の囲み記事参照(太田)・・>、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。・・・
 菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』(角川選書、2005年)で、この合戦について以下の説を述べている。
 ・・・1185年・・・2月、屋島の戦いに勝利した義経は、1ヶ月かけて軍備を整えつつ河野通信や船所正利などの水軍勢力を味方に引き入れる工作も進め、徐々に瀬戸内の制海権を握っていった。一方で平家の残る拠点は彦島のみであり、兵糧や兵器の補充もままならない状況であった。また、関門海峡を越えて豊後へと渡った源範頼軍によって九州への退路も塞がれていた。
 正午頃、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。序盤の平家方は鎌倉方が静まり返るほど激しく矢を射かけて互角以上に戦っていたが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなり、まずは防御装備の貧弱な水手・梶取たちから犠牲となっていった。この結果、平家方の船は身動きが取れなくなり、平家方不利と見た諸将の間では鎌倉方への投降ないし寝返りが相次いだ。
 敗戦を覚悟した平家一門は老若男女を問わず、また保護していた天皇や皇族ともども、次々に海へと身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海の制海権奪取という水陸両面にわたる包囲・孤立化の完成にともなう、悲劇的にして必然的な結末であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E3%83%8E%E6%B5%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「周防の船所<正>利(ふなどころまさとし)(船奉行)が24艘の船を供出してい<る>。・・・<また、>平家側だった二大勢力・・周防の大内盛房、長門の厚東武光・・<は、源氏側に>消極的支援を<し>た」
https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/010/01.html

⇒壇ノ浦の戦いで、義経が平家よりも多くの水軍を結集することができたのは、伊予水軍や船所正利の水軍を味方に引き入れた義経自身の働きもさることながら、屋島の戦いに引き続き、摂津源氏と密接な関係を持つ渡辺水軍が義経に協力し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E7%B6%B1
かつまた、湛増の熊野水軍もまた、義経に協力したおかげ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%B0%B4%E8%BB%8D
であって、そのどちらにも、後白河の積極的配慮があったと見てよかろう。(太田)

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[松浦党]

 「嵯峨源氏の流れをくむ松浦氏を惣領とし、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津の滝口武者の一族にして水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とされる。祖の松浦久(渡辺久、源久)は、渡辺綱(源綱)の子の奈古屋授(渡辺授、源授)の孫とされ、延久元年(1069年)松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり、松浦郡に所領を持ち松浦の苗字を名乗る。
 [そもそも御厨とは、古代・中世期において朝廷に対する供膳・供祭などの魚介類を献納する贄所であった。]
 ところが、源久が肥前に下向されたとされる延久元年より前に、嵯峨源氏の系統と思われる一字名を名乗る者が、この地方に関係ある者として存在していたことを示す史料が存在している。
 嵯峨天皇の皇子源定の孫に、肥前守源浮がおり、藤原実資の日記『小右記』の長和5年(1016年)の条の記述からは、源聞という人物が肥前守に任じられ、実資の所に御礼言上のため訪れていたことが分かる。
 彼らは遥任国司であったと思われるが、この地にその子孫が定着したことは考えられる。
 また寛仁元年(1019年)の刀伊の入寇の防戦に当たった指揮者に、前肥前介源知という人物が存在し、多くの刀伊の賊徒を射殺し、一人を生け捕りにした。
 このように延久元年以前においても、松浦一族の先祖と思われる者が、国司や在庁官人として活動していた。
 一族は、それぞれの拠点地の地名を苗字とし、一族の結合体を松浦党という。党的結合体であるから中心となる氏の強い統制によるものではなく、同盟的なものであったといえる。
 その中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となった。・・・
 松浦党には、嵯峨源氏渡辺党松浦氏系のものが大半だが、一部に奥州安倍氏の生き残りで、源義家に敗れ宗像の筑前大島に流された安倍宗任の子孫の安倍宗任系のものがある。・・・
 本流の摂津の渡辺党は摂津源氏の源頼政一族の配下にあったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、源平合戦においては当初、平家方の水軍であった。
 しかし、壇ノ浦の戦いでは源家方につき、源家方の勝利に大きく貢献したことから、その功により、鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられる。
 しかしながら同じ環境にあった秋月氏<(注52)>や蒲池氏<(注53)>、菊池氏<(注54)などと同じく、元平家家人の九州御家人を信頼していない源頼朝が送り込んだ少弐氏・島津氏・大友氏などの「下り衆」の下に置かれる。

 (注52)「秋月氏の祖は、平安時代に伊予で反乱<(939~941年)>を起こした藤原純友を討伐した大蔵春実である。この功績により、春実は九州に所領を与えられ、大宰府の官人となって筑前国に土着した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%B0%8F
 (注53)不詳。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E6%B0%8F
 (注54)「刀伊の入寇で戦功のあった大宰権帥藤原隆家の下で大宰少弐であ<った>・・・藤原政則と<その子)>と則隆の代(延久2年(1070年)頃)に菊池周辺に土着した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%94%BF%E5%89%87

 特に13世紀の元寇の時には佐志氏や山代氏をはじめ活躍したことで知られ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matura.html ([]内)
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[池禅尼や平頼盛や平重盛や大江広元は後白河の工作員ではなかったのか?]

○池禅尼(1104?~1164?年)

 池禅尼への依頼を後白河が行っておれば、彼女は後白河の工作員ということになるだろうが、そんなことをすれば、聖徳太子コンセンサス・桓武天皇構想に朧気ながら気付いていたと後白河らがふんでいた彼女が、このコンセンサス/構想に基づいて、後白河が、将来、頼朝を武家総棟梁に指名しようとしていることを確信するに至る恐れがあり、仮に彼女がそう確信すれば、そのことを、頼盛、ひいては清盛、に告げない保証はなく、告げられた場合、清盛は躊躇なく頼朝を殺害するであろう以上、後白河は、上西門院が、勝手に、たまたま同院庁蔵人であったところの頼朝の助命を禅尼に頼んだ、という形を取ったのではないか、と想像される。
 よって、禅尼を、後白河の工作員とは言い難い。

○平頼盛(1133~1186年)

 「1159年・・・に起こった平治の乱<当時、>頼盛は27歳、重盛は22歳<だったが>、「平氏ガ方ニハ左衛門佐重盛・三河守頼盛、コノ二人コソ大将軍ノ誠ニタタカイハシタリケルハアリケレ」とあるように、平氏軍の主力を率いて戦場に臨んだ。『平治物語』では重盛の活躍が華々しく記されているが、頼盛も父から譲り受けた名刀「抜丸」で奮戦するなど、合戦で大きな役割を果たしていたことがうかがえる。・・・
 1180年・・・11月に・・・富士川の戦いで追討軍が大敗したという報告が福原に届<くと、清盛の命で、>頼盛と教盛が新たに東国追討使となっている。・・・
 1183年・・・7月24日、宗盛は都に迫った義仲軍を防ぐために、頼盛に山科方面への出兵を要請する。頼盛は「弓箭ノミチハステ」ていることを理由に拒絶したが、宗盛に「セメフセラレ」てやむを得ず山科に向かった。
 25日未明、後白河院は比叡山に脱出する。これを知った宗盛は、・・・午前8時から正午にかけて・・・六波羅に火を放って都を退去した。ところが宗盛は、山科防衛に出動していた頼盛に都落ちを知らせていなかった。頼盛は都落ちを聞くと、子の為盛を宗盛のもとに差し向けて事情を問い詰めるが、宗盛は動揺するばかりで明確な返答はなかった。宗盛にすれば後白河院に逃げられたことで混乱の極みにあり、単に連絡を忘れただけだったのかもしれないが、頼盛にしてみれば前線に置き去りにされたようなものだった。
 頼盛は都に戻るが、すでに池殿は全焼しており後白河院に保護を求めた。この時、[後白河法皇の近臣を勤めてい<た>・・・重盛の次男<の>]資盛も後白河院を頼っている。
 後白河院は頼盛に・・・八条院のもとに身を隠すことを指示した。資盛は拝謁を許されず、26日早朝に都を離れた・・・。・・・
 後白河院が義仲の頭越しに<、恐らく、頼盛が仲介したところの、>寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。都は極めて不穏な情勢となり、10月20日、頼盛<は、鎌倉に亡命した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%87%E7%9B%9B ([]内)

⇒1159年の平治の乱の時点までは、清盛の弟の頼盛は、清盛の嫡子の重盛と、清盛の継承者の地位を競い合う関係にあり、この2人はこの乱でどちらも大活躍をしており、「1167年・・・5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下され<たこと>により、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任されることになり、<ようやく、>清盛の平氏棟梁の地位は重盛に継承されることになった」ものの、1179年に重盛が亡くなってしまい、重盛の弟の宗盛が清盛の後継と目されるようになり、宗盛としては、重盛の小松家の動向が気になるので、頼盛と提携し、頼盛を盛り立てなければならなくなり、「1183年・・・2月、宗盛の嫡子・清宗と頼盛の娘の婚姻<を>成立<させ>ている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B 前掲
 こういった経緯を踏まえれば、リスクが大き過ぎて・・つまり、清盛がなくなっていなければ、頼盛は源氏と戦い続けた(戦い続けさせられた)可能性が高く、また、清盛死後、仮に宗盛が頓死するようなことがあれば、平家の総帥にならざるをえなくなり、その場合、清盛の遺言に逆らって源氏との戦いを止めるわけにはいかなくなった可能性が高く・・後白河が、こんな平家の重鎮に工作員にならないかと働きかけをするようなことは考えられない、と思う。
 私は、(恐らくはそれが惨めな滅亡への道であると判断して、)平家の都落ちに行動を共にせず、自分を頼ってきた頼盛に、後白河は、(頼盛に恩義に感じているはずの)頼朝との仲介を、この時点で初めて命じた、と、想像している次第だ。
 頼盛と一心同体に近い存在だったところの、平宗清父子・・頼盛の郎党・・の同時期の行動を見よ。↓

 「平宗清<は、>・・・官位<は、>正六位上右衛門尉、左衛門尉<。>・・・
 平頼盛の家人であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。・・・1160年・・・2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという。・・・後白河院の北面武士となって・・・
 治承・寿永の乱で平家が都落ちした後の・・・1184年・・・6月、頼朝は宗清を恩人として頼盛と共に鎌倉へ招いたが、これを武士の恥であるとして断り、平家一門のいる屋島へ向かった。・・・
 子の家清は出家して<やはり>都落ちには同行<しなかったが>、・・・1184年・・・7月に本拠伊勢国で三日平氏の乱を起こ<し>、鎌倉方に討ち取られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E6%B8%85

 頼盛が、この2人と同じような行動を取った可能性だってあったことを思え。↓

 以下、参考まで。↓

 「『愚管抄』には北条時政の後妻である牧の方の父、大舎人允・宗親は頼盛の長年の家人であり、頼盛から駿河国・大岡牧の管理を任されていたと記されている。『尊卑分脈』には宗子の弟に宗親という名が見られ、両者は同一人物の可能性がある。したがって時政による頼朝の監視・保護は、宗子<(池禅尼)>・頼盛の意向によるという・・・杉橋隆夫<の>・・・指摘もある・・・。ただし時政と牧の方の婚姻時期を明確に記す史料はなく、平治の乱の時点で宗子・頼盛と時政がつながっていたかは定かでない。牧の方が乱の前年(1158年)、時政に15歳で嫁いだと仮定すると、・・・1189年・・・生まれの<子の>政範は牧の方が46歳で産んだことになり、やや無理が生じる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B 前掲
 北条政範(1189~1204年)は、「母が京の出身と言うこともあり、3代将軍源実朝が都の貴族である坊門信清の娘(信子)を正室に迎える際の使者として上洛した。しかし京で病にかかり、16歳で急死した。
 若年での・・・従五位下<という>・・・官位の高さなどから見て、時政の嫡男は異母兄の北条義時ではなく、貴族出身である牧の方を母とする政範であったと考えられる。
 時政・牧の方鍾愛の子であり、牧の方所生唯一の男子であった政範の死は、畠山重忠の乱、牧氏事件と続く鎌倉幕府、北条氏一族内紛のきっかけとなっている。」
https://www.wikiwand.com/ja/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E7%AF%84

○平重盛(1138~1179年)

 「政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった」とされるところの平重盛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B
はどうか。

                                    桓武天皇 
                                      |
                  (8代)
         紫式部-大弐三位(藤原賢子)    ↓
        -高階成忠※     |-高階為家-娘 白河?-平清盛
 天武天皇-(8代)-高階良臣-|   | |      |-平重盛
                -高階敏忠-高階業遠-高階成章   |-高階基章-娘
    醍醐天皇-有明親王-源守清-源高雅-源行任-源高房-源家実
 
※「従三位に叙せられ、高階氏として初めて公卿に列した。
 ・・・990年・・・の貴子と摂政・藤原道隆との間の娘である藤原定子が一条天皇の中宮に冊立されたことから、翌・・・991年・・・7月に従二位に叙せられ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E6%88%90%E5%BF%A0

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E5%9F%BA%E7%AB%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%9A%8E%E7%82%BA%E5%AE%B6 等

 確かに、重盛は、父(清盛)方で見れば、天皇から10代目だが、母方から見れば、9代目であり、母方の祖先である、醍醐天皇の、同じく9代目の後白河
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
の方、というか、天皇家の方、に、平家よりも、親い思いを抱いていた可能性がある。
 それに、父の清盛自身、後白河の曽祖父の白河の子である可能性が高かったところ、だからこそ(?)、その清盛が後白河を蔑ろにする姿に、重盛は不快な思いを抱いていたのではなかろうか。
 (なお、紫式部は別格として、その娘の大弐三位(だいにのさんみ)も能某三十六歌仙の一人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BC%90%E4%B8%89%E4%BD%8D
だというのに、重盛を含め、彼女から重盛に至る4代に、いや、それどころか、重盛の子供達(典拠省略)にも文学で知られた人物が皆無なのはどういうわけだろう?
 都落ちの際に俊成に歌を託した平忠度は清盛の異母弟で紫式部の血はひいていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%BA%A6 )
しかし、それだけのことであり、重盛の事績の中に、彼が後白河の工作員であった形跡は見いだせない。
そもそも、1177年の鹿ケ谷の「陰謀」の多田行綱の密告による「露見」は、私は、後白河の差し金だと見ている(コラム#11606)ところ、このことによって、失脚し殺害された藤原成親と重盛が濃厚な姻戚関係にあったため、1167年に「清盛の後継者としての地位を名実ともに確立<するに至ってい>た」重盛もまた、それから10年目にして早くも事実上失脚してしまう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B 前掲
が、そうなることも見通した上で、後白河は、工作員0号の多田行綱を使ってこの「陰謀」を「露見」させたに違いない以上、重盛は後白河の工作員ではなかった、ということにならざるをえまい。

○中原親能(1143~1209年)・大江広元(1148~1225年)兄弟

 この兄弟の評価はむつかしい。
 私は、前に(コラム#11424で)この兄弟が藤原北家出身であるとの説を支持し、1180年の頼朝挙兵後、摂関家が、兄の方を身分を隠した上で、密かに頼朝と接触させた上で、それが露見しそうになった時点で、兄を頼朝の下に走らせ、その兄は、1183年の義経上洛の際に行動を共にし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%83%BD
その折、弟も(やはり身分を隠して)鎌倉に下った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83
わけだが、摂関家は、弟に、守護・地頭設置の形での、朝廷から頼朝への権力移譲を行う案も持たせ、それが、義経追討令が発せられた1185年に、それを契機として実現した、と、私が見ていることはご承知の通りだ。
 兄の子孫は、承久の乱の時に京方についた者はおらず、その子孫の養子系も含め、鎌倉幕府に厚く処遇され続けたようである
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakahara_kz.html
し、弟は、承久の乱の時に鎌倉方の重鎮として行動し、男の子供達も、当時、京にいた長男の親広(ちかひろ)だけは京方についたが、出家していなかった残りの3人の男子は全て鎌倉方につき、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%BA%83%E5%85%83
親広の嫡男佐房(すけふさ)までもが鎌倉方についている上、この親広がなんと天寿を全うしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E8%A6%AA%E5%BA%83
ことからも、広元が出身の藤原北家(の嫡流の摂関家)に最低限の義理立てをしただけで、大江一族が完全に鎌倉方の人間になり切っていたことが分かる。
 よって、この兄弟が後白河(ないし摂関家)の工作員であった可能性は低い、と思う。
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[守護地頭]

○守護

 「平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。・・・
 頼朝の勢力圏である関東南部には早期に設置されていたと見られる。その後、頼朝政権の勢力が西上するに従って、守護の設置は西国へと拡大していった。当時の守護は惣追捕使<(注55)>(そうついぶし)とも呼ばれ、国内の兵粮徴発や兵士動員などを主な任務としていた。

 (注55)「追捕使<が>・・・最初に設置されたのは932年・・・で、当初南海道で頻繁に出没していた海賊・凶賊を掃討する目的で設置された。
 「追捕」は「追い捕らえる」の意で、元々軍事的役割を含んでいなかったが、海賊、反乱などを鎮圧するという目的から、実際に戦闘に当たることが多かった。
 追捕使になったものとしては、承平天慶の乱で藤原純友の乱の鎮圧に当たった小野好古<・・884~968年。「公卿・歌人。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子。弟に三蹟の一人小野道風がいる。・・・天慶2年(939年)の藤原純友の乱鎮圧の追捕山陽南海両道凶賊使長官として九州へ下向。・・・大宰府を襲撃した藤原純友軍を博多津にて撃退する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A5%BD%E5%8F%A4
・・>が有名。
 その後、諸国に常設されるようになると、国司を追捕使に兼任させたり、地方の豪族を任命したケースが多かった。
 12世紀末ごろになると、惣追捕使(総追捕使)として一国の警察・軍事的役割を担う官職があらわれ、追捕使の職務は引き継がれた。
 さらにその後、1190年に源頼朝が日本国惣追捕使に任命され、諸国の惣追捕使の任免権が鎌倉殿に移り、守護と名を変え、後に発展していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E6%8D%95%E4%BD%BF
 (参考)「押領使<は、桓武天皇の時の>・・・795年・・・、防人の移動に携わっていた任務が文献に初めて登場している。このときの職務は兵を率いたのみで、実際の戦闘には服役していないが、やがて押領使の職務内容は、移動させる兵の戦闘等の指揮官へと変化していく。
 押領使は、基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が兼任し、主として現代でいう地方警察のような一国内の治安の維持にあたった。中には、一国に限らず一郡を兼務していた者や、一時は東海道・東山道といった道という広範囲に渡っての軍事を担当した者もある。
 いずれにしても、地元密着型の職務であることから、押領使には土地の豪族を任命することが主流となり、彼らが現地において所有する私的武力がその軍事力の中心となった。
 下野国押領使として天慶の乱にて平将門を滅ぼした藤原秀郷などが有名。
 なお荘園にも押領使は存在し、荘園内の治安の維持にあたったと思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E9%A0%98%E4%BD%BF
 ちなみに、藤原秀郷(891?~958/991年)は、「藤原北家魚名流が通説とされる。・・・もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出し・・・た。・・・
 天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)である平貞盛・藤原為憲と連合し、翌・・・940年・・・2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。・・・複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7
 また、藤原豊沢(?~887年)は、「政権中央での権力獲得を目指さなかった。父の藤成[・・魚名の子・・]が任期後に去った後も下野に残り、・・・地方豪族としての権力を築いた。・・・
 下野少掾に任ぜられて押領使となり、その職務は代々太田氏や小山氏に至る子孫にまで受け継がれた。
 男子:藤原村雄 – 藤原秀郷の父・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%B1%8A%E6%B2%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E6%88%90 ([]内)
 「掾(じょう)とは、日本の律令制下の四等官制において、国司の第三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。・・・最も低い位置付けの下国には掾が置かれなかった。逆に、最も高い位置づけの大国には大掾・少掾が設置された。このため掾が設けられたのは上国・中国となる。ただし実際の運用上は人員の増減があり、上国である下野国に大掾と少掾が配置されたり、下国である飛騨国に掾が置かれたりした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%BE

 梶原景時と土肥実平は播磨・美作・備前・備中・備後5ヶ国の惣追捕使に補任され・・・、源範頼軍と共に平氏追討に参加した。1185年・・・に平氏が滅亡して追討が終了すると、頼朝は・・・6月<に>・・・後白河法皇に諸国惣追捕使の停止を奏上している・・・。
 同年11月、北条時政の奏請により、<今度は、>源義経・源行家の追討を目的として五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に国地頭(くにじとう)を設置することが勅許された(文治の勅許)。国地頭には荘園・国衙領からの段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限が与えられたが、荘園領主の反発を受けて翌年3月には停止され、時政は軍事・検断関係を職務とする惣追捕使の地位のみ保持した・・・。やがて行家や義経与党が次々に討たれたことから、6月には畿内近国における惣追捕使が停止された・・・。朝廷は惣追捕使について「世間落居せざるの間」・・・と留保条件を付けており、この時期の守護は戦時や緊急時における臨時の軍事指揮官で、平時に戻れば停止されるのが当然という認識があったと推察される。
 頼朝の諸国守護権が公式に認められた1191年・・・3月22日の建久新制により恒久的な制度に切り替わり、諸国ごとに設置する職は守護、荘園・国衙領に設置する職は地頭として区別され、鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなった。
 当初の頼朝政権の実質的支配が及んだ地域は日本のほぼ東半分に限定されており、畿内以西の地域では後鳥羽上皇を中心とした朝廷や寺社の勢力が強く、後鳥羽上皇の命で守護職が停止されたり、大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことである。
 その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永元年)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三箇条<(だいぼんさんかじょう)>の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。
 しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。・・・
 <この>室町期に<おいて>、守護に半済や使節遵行<(注56)>の権利が付与され、守護の経済的権能が一気に拡大することとなった。・・・

 (注56)「不動産をめぐる訴訟(所領相論)に対し幕府が発した裁定を執行するための現地手続きをいう。・・・
 これにより守護は、幕府の裁定を執行するため、使節を現地へ派遣し所領知行権の譲渡やそれに対する妨害排除を実施することができるようになった。以後、守護は国内の所領紛争へ介入する権限を獲得することとなり、次第に国内の荘園・公領への支配を強めていき、また国内の地頭・国人・名主らを被官に組み込むなど自らの影響下へ置いていった。そして、室町期守護は守護大名という立場へと成長していき、国内に守護領国制と呼ばれる支配体制を布いていった。
 なお、使節遵行が始まった鎌倉後期以降、使節遵行に係る費用は相論当事者である荘園領主の負担とされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E7%AF%80%E9%81%B5%E8%A1%8C

 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7

○地頭

 「鎌倉幕府の成立時期にはいくつかの説があるが、守護地頭の任免権は、幕府に託された地方の警察権の行使や、御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものであり、この申請を認めた<1185年11月28日の>文治の勅許は<1183年10月14(?)日の>寿永二年十月宣旨と並んで、鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。
 一方、九条兼実の日記『玉葉』11月28日条には「守護地頭」の語句がなく、『吾妻鏡』11月28日条の「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代後期の史料に多く見える文言であることから、石母田正は鎌倉時代後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘し、『吾妻鏡』文治2年3月1日条、2日条の「七ヶ国地頭」の記述から「一国地頭職」の概念を提唱した(「鎌倉幕府一国地頭職の成立」『中世の法と国家』東京大学出版会所収、1960年)。この石母田の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて多くの議論が展開され、現在ではこの時に設置されたのは鎌倉時代に一般的だった大犯三ヶ条を職務とする守護、荘園・公領に設置された地頭ではなく、段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限を持つ「国地頭」であり、守護の前段階とする説が有力となっている(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』〈講談社選書メチエ〉講談社、1996年)。

⇒「1185年・・・<11>月<に>義経<が>没落<すると、>・・・頼朝は院の独裁を掣肘するために院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、兼実への内覧宣下を柱とする廟堂改革要求を突きつける。・・・の要求に対して後白河院が近衛基通擁護の姿勢を取ったため、一時は摂政・内覧が並立するなど紆余曲折があったが、・・・1186年・・・3月12日、兼実はようやく摂政・氏長者を宣下された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
というのだから、1185年11月28日の時点では、後白河/近衛基通が九条兼実に頼朝のスパイとしての嫌疑をかけて、兼実に対する緘口令を敷いていた可能性が大であり、石母田らの「有力」説は必ずしも成り立たないと思う。(太田)

 頼朝傘下の地頭の公認については当然ながら荘園領主・国司からの反発があり、地頭の設置範囲は平家没官領<(注57)>(平氏の旧所領)・謀叛人所領に限定された。

 (注57)へいけもっかんりょう。「平家一門を本家職・領家職・預所職に持つ荘園を指すが、それ以外にも平家の家人や治承の乱において平家方について平家の与党人あるいは謀叛人と認定された者が荘園や国衙領に持っていた下司職や郷司職などの所職を含む場合がある。・・・
 ただし、・・・没官領が全て頼朝のものになった訳ではない。例えば、頼朝は自分の命の恩人である池禅尼の子孫、すなわち平清盛の異母弟平頼盛の所領34か所は当人(池氏)に返却され、自分の弟である義経に24か所、妹である坊門姫(一条能保室)に20か所を分け与えている(ただし義経に与えた分は、義経が頼朝と対立するようになると再び没収された)。京都にあった平時忠の邸宅は一旦は没収されて平家没官領となったが、頼朝は時忠の家族をそのまま居住させている。・・・<かつ、>平家没官領の中から摂津国真井荘および島屋荘を、平清盛の娘で高倉天皇の中宮であった平徳子(建礼門院)に与えた<。>・・・また、頼朝から寺社に寄進されたものもあった。さらに、・・・例えば・・・平安京内の旧平家一門の宅地など<のように、>・・・別の経緯で頼朝が獲得した没官<財産>もあったとみられている。頼朝は没官領を自らの直轄領(関東御領)として実際の経営は御家人を地頭・預所として派遣して行わせることで自らの政権(鎌倉幕府)を政治的・財政的に安定させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E6%B2%A1%E5%AE%98%E9%A0%98

⇒同母妹にまで没官領を「配給」する以上、弟達には一切「配給」しない、というわけにはいかなかったのだろうが、当時存命だった弟・・いずれも異母弟・・に、範頼、阿野全成、義経がいた中で、軍功が一番大きかったとはいえ、一番年下の義経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D
だけを選んだのは、早晩「配給」したものを取り上げる「予定」だったとしても、義経がこの時点では頼朝東国政権のナンバーツーだったからこそだろう。(太田)

 しかし、後白河法皇が・・・1192年・・・に崩御すると朝廷の抵抗は弱まり、地頭の設置範囲は次第に広がっていった。
 1221年の承久の乱での勝利により、鎌倉幕府は朝廷側の所領約3000箇所を没収した。これらの土地は西日本に所在しており、新しい地頭として多くの御家人が西日本の没収領へ移住していった。これを新補地頭(しんぽじとう)といい、それ以前の地頭は本補地頭(ほんぽじとう)と呼ばれた。しかし、この2つの区別は曖昧になっていった。また、新補地頭の給分を定めた規定を新補率法(しんぽりっぽう)といい、その内容は、
田畠11町当たり1町を、年貢を荘園領主・国司へ納入する必要のない地頭給田畠とする。
田畠1段当たり5升の米(加徴米)の徴収権を新補地頭へ与える。
山野河海の収益は、地頭と荘園領主・国司が折半する。
地頭の検断により逮捕された犯人の財産の3分の1が、地頭へ与えられる。
というものだった。
 ただし、土地の慣習・先例がある場合は、新補率法に優先した。なお、後に新補地頭を兼ねた本補地頭が、本補地頭としての給分も新補率法に合わせようとする両様兼帯の問題も生じた。
 新補地頭として西日本に所領を獲得し、一族郎党が移住した御家人には、安芸の毛利氏・熊谷氏・吉川氏、阿波の小笠原氏、肥前・薩摩の千葉氏、薩摩の渋谷氏などがある。かなり大規模な移住だったため、「日本史上の民族大移動」と評する論者もいる。
 鎌倉期の守護は、軍事・警察権の行使が任務であり、経済的権能は付与されていなかった。そのため、在地の地頭が積極的に荘園・国衙領へ侵出することができていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD
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 (32)奥州合戦(1189年7~9月)

 「1186年・・・4月、頼朝はそれまで藤原氏が直接行っていた京都朝廷への貢馬・献金を、鎌倉経由で行うよう要求し、秀衡もそれに従った。
 ・・・1188年・・・2月、頼朝と対立して逃亡していた源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏していることが発覚した・・・。秀衡は前年の10月に死去していたが、義経と子息の泰衡、国衡の三人に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し三人一味の結束をもって頼朝の攻撃に備えるように遺言したという・・・。頼朝は「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明し、藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨を下す・・・。泰衡は遺命に従いこれを拒否し、業を煮やした頼朝は、・・・1189年・・・になると泰衡追討宣旨の発給を朝廷に奏上している。・・・
 2月22日、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。2月9日に基成・泰衡から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わず、2月、3月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を要請している。閏4月に院で泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。

⇒義経がいなくなっても、時の治天の君が、いつでも、第二の義経を見つけて、奥州で、その者を保護し盛り立てることができるところの、「藤原基成/藤原泰衡」体制を、何が何でも崩壊させなければならない、と、頼朝は眦を決していたのだろう。(太田)

 ・・・1189年・・・閏4月30日、鎌倉方の圧迫に屈した泰衡は平泉衣川館の義経を襲撃して自害に追い込んだ。後白河法皇はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて静謐せしむるか。今においては弓箭をふくろにすべし」・・・と頼朝に伝えた。6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、26日に泰衡は異母弟(三弟)・忠衡を誅殺している・・・。・・・泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。・・・」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E5%90%88%E6%88%A6

◦阿津賀志山の戦い(1189年8月8日)

 あつかしやまのたたかい。「現福島県伊達郡国見町辺り・・・
 この戦いにより奥州藤原氏は大打撃を受けて、奥州合戦の大勢は決した。以後、奥州藤原氏に大規模な会戦を行う余力はなくなり、散発的抵抗は続くものの、多賀城、多加波々城を防衛できず、22日には本拠地の平泉が陥落して滅亡することになる。そして泰衡は9月3日に数代の郎党である河田次郎の裏切りで殺害され、奥州藤原氏は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B4%A5%E8%B3%80%E5%BF%97%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

⇒「<9月>9日、京都の一条能保から7月19日付の泰衡追討宣旨が陣岡の頼朝の下へ届いた。・・・
 この合戦で源頼朝は全国的な動員(南九州の薩摩・かつて平氏の基盤であった伊勢や安芸など)、かつて平氏・源義仲・源義経に従っていた者たち の動員をも行っている。・・・
 不参の御家人に対しては所領没収の厳しい処罰を行ったこと、頼朝が挙兵以来となる自らの出馬を行ったことと併せて考えると、頼朝が自身に従う「御家人」の確立という政治的意図を持っており、奥州合戦はそのための契機となったともいえる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E5%90%88%E6%88%A6
 頼朝の方が25,000人以上、泰衡の方が20,000人、という数字
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B4%A5%E8%B3%80%E5%BF%97%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
の信憑性はともかく、広義の治承・寿永の乱の掉尾を飾るにふさわしい、大きな戦であったわけだ。
 なお、「<藤原>基成は平泉が陥落した後の9月18日、・・・3人の息子と共に降伏し捕縛された。後に釈放され帰京している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9F%BA%E6%88%90
というのだから、工作対象たる奥州藤原氏が消滅し、無害化された基成を更に追及したとて、後白河を怒らせるだけで得るものはない、と、頼朝は判断した、ということだろう。(太田)

 (33)大河兼任の乱(1189年12月~1190年3月)

 「鎌倉政権と奥州藤原氏残党である大河兼任らとの間で東北地方にて行われた戦いである。・・・足利義兼<が>・・・追討使<となって対処した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E5%85%BC%E4%BB%BB

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[鎌倉幕府論]

 「現在、鎌倉幕府の成立年については、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)、公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184年)、守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が下された文治元年(1185年)、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)、征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)など様々な意見が存在する。・・・
 川合康は、鎌倉幕府は東国における反乱軍勢力から、朝廷に承認されて平家一門や同族との内乱に勝利して日本全国に勢力を広げ、やがて鎌倉殿を頂点とした独自の権力機構を確立するまで少なくても3段階の過程を経て成立したもので、それを特定の1つの時点を切り取って「鎌倉幕府の成立」としてを論じることは困難であると指摘している。・・・

⇒そうではなく、日本の権力を一元的に武家総棟梁に委任する・・権威は天皇家が引き続き保持するが、天皇家と雖も、その荘園群は、他の諸権門のそれらと基本的に同等のものとして、将軍が掌握する権力による規制に従う・・ことは最初から(少なくとも、治天の君と摂関家当主の間では)決まっていた、というのが私の見解だ。(太田)

 <なお、>1221年の承久の乱での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。・・・

⇒私は、現在の通説である、1185年説乗りだ。(太田)

 近代以降の歴史研究において、中世の武家時代は王朝文化が衰退した暗黒時代とする理解がなされていた。しかし、原勝郎や石母田正らの研究により、中世は日本に封建制が成立した時代とされ、東国武士団はその改革の推進力と評価されるようになっていった。・・・
 <それに対し、>黒田俊雄は中世の政治権力を朝廷・寺社・武家といった権門による共同統治体制とする権門体制論を<唱え、これが通説化している>。
 <そこへ、>入間田宣夫<(注58)>は日本史における、鎌倉幕府成立の負の側面について指摘<するに至った>。

 (注58)1942年~。東北大文(史学)卒、同大院博士課程中退、同大助手、講師、助教授、教授、東北芸術工科大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E9%96%93%E7%94%B0%E5%AE%A3%E5%A4%AB

 入間田は鎌倉幕府は文人優位の政治理念が普遍的な広がりを見せていた当時の東アジア世界の中では異常な存在であり、「武人政権の誕生は、東アジア世界における例外、しかも不幸な例外であった。それは東アジア世界の辺境ならではの悲惨な光景であった」とする。そして「さまざま可能性を圧殺することによって成立した東国武士政権は、日本の中世国家にたいして、きわめて大きな偏りと翳りをもたらすことになった。武人政権の誕生が日本の歴史に及ぼした否定的影響は限りなく大きい。文よりも武を尊ぶこの国の気風が近代にいたるまでも払拭されきれず、あの侵略戦争の触媒となり、今日においてもまた甦りの気配のあるを見よ」と鎌倉幕府の成立を19世紀末~20世紀前半の対外戦争へといたる歴史の起点と位置付けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C

⇒鎌倉幕府の評価については、ここに登場する全ての説が間違いであるところ、強いて言えば、入間田説を180度ひっくり返せば正しい、というのが、私の説である、ということになりそうだ。(太田)
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3 結論

 広義の治承寿永の乱は、後白河による後白河のための後白河の乱だった、ということだ。
 もとより、「後白河のための」と「後白河の」については、より的確に表現すれば、それぞれ、「聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想を完結させるための」と「日本の」だが・・。
 後白河は、この乱を、近衛家なる最高顧問、院庁なる司令部、異母妹の八条院(暲子内親王)庁を主参謀本部、同母姉の上西門院(統子内親王)庁を副参謀本部、という体制で、多田行綱、源頼政、三善康信、藤原忠清、藤原基成、藤原範季、平時忠、らを工作員として駆使しつつ、遂行した。
 この戦は、以下のような経過を辿った。
 聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想(以下、「コンセンサス/構想」という)を完結させる、とは、武家総棟梁の指名、とそれに引き続く、その者への権力の移譲、が基本であるわけだが、後白河は、平治の乱後、頼朝が伊豆国に流された時点から、義朝の遺男子群の中から、武家総棟梁候補は頼朝、そのスペアは義朝と常盤御前の間の男子3名中の1名、そして、スペアのスペアは範頼、と、決めた。
 その後、スペアは、義経に決定した。
 コンセンサス/桓武天皇構想の完結の第一の障害は後白河から権力を簒奪していた平家であり、第二の(予見された)障害は清和源氏内外の義朝遺男子群への対抗勢力だった。
 後白河は、頼朝、義経、と範頼、に、保護の手を差し伸べ続けるとともに、この3名が力を合わせて、この二つの障害の除去を図るよう仕向け、1183年に、いささかフライング気味だったが頼朝を武家総棟梁に指名するところまで漕ぎつける。
 ところが、その頼朝が、義経を、(そして恐らくは範頼も、)上記障害除去の暁には殺害しようとしていることを察知したため、1185年にこのような利己的な頼朝に代えて義経を武家総棟梁、摂津源氏の多田行綱をスペア、に据えるという方針転換を行ったが、頼朝にその実現を阻まれ、頼朝の事実上の脅迫下で、やむなく、頼朝を武家総棟梁へと復権させ、そのスペアが範頼だけとなった状態も受け入れさせられ、頼朝に対し、同年、権力移譲も行わせられた。
 このような、治承寿永の乱に係るトップダウン史観に類する説を今まで唱えた者がいなかったのは不思議だが、その最大の理由は、コンセンサス/構想的なものの存在を誰も想定しなかったことだろうが、繰り返しになるけれど、この時代の史料として、『玉葉』に専ら拠ってきたことも大きいと思う。
 広義の治承寿永の乱の期間に、後白河に仕えた摂関は、近衛基実(1158~1166年)、松殿基房(1166~1179年)、近衛基通(1179~1186年)、九条兼実(1186~1196年)、だが、基実には日記を付けた形跡がなく、基房は、「日記や有職故実書を著し<たが、>・・・現在ではほとんど逸散してしまった」ことになっているところ、そもそも、後白河は基房にはコンセンサス/構想がらみの機密事項は明かしていなかったと見ているのだが、私見では基房の日記類は後白河/基通によって密かに破却された可能性が高いし、基通もまた、父、基実同様、日記を付けた形跡がない。
 (事実関係は、下掲による。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%AE%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%9F%BA%E6%88%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E9%80%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F )
 その理由は単純だ。
 桓武天皇構想が秘匿すべきものであり、それまで歴代天皇・・治天の君が出現してからは、歴代の治天の君・・と摂関家だけが共知するところであったけれど、後白河と近衛基実との間で、以後の治天の君、と、摂関でない時を含め近衛家の嫡流、とだけで共知することにした、と、私は想像している。
 (その理由は、コンセンサス/構想完結期における秘匿度強化の必要性と、完結後は、そもそも、共知者を絞っても構わないから。だ。)
 以上を前提とすれば、九条兼実は、広義の治承寿永の乱の大部分の間は摂関ですらなく、しかも、摂関であった間も、基房同様、コンセンサス/構想がらみの機密事項は明かしてもらっていない、と、私は見ており、彼の日記である『玉葉』中、伝聞部分の信頼性は低く、その中のコンセンサス/構想がらみの機密事項めいた部分に至っては、信頼性はゼロと見るべきだ、ということになる。
 にもかかわらず、広義の治承寿永の乱研究者は、『玉葉』を信じ切って、しかも、もっぱら『玉葉』に拠って論文や本を書いてきたので、全くピンボケのストーリーしか描けなかった、ということなのだ。
 (『玉葉』が養和の飢饉について、伝聞だけでデタラメを書いていることが知られているにもかかわらず、『玉葉』そのものの信頼性に疑問符を付ける者がこれまでいなかったことも、まことに不思議だ。)

4 エピローグ

 (1)聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想は完遂されたのか?

 武家なる縄文的弥生人を質量ともに創り出すことができたことは間違いないが、その武家の総棟梁の指名とその指名された者への権力の移譲について、形の上では果たせたものの、弥生性が勝ち過ぎたところの、非最適格者たる頼朝を指名してしまった・・頼朝を指名させられてしまった・・以上、表記が完遂された、とは言い難い。
 (後白河が危惧した通り、頼朝は、係累を殺しまくってしまい、その挙句、死後、氏素性の確かではない北条氏に、頼朝家の男子を根絶やしにされ、頼朝家の権力を簒奪されてしまった。
 その結果、そんな北条氏、或いはそれに代わる者、が、天皇家も簒奪して、権力のみならず、権威をも掌握してしまう可能性が出来してしまったというわけだ。)
 よって、改めてその完遂を目指したのが、(恐らくは、そのことでも後白河の遺志を受け継いだところの)後鳥羽だった、ということだ。
 
 (2)武家の縄文性維持方策は見つかったのか?

 ところで、コンセンサス/構想の肝の一つである武家の縄文性維持方策の探索については、一体どうなっったのか、と、気になっているむきもあろうかと思う。
 これについては、にわかに信じ難いかもしれないが、清盛、後白河、頼朝、が、リレー式にだが、互いに協力することによって、頼朝の存命中に探索がほぼ完了した、と言ってよいのではないか、と、私は考えるに至っている。
 まだ、仮説にとどまるが、こういうことだ。
 臨済宗の明菴栄西(1141~1215年)を知らない人はいないだろうが、彼が、備中の吉備津神社の権禰宜・賀陽貞遠の子として誕生しており、神道をベースにして知的遍歴を開始した人物であることは重要だ。
 そんな彼は、延暦寺で出家得度し、延暦寺や伯耆の大山寺で天台宗(台密を含む)を学ぶ。
 その栄西に、1168年4月に平家、ということは清盛、が目を付けて、宋に留学させた。
 私の想像では、他の大部分の武家同様、(桓武天皇構想こそ知らないけれど)聖徳太子コンセンサスは周知されていた(コラム#省略)ところ、天台宗も真言宗もまだ武家の縄文性維持方策を確立したとは言い難いので、宋に行って、仏教を改めて学び、件の方策を確立してもらいたい、と指示したのだと思われる。
 この課題を栄西に与えたとすれば、それは、結果的にだが、清盛が日本史において果たした最大の功績だったと言ってよいのではないか。
 ところが、栄西は、同年の9月にすぐに帰国してしまう。
 単なるホームシックでなかったとすれば、課題を果たす目途が全く立たず、心が折れたのだろう。
 それにめげず、それから20年近く経った1187年になって、ようやく、鍵は禅ではないか、という心証を得た栄西は、今度はもっぱら禅を学ぶために再び入宋する。
 この時のスポンサーは明らかではないが、当時、頼朝は、治承寿永の乱が始まってからまだ一度も上京しないままで、平家を滅ぼし、更に義経を追放していたけれど、いまだ存命だった奥州の藤原秀衡と交渉する、等に大童であり、消去法で行くと、今回、スポンサーになったのは、後白河だったのではないか。
 その入宋した栄西は、宋当局にインド渡航を願い出るが許可されなかった。
 禅に限らず、支那仏教のうさん臭さに、彼は気付いていた、ということだろう。
 これも結果論だが、栄西がインドに赴き、サマタ瞑想だけの支那の禅とは全く違う、釈迦直伝の瞑想(サマタ瞑想+ヴィパッサナー瞑想)という、非人間主義者(弥生人)を人間主義者(縄文人)にする方法論(コラム#省略)を学んで帰国したならば、というか、運よく帰国できたならば、それだけを普及させようとしたかもしれず、その場合、日本人の大部分を占める縄文人には全く意味がなかったし、せっかく創り出されたところの、日本人のごく一部の縄文的弥生人を縄文人に戻してしまった可能性があり、そんなことになっておれば、それまでの天皇家/藤原氏の長年の努力が全て元の木阿弥になってしまったかもしれないからだ。
 さて、栄西のスゴイところは、支那の禅(サマタ瞑想)だけでは、武家の縄文性維持方策として十分ではない、いずれにせよそれだけに頼るのはむしろ有害かも、と、支那の禅を見切りつつも、なおかつ、その禅を持ち帰った、と、思われることだ。
 そのことを示唆しているのが、栄西が、1191年に、茶の種と共に帰国し、臨済禅の布教を開始するのと並行して茶の栽培を始め、茶を飲むことを貴族や武家に勧めたことだ。
 私は、栄西にとって、茶、というのは、支那の臨済宗の「公案」、の換骨奪胎物だったのではないか、という気がし始めている。
 そのココロは、神道の日常生活への取り込みだったのではないか、と。
 以上中の事実関係は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E8%8F%B4%E6%A0%84%E8%A5%BF
に拠っているが、以下、直接引用する。
 「栄西<は、>・・・1194年・・・、禅寺感応寺 (<薩摩の>出水・・・)を建立。
 <やがて、>大日房能忍<(注59)>の禅宗も盛んになるにつれ、延暦寺や興福寺からの排斥を受け、能忍と栄西に禅宗停止が宣下される。

 (注59)?~?年。「一説に平家の家人・藤原景綱の子であるとされる。・・・比叡山の学僧であったが禅に傾倒し、・・・達磨宗と称した。・・・
 能忍の禅は独修によるものであり嗣法(禅宗での法統を受けること)すべき師僧を持たなかった。この事は釈尊以来の嗣法を重視する禅宗においては極めて異例であり、能忍の禅が紛い物であるとする非難や中傷に悩まされた。このため・・・1189年<に>・・・二人の弟子を宋に派遣し阿育王寺の拙庵徳光に自分の禅行が誤っていないか文書で問いあわせた。徳光は禅門未開の地で独修した能忍の努力に同情し、練中らに達磨像、自讃頂相などを与え印可の証とした。これを根拠に能忍の教えは臨済宗大慧派に連なる正統な禅と認められ名望は一気に高まった。
 しかし後に栄西は『興禅護国論』の中で能忍を「禅宗を妄称し祖語を曲解して破戒怠行にはしり、その坐禅は形ばかりである」と批判し、日蓮も能忍を「法然と並ぶ民衆を幻惑し念仏・禅門に趣かせる“悪鬼”」と呼んだが、これらもむしろ当時の能忍の影響力の大きさをうかがわせている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%88%BF%E8%83%BD%E5%BF%8D

 ・・・1195年・・・ 博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。

⇒栄西を保護せよ、と、後鳥羽が生前の後白河(~1192年)から申し渡されていた、というのが私の想像だ。(太田)

 栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
 1198年・・・、『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
 ・・・1200年・・・、頼朝一周忌の導師を務める。

⇒生前の後白河から推薦されていたということもあったのだろうが、何よりも、頼朝自身が、栄西にほれ込んだのだろう。
 そして、このような頼朝の気持ちは頼家にも伝えられていた、と。(太田)

 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。・・・1202年・・・、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。
 建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。

⇒彼は、この三つの宗派を総合しなければならないと考えた、と、見る。(太田)

 以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。・・・

⇒禅宗、ないし臨済宗、と称してはいたけれど、日本の栄西の臨済宗は、少なくともその草創期においては、支那の臨済宗とは全く異なる、禅・天台・真言の三宗を総合した、全く新しい宗派だった、と受け止めるべきだろう。(太田)

 ・・・1206年・・・、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。<また、>・・・1209年・・・、京都の法勝寺九重塔再建を命じられる。・・・

⇒後鳥羽も、全面的に栄西をサポートした、というわけだ。(太田)

 1211年・・・、『喫茶養生記』を著す。・・・
 <なお、>『無明集』 – 密教について問答形式で書かれた入門書で・・・1177年・・・に誓願寺で書かれたもの<も著している>。・・・

⇒栄西は、「既存勢力との調和、牽制を図った」のではなく、密教も、心底から「信じていた」としか考えられない。
 栄西にとって「真言(密教)」とは、「密教で何よりも大事だったのは教理を学ぶことでも厳しい修行に耐えることでもなく、「考える必要はない。とにかく仏のパワーを感じるんだ!!」という精神。第六感や未知の力に悟りを開く活路を見出したわけです。」
https://manareki.com/sanmon_zimon
的な素朴なものだったのではあるまいか、と、私は、取敢えず、「憶測」している。
 これは、神社に参拝した時、或いは神社のお祭りに参加した時、の感覚そのものだ。
 ちなみに、「円仁は法華経の教えと密教の教えは同等であると考えたのに対して、円珍は法華経と密教では両者は同じ教えを説いているが密教の方が大事であると考えました。」(同上)から、私は、栄西は、思想的に、円珍の弟子だと言ってよさそうに思う。(太田)

 日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している<(注60)>。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最新の研究では会っていたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E8%8F%B4%E6%A0%84%E8%A5%BF

 (注60)「ある時、建仁寺の僧たちが師栄西に向かって言った。「今の建仁寺の寺屋敷は鴨河原に近い。いつかは水難に逢うでありましょう。」栄西は答えた。「自分の寺がいつかは亡び失せる――そんなことを考える必要はない。インドの祇園精舎は礎をとどめているに過ぎぬ。重大なのは寺院によって行なう真理体現の努力である。」
 ある時一人の貧人が建仁寺に来て言うには、「私ども夫婦と子供は、もはや数日の間絶食しております。餓死するほかはありませぬ。慈悲をもってお救いくだされたい」。栄西は物を与えようとしたが、おりあしく房中に衣食財物がなかった。で彼は、薬師の像の光の料に使うべき銅棒を取って、打ち折り束ねまるめて貧人に与えた。「これで食物を買うがよい。」貧人は喜んで去った。しかし弟子たちは承知しなかった。「あれは仏像の光だ。仏の物を私わたくしするのは怪けしからぬ。」栄西は答えて言った。「まことにその通りである。が、仏は自分の身肉手足を割いて衆生に施した。この仏の心を思えば、現に餓死すべき衆生には仏の全体を与えてもよかろう。自分はこの罪によって地獄に落ちようとも、この事をあえてするのだ。」
 またある時、貧乏な建仁寺では、寺中絶食したことがあった。その時一人の檀那が栄西を請じて絹一疋を施した。栄西は歓喜のあまり人にも持たしめず、自ら懐中して寺に帰り、知事に与えて言った、「さあこれが明日の朝の粥だ」。ところへある俗人の所から、困る事があるについて絹を少し頂きたいと頼んで来た。栄西は先刻の絹を取り返してその俗人に与え、あとで不思議がっている弟子たちに言った、「おのおのは変な事をすると思うだろうが、我々僧侶は仏道を志して集まっているのだ。一日絶食して餓死したところで苦しいはずはない。世間的に生きている人の苦しみを助けてやる方が、意味は深い<。>」(『正法眼蔵随聞記』より(和辻哲郎『日本精神史研究』より孫引き)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49905_63366.html

⇒そして、栄西にとって、「天台」とは、「注60」に出てくるような、人間主義の実践、に尽きたのではないか、と「憶測」している。
 このような意味での日本の臨済宗が、北条氏を始めとする武家達の共通宗派となることにより、武家・・最終的には士族・・の縄文的弥生性が、実に明治期に至るまで維持されるに至った、と、私は見ている次第だ。
 共通宗派となった傍証が、爾後の武家の上澄みの大部分が、(神仏習合教的宗教環境を所与のものとしつつ、)人間主義の実践を少なくとも標榜するとともに、仏教諸派の中でとりわけ臨済宗に親しみ茶の湯に入れ込み、なおかつ高野山に(も)自分の墓を設けること、を続けたことだ。
 なお、日蓮は、「比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE 
ところから、スタートした人物だが、私は、彼が、円珍から栄西へ、の流れの嫡流に位置づけられるべき人物であって、日本の臨済宗を政治的イデオロギーへと転換したことによって、信長と秀吉を突き動かした、と、考えるに至っている。
 (日蓮による禅宗批判は、達磨宗批判、と、限定的に受け止めるわけだ。)
 なお、ここで述べたことは、あくまでも仮説に過ぎないのであって、この仮説について、今後、慎重に検証しつつ、更に考察を深めていきたい。(太田)

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[閑話三題]

○百人一首

 私は、大江広元は、藤原北家御子左流出身だと見ており、この歌道の家が武家総棟梁への日本の権力移譲に重要な役割を果たしたと見ているわけだ(コラム#11620)が、それはさておき、この歌道の家の嫡流である藤原定家は、後鳥羽上皇と浅からぬ因縁の持ち主であるところ、彼が選んだのが百人一首であり、この百人一首を、座興と見てはいけないのはもとよりだが、単なるミニ歌集とだけ受け止めるのはいかがなものか、と思うに至っている。

 「百人一首<には、>・・・なぜ類似の歌が多いのか。なぜ駄作・愚作の歌を、一世の大歌人・定家ともあろう人が採録したのか。・・・
 小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。・・・
 百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96
 「定家は藤原道長の来孫(5代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流や花山院流)と比較して不振であった。更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼(葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にも関わらず官位には恵まれなかった。
 定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受けるなど波乱に満ち、長年近衛中将を務めながら頭中将にはなれず、50歳の時に漸く公卿に達したがそれさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家に家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門<(源)>通親らと政治的には激しく対立するなど、政治の激動の場に身を投じた。・・・そして、・・・1232年・・・正月に定家は二条定高の後任として71歳にして念願の権中納言に就任する。だが、九条道家との対立によって、同年12月に権中納言を更迭される。こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる右大臣・藤原実資のように政治的な要職に就くことは適わなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AE%B6

 で、まずは、百人一首に登場する政治家/官僚達を並べてみた。↓

 天智=持統-陽成-光孝-三条-崇徳-後鳥羽=順徳
             -忠通=慈円
             -西園寺公経
             -実朝
      大江千里(————広元)
      菅原道真

 ※ 「=」は親子を示す。
https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/index.html

 しかし、なんともはや、思わせぶりではあるものの、鮮明な脈絡は見えてこない。
 そこで、百人一首のブービーとしんがりの二首に注目してみた。↓

 「宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。・・・
 同族である藤原定家と親交が厚く、娘をその嫡男である為家に嫁がせている。為家が・・・1227年・・・信濃国の知行国主になると、東国の事情に明るい頼綱が定家・為家親子の相談役として信濃国統治に関する助言を行っている。また、定家は鎌倉にいた頼綱の妻(時政の娘)から異母姉である北条政子の死去の報を六波羅探題よりも先に受けて、西園寺公経と対応を協議している・・・。・・・
 百人一首は京の別荘小倉山荘に住まった折に、定家に選定してもらった和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まるといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%A0%BC%E7%B6%B1
 「後鳥羽院(ごとばいん/ごとばの いん)は中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えている。
 院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では・・・1198年・・・1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、・・・1199年・・・以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物だった藤原定家の歌風に憧憬の念を抱いていたらしく、・・・1200年・・・7月に主宰した正治初度百首和歌では、式子内親王・九条良経・藤原俊成・慈円・寂蓮・藤原定家・藤原家隆ら、九条家歌壇の御子左家系の歌人に詠進を求めている。この百首歌を機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩してゆく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「人もをし人も恨(うら)めしあぢきなく 世を思ふ故(ゆゑ)にもの思ふ身は・・・
現代語訳
人間がいとおしくも、また人間が恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うために、悩んでしまうこの私には。・・・
 この一首は、後鳥羽院が33歳の折りに詠んだ歌だと言われています。憂鬱さが漂う歌ですが、それは貴族社会の終わりに立ち会った院の深い実感でしょう。後鳥羽院は、政治権力を奪われた立場にあり、また貴族社会の復権を強く望み、歌会など勢いが盛んだった時代を彷彿とさせるような催しを数多く執り行っています。自らも非常な歌の名手で、百人一首の撰者・藤原定家らに新古今和歌集の編纂を命じるなど、構成に多くの遺産を残しました。この歌を百人一首の99番に、100番に院の皇子・順徳院の
ももしきや 古き軒端のしのぶにも なほあまりある 昔なりけり
と村上天皇時代の貴族の全盛期を懐かしむ歌を選んだ、定家の気持ちがよくわかります。激動の歴史を100首の並びに織り込み、元主君<の>想いをこめた定家の百人一首の世界は、なんと広いことでしょうか。」
https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/099.htm
 「<順徳の歌の>現代語訳・・「宮居の古い軒端に偲ぶ草は生い茂る 私が偲ぶのはそのかみのこと しのびてもあまりある思い出は尽きせぬ  懐かしやかの日の栄華 荒れはてた宮居の思い出」
 これは私の大好きな田辺聖子さんの現代語訳です。他の方の現代語訳も見てゆきましょう
 中村菊一郎氏 監修の現代語訳では・・・
 「宮中の古く荒れはてた軒端に生えている偲ぶ草を見るにつけても、いくら忍んでもしのびつくせないほど、恋しく懐かしい昔の御代である事だ」
 高橋睦郎著の百人一首(恋する宮廷)では訳者の心情が投影されてドラマティックです。
 「沢山の石を敷き詰めて築いた王朝の礎を盤石にしようと、百千に心をくだき企てを重ねてきたつもりだが、すべては水泡に帰してしまった。今この荒れ古びた、その上 雨さえ降っている軒端の衰徴のしるしのような偲ぶ草を見ていると 自分に残された営為は王朝の盛んだった昔を忍ぶことのみ。だからと言って、輝かしい昔が帰ってくることはないのだ」」
https://yokohama-now.jp/home/?p=19925 

⇒定家は、1番目の歌以外は適当に選んで宇都宮頼綱に提供した98首に、後に、さりげなく、後鳥羽と順徳の歌を、その前の97首をカムフラージュとして用いつつ付け加えることで、この2人の思いを後世に永久に伝えようとしたのではなかろうか。
 仮にそうだった場合の、それぞれの歌の意味なのだが、後鳥羽の歌は、北条宗家が武家総棟梁家を事実上簒奪してしまっていることへの嘆きであり、順徳の歌は、一番最後の高橋の現代語訳が最も適訳に近いのであって、このような仕儀をしでかした北条宗家に対する怒りの表明、だろう。
 (古き軒端/昔、とは、聖徳太子コンセンサスをもたらすこととなった厩戸皇子及びこのコンセンサスを確立した天智天皇、並びに桓武天皇構想を作った桓武天皇、そして、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想の実現に向けて努力を傾注した歴代天皇や摂関達のことだということになる。)
 なお、定家は、ほぼ、そのような意味の歌としてそれぞれを受け止めていたのではないか、と、私は見ている。
 そういう目で1番目の天智天皇の歌を振り返ってみよう。↓

 「秋の田の かりほの庵(いお)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露(つゆ)にぬれつつ 
 現代語訳 秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。・・・
 実際の作者は、天智天皇ではないというのが定説。万葉集の詠み人知らずの歌が変遷して御製となったもの。天智天皇と農民の姿を重ね合わせることで、庶民の痛み・苦しみを理解する天皇像を描き出している。」
http://www.manabu-oshieru.com/hyakunin/001.html
 
 天智の真作か否かはどうでもいいのであって、「追加」された、99番と100番とこの1番を突合してみれば、定家の意図は、天智によって確立された聖徳太子コンセンサスが完遂されていないことを鳥羽と順徳が嘆いている、ということを訴えるところにあったと見るべきだろう。
 そうであるとすれば、1番の歌は、定家としては、次のように解釈して欲しかったのではないか。
 「日本の防衛体制はボロボロであり、日本は危殆に瀕している。」
 (もとより、定家は、摂関家の人間ではなかったわけだが、和歌を通じて、後鳥羽や順徳の最も近くで、彼らの思いの最も深い部分が開示される関係を長年にわたって取り結んだことから、彼らの詠んだ歌の意味をほぼ的確に理解することができたのだろう。)(太田)

 以下蛇足だが、御子左家は、後鳥羽上皇とは形の上では一見同じでありながら、実は目指すものが全く異なっていたところの、後醍醐天皇に、後鳥羽と順徳の怒り、焦燥感を伝達する重要な役割を演じている。↓

 「藤原北家御堂流である御子左家は、藤原俊成・定家・為家と和歌の家としての地位を確立した。為家の子二条為氏は大覚寺統に近侍して歌壇を馳せていた。為氏の庶弟為教・為相と相続をめぐって不和となり、為教は京極家、為相は冷泉家に分家した。二条為氏の子為世、京極為教の子為兼の代になると、二条家嫡流の二条派は大覚寺統(のちの南朝)と結んで保守的な家風を墨守し、一方の京極派は持明院統(のちの北朝)と結んで破格・清新な歌風を唱えた。二条派と京極派は互いに激しく対立して勅撰和歌集の撰者の地位を争った。二条派は「玉葉和歌集」「風雅和歌集」「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占したが、二条派の実権は為世に師事していた僧頓阿<(注61)>に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶してしまう。

 (注61)1289~1372年。「俗名は二階堂貞宗・・・「新拾遺和歌集」撰進の際には撰者二条為明(ためあき、為世の次男・為藤の子)が選集の途中で亡くなったことから、頓阿がそれを引き継いで完成させたが、撰者となったのは76歳の時である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%93%E9%98%BF

 その後秘伝は、東氏(千葉氏の支流で武家)をへて三条西家(藤原氏で公家)に伝わり明治を迎えた。世に言う古今伝授である。また、三条西家高弟細川幽斎からは近世初頭の天皇家、宮家、堂上家、地下家(じげけ)にも広まったが、三条西家は、これ以降も、二条家嫡流の宗匠家としての権威を保ち続けた。中院家、烏丸家も二条派に属する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B4%BE

 藤原定家-為家-二条為氏-為世-為道-為定
        [二条派]   -藤子(後醍醐天皇側室)—懐良親王
               -為子(後醍醐天皇妃)-尊良親王
                         -宗良親王(征夷大将軍)(コラム#11804)

○大覚寺統・持明院統

 亀山天皇(1249~1305年)は、「正嘉2年(1258年)8月、惨烈を極めた正嘉の飢饉の最中、10歳で立太子、翌・・・1259年・・・兄の後深草天皇の譲りを受けて践祚。即位には父の後嵯峨上皇や、母后の大宮院の意向があったとされる。

⇒このことにより、大覚寺統・持明院統鼎立の原因を作ってしまった後嵯峨は天武と並ぶ再暗愚の天皇である、と以前(コラム#1170で)指摘したことがある。(太田)

 1265年・・・には、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮と熊野三山で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天であった亀山上皇か、天皇位にあった後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉った。父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。文永11年(1274年)、蒙古襲来により炎上した筥崎宮<(はこざきぐう)>社殿の再興にあたり亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めた。現在、筥崎宮の楼門高く掲げられている額「敵国降伏」の文字は、文禄年間、筑前国領主小早川隆景が楼門を造営した時、臨写拡大したものという。
 1266年・・・、第6代鎌倉幕府将軍となっていた異母兄の宗尊親王が鎌倉から送り返され、代わって惟康王が将軍に就任した。
 ・・・1267年・・・には皇后洞院佶子が皇子・世仁(後宇多天皇)を生み、翌・・・1268年・・・後嵯峨上皇の意向をもとに世仁親王を皇太子に立てた。・・・1272年・・・2月に後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室領荘園の問題が起こる。後嵯峨法皇は治天の君の指名を幕府に求める遺勅を残していたとされたため幕府に問い合わせたところ、幕府は後嵯峨法皇の内意を問い返し、大宮院による内意は後深草上皇ではなく亀山天皇であったとする証言から亀山天皇親政と定まる。・・・1274年・・・1月、亀山天皇は皇太子世仁親王に譲位して院政を開始。亀山上皇は院評定制の改革に取り組み、一定の成果を上げて「厳密之沙汰」、「徳政興行」と評された。
 また、後深草上皇の血統(持明院統)とは別に、自らの血統(大覚寺統)の繁栄に力を注ぎ、皇統が分裂して交互に皇位継承を行う両統迭立の端緒となる。後深草上皇が出家の意向を示すと、幕府は持明院統の冷遇を危惧し、妥協案として後深草上皇の皇子熙仁(伏見天皇)の立太子を推進。・・・1275年・・・に熙仁は亀山上皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる。続いて・・・1286年・・・には亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下された。
 だが、亀山上皇は関東申次の西園寺実兼との不和に加えて、霜月騒動で失脚した安達泰盛と親しかった事が幕府を刺激する。このため・・・1287年・・・10月には後宇多天皇に代わって伏見天皇が即位し、その父である後深草上皇院政が開始されて総領権を奪われる。さらに、鎌倉では鎌倉将軍の惟康親王が廃されて後深草上皇皇子の久明親王が将軍になり、持明院統に有利な情勢が続いた。
 ・・・1289年・・・9月、亀山上皇は南禅寺で出家して、法皇となる。法名は金剛源。禅宗に帰依し、亀山法皇の出家で公家の間にも禅宗が徐々に浸透していく。その一方で、好色ぶりでも知られ、出家後も様々な女性と関係をもって多くの子供を儲けている。また、笛・琵琶・催楽馬・神楽・朗詠など様々な芸能に通じ、持明院統の後伏見上皇(大甥にあたる)の願いを受けて、・・・1302年・・・には蹴鞠を、翌年には朗詠を伝授している。
 ・・・1290年・・・、宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きた。この事件は初め北条氏による霜月騒動に連座し、所領を没収されたことによる浅原の反抗かと思われたが、大覚寺統系の前参議三条実盛の関与が疑われ、それを受けて伏見天皇と関東申次西園寺公衡は亀山法皇が背後にいると主張した。しかし後深草法皇はその主張を退けた。また亀山法皇も幕府に事件には関与していない旨の起請文を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず、三条実盛も釈放された。
 孫の後二条天皇朝であった・・・1305年・・・9月に亀山殿で崩御、宝算57。遺詔で末子であり当時3歳の恒明親王の立太子の意思を示し、親王の伯父である左大臣西園寺公衡が実現工作に動いたために、後宇多上皇の強い反発を招き大覚寺統内部に混乱を招いた。
 なお、安嘉門院の猶子となっていたようであり、後深草上皇(持明院統)が長講堂領を手にしていたのに対し、・・・1283年・・・9月に安嘉門院が没すると、幕府に使者を遣わして裁定を受け、安嘉門院の遺領(八条院領)を半ば強引に相続した。以降は、子孫の大覚寺統に受け継がれ、後醍醐天皇まで大覚寺統の主な経済基盤になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87

○かろうじて忘失を免れた聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想

近衛家基(1261~1296年)
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鷹司兼平-娘|-家平-経忠(ここまで近衛家嫡流)
亀山天皇-皇女-経平-基嗣(近衛家新嫡流)⇒前久-前子(後陽成天皇女御)-後水尾天皇⇒今上天皇
     
 「近衛経忠<は、>・・・後醍醐が京都を脱して吉野に潜幸すると、天皇への旧恩から吉野朝廷(南朝)への参仕を決意。職を辞<そうと>するも・・・認められなかった。ついに・・・1337年・・・4月、京都を出奔して南朝へ赴いた。これに激怒した北朝側は経忠の関白職を解いて基嗣をその後任とし、子の経家・冬実は昇進停止となった。南朝では左大臣の任にあったものの、志を得なかったのか、・・・1341年・・・京都に戻っている。しかし、ここにおいても冷遇されたらしく、亡屋1宇・所領2ヶ所を受領した他は正体なき有様であったため、藤氏長者の立場を利用し、関東の小山氏・小田氏に呼びかけて藤氏一揆(藤原氏同盟)を企て、自ら天下の権を執らんとしたという。この一件については、経忠が北朝との和睦工作を進めるに当たって、障害となる主戦派の北畠親房を排除する動きとの見方がある。
 一揆の計画が頓挫した後も京都に留まったと思われ、<1351年の>正平一統の折には家門を安堵されて、近衛第に入っている。しかし、間もなく一統が破綻すると追放され、南朝の行宮がある賀名生(奈良県五條市)に赴いたのであろう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%BF%A0

 さて、「近衛家基は1296年に36歳で亡くなっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%9F%BA 前掲
本来の嫡子は経平だと考えてはいても、聖徳太子コンセンサス/桓武天皇構想をその時点でまでせいぜい9歳であった経平(1287~1318年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%B9%B3
には伝えていなかったであろうこと、そして、やむなく家平(1282~1324年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%B9%B3
には伝えていたであろうことも、嫡流争いをもたらした原因の一つではないか、と、私は想像している。
 そして、近衛経平は32歳で亡くなって関白に就任できなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%B9%B3 前掲
ので、経平は同コンセンサス/構想を後醍醐天皇を含むところのそれまでの諸天皇や家平ないし経忠から伝えられる機会はなかった、と見たい。
 その基嗣に、後醍醐が、自分の再中央集権化/日蓮主義の大方針を示唆した時に、基嗣はすぐに態度を明らかにすることを控えたがために後醍醐に馘首された、と、私は見ているわけだ。」(コラム#11690)
 後醍醐以下の南朝の各天皇は、最後の後村上天皇が北朝の後光厳天皇に件のコンセンサス/構想を伝えた可能性は低いと想像されるところ、近衛家の家平-経忠の系統は経忠の子の経家(1332~1389?年)以降は没落した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%AE%B6
ので、すんでのところで件のコンセンサス/構想が忘失される恐れがあったところ、かろうじて南北一統まで存命であった基嗣によって、その嫡男及び後光厳天皇に口伝されることで、忘失を免れた、と、私は見ている。
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        II 元寇の後–縄文的弥生性の国際的発揚後の日本

1 元寇まで

 (1)新羅の入寇

  ◦貞観の入寇

 「貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊が艦二艘に乗り筑前国那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失った・・・
 870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

⇒こんな調子では、正規軍の奇襲を受けていたら北九州を席捲されていたことだろう。(太田)

  ◦寛平の韓寇

 「873年・・・、武将でもある小野春風が対馬守に赴任、政府に食料袋1000枚・保呂(矢避けのマント)1000領を申請して防備の拡充を行っている。
 寛平5年(893年)5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。
 翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、この知らせを受けた朝廷は、政治の中枢の人間である参議の藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。

⇒国経の子孫からは武家は出ていないようだが、弟の遠経の子の子はあの藤原純友だし遠経のもう一人の子の子孫も武家になっている。
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%9B%9B_(%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%B0%89)
 国経自身、武官職を3回経験しているが、子孫を武家化することを拒んだのではないか。
 なお、国経の長男の滋幹を描いたのが谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%9B%BD%E7%B5%8C (太田)

 この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。

⇒遣隋使がまさにそうであったように、復活天智朝下の遣唐使も、安全保障目的であったことが窺える挿話だ。(太田)

 寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。
 [これは私掠ではなく新羅政府によるものであり、「飢饉により王城不安であり食料や絹を獲るため王の命を受けた船100隻、2500の兵を各地に派遣した」と、対馬を襲ったこの45艘もその一部隊であった。また逃げ帰った中には優れた将軍が3人おり、その中でも一人の唐人<だった。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B1%8B%E5%96%84%E5%8F%8B ]
 9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、武将としての経験があり対馬守に配されていた文屋善友<(注62)>は郡司士卒を率いて、誘い込みの上で弩を構えた数百の軍勢で迎え撃った。

 (注62)「883年・・・に上総国で起きた俘囚の乱を上総大掾として諸郡の兵1000を率いて鎮圧した経験を有していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B1%8B%E5%96%84%E5%8F%8B
 文屋(文室)(ふんやし)は、「天武天皇の皇子長皇子の後裔氏族」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AE%A4%E6%B0%8F

 雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。」(上掲)

⇒新羅の官製海賊を、律令兵制で何とか撃退した、というわけだ。(太田)

  ◦長徳の入寇

 「長徳三年(997年)、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う[39]。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。」(上掲)

⇒この時は、藤原道長が、内覧と一上の資格を有した左大臣で、太政官の事実上の首席だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7
が、「九州において・・・封建武士の成長が遅れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
ことに危機感を募らせたことだろう。(太田)

 (2)刀伊の入寇

 「刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、・・・1019年・・・に、女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。・・・

⇒刀伊の入寇の後、朝廷がいかなる対応をとったのか、とらなかったのか、とらなかったとして、どうしてとらなかったのか、等を誰も研究していないように見える。(太田)

 ・・・1019年5月4日・・・、刀伊は賊船約50隻(約3,000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返した。対馬の被害は36人が殺され、346人が拉致されている。この時、国司の対馬守遠晴は島からの脱出に成功し大宰府に逃れている。
 賊徒は続いて、壱岐を襲撃。老人・子供を殺害し、壮年の男女を船にさらい、人家を焼いて牛馬家畜を食い荒らした。賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3,000人という大集団には敵わず玉砕してしまう。
 藤原理忠の軍を打ち破った賊徒は次に壱岐嶋分寺を焼こうとした。これに対し、嶋分寺側は、常覚(島内の寺の総括責任者)の指揮の元、僧侶や地元住民たちが抵抗、応戦した。そして賊徒を3度まで撃退するが、その後も続いた賊徒の猛攻に耐えきれず、常覚は1人で島を脱出し、事の次第を大宰府に報告へと向かった。その後寺に残った僧侶たちは全滅してしまい嶋分寺は陥落した。この時、嶋分寺は全焼した。島民148名が虐殺され、女性239人が拉致。生存者はわずか35名。
 その後、刀伊勢は筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡を襲い、4月9日には博多を襲った。博多には警固所と呼ばれる防御施設があり、この一体の要衝であった。刀伊勢は警固所を焼こうとするものの、大宰権帥藤原隆家<(注63)>と大蔵種材<(注64)>らによって撃退された。

 (注63)979~1044年。「藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の四男」であり、兵部卿に任ぜられた後、大宰権帥に都合3回任ぜられている。刀伊の入寇時は2度目の大宰権帥時代。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AE%B6
 (注64)おおくらのたねき(?~?年)。「大宰少監を務めた後、・・・大宰大監を務める。・・・刀伊の入寇において、種材は既に70歳を超す高齢であったが、大宰権帥・藤原隆家らと共に刀伊に対して応戦する。さらに、刀伊が撤退しようとした際、追撃のための兵船の整備を待たずに単独で追撃を行う旨を筑前守兼大宰少弐・源道済に訴えた。この訴えは認められるも、刀伊の撤退が迅速であったために戦闘には至らなかったが、種材の忠節は深く褒賞すべき者として大宰府から報告が行われた。7月になって種材は入寇での功労により壱岐守に任じられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E7%A8%AE%E6%9D%90
 「大蔵氏<は、>・・・東漢氏の一族で、壬申の乱の功臣である大蔵広隅を祖とする。・・・
 平安時代前期には、学者として菅原道真と双璧を為した善行や、承平天慶の乱で藤原純友の追討に功のあった春実を輩出した。また、大蔵氏は春実以降、代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖となって繁茂し、大蔵党一族と呼ばれる。
 また幕末の尊皇攘夷の志士で福岡藩士の平野国臣(大蔵種徳)は、春実の三男種季の子孫という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%8F

 博多上陸に失敗した刀伊勢は4月13日(5月20日)に肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)<(前出)>に撃退され、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退した。
 藤原隆家らに撃退された刀伊の賊船一団は高麗沿岸にて同様の行為を行った。『小右記』には、長嶺諸近と一緒に帰国した女10名のうち、内蔵石女と多治比阿古見が大宰府に提出した報告書の内容が記されており、それによると、高麗沿岸では、毎日未明に上陸して略奪し、男女を捕らえて、強壮者を残して老衰者を打ち殺し海に投じたという。しかし賊は高麗の水軍に撃退された。このとき、拉致された日本人約300人が高麗に保護され、日本に送還された。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87 前掲 

⇒藤原道長は、1019年3月、出家しているが、1028年の病没まで事実上、日本の最高権力者であり続けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7 前掲
が、九州で武家化しつつあった大蔵種材や源知らの活躍によって、刀伊が撃退されたことを大いに喜んだに違いない。(太田)

 (3)元寇

 元寇そのものについては(コラム#11375及び11310に譲り、)省略する。
 以下は、追補だ。↓

 「1264年・・・、アムール川下流域から樺太にかけて居住し、前年にモンゴル帝国に服属していたギリヤーク(ニヴフ)族のギレミ(吉里迷)がアイヌ族のクイ(骨嵬)の侵入をモンゴル帝国に訴えたため、モンゴル帝国がクイ(骨嵬)を攻撃している。この渡海作戦はモンゴル帝国にとって元寇に先んじて、初めて渡海を伴う出兵であった。
 <さて、>以降20年を経て、二度の日本出兵を経た後の1284年・・・、クイ(骨嵬)への攻撃を再開、1285年・・・と1286年・・・には約10,000の軍勢をクイ(骨嵬)に派遣している。
 これらモンゴル帝国による樺太への渡海侵攻は、征服を目的としたものではなく、アイヌ側からのモンゴル帝国勢力圏への侵入を排除することが目的であったとする見解がある。
 この数度にわたる元軍による樺太への渡海侵攻の結果、アイヌは元軍により樺太から駆逐されたものとみられる。
 元は樺太の最南端に拠点としてクオフオ(果夥)を設置し、蝦夷地からのアイヌによる樺太侵入に備えた。以後、アイヌは樺太に散発的にしか侵入することができなくなった。・・・

⇒13世紀後半においても、アイヌ(縄文人のうち、弥生人との共存を選ばなかった人々)は、(恐らく、大陸の遊牧的民族や縄文化する前の日本列島渡来弥生人を通じて)高度な弥生性を身に着けるに至り、その弥生性を維持してきていた、ということではないか。(太田)

2 元寇の後

 (1)元・高麗

 浙江大学教授・王勇によれば、弘安の役で大敗を喫した元は、その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた。他方、日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が急速に進む中で浪人武士が多く現れ、それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、敗戦で海防力が弱体化していた元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に進出していったとする。
 1292年・・・、日本の商船が貿易を求めて四明(今の寧波)にやってきたが、検査により船内から武具が見つかり、日本人が武具を隠し持っていたことが発覚した。日本人による略奪の意図を恐れた元朝政府は都元帥府を設置して、総司令官・カラダイ(哈剌帯)に海防を固めさせた。
 1304年・・・、江南に度重なって襲来するようになった日本武装商船に警戒し、千戸所を定海に設けて海防を強化させ、市舶司を廃して元の商人が海外に出ることを禁ずる禁海令を発布した。王勇は、このように、元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉関主義へと態度を変化させ日本との通交を回避するようになったとする。
 また、高麗においても、二度に及ぶ日本侵攻(文永・弘安の役)及び第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が殆ど尽き、海軍力が弱体化したため、その後相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる重要な原因となった。

 (2)日本脅威論

 浙江大学教授・王勇は弘安の役での敗戦とその後の日本武装商船の活動によって中国における対日本観は大きく変化し、凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていったと指摘している。
 例えば、南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」と述べ<た。>

⇒日本人の弥生性が東アジア全域を震撼させるに至ったということだ。(太田)

 また元朝の文人・呉莱は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。
 さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」と述べ、日本征服は無益としている。
 また、明の時代の鄭舜功が著した日本研究書である『日本一鑑』では、元寇について「兵を喪い、以って恥を為すに足る」と評すなど、後の時代にも元寇の記憶は批判的に受け止められていたことが窺える。
 元寇の敗戦を通してのこういった日本軍将兵の勇猛果敢さや渡海侵攻の困難性の記憶は、後の王朝による日本征討論を抑える抑止力ともなった。

⇒とはいえ、フビライが三度日本侵攻を試みる可能性はあったのだし、明の朱元璋が日本侵攻を行う可能性もあったことからしても、鎌倉幕府は、日蓮主義を採用して、水軍を整備して制海権を確立するとともに陸上兵力を渡海させ、高麗を征服して朝鮮半島を勢力下に置き、元の冬の首都である大都(現在の北京)やその大都と夏の首都である上都
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%83%BD
とを結ぶ兵站路をいつでも攻撃できる態勢を構築することで、日本の安全保障を十全ならしめ、元寇の際の恩賞として半島の土地を与えることによって御家人達の不満を解消し、同時に、朝鮮半島の住民達の人間主義化を図るべきだったのだ。(太田)

 元の後に興った明による日本征討論が、初代皇帝・朱元璋(洪武帝)、第3代皇帝・永楽帝、第12代皇帝・嘉靖帝の時の計3回に渡って議論された。
 そのうち、朱元璋は軍事恫喝を含んで、明への朝貢と倭寇の鎮圧を日本の懐良親王に要求した。ところが懐良親王は、もし明軍が日本に侵攻すれば対抗する旨の返書を送って朱元璋の要求を受け付けなかった。この返書に激怒した朱元璋であったが、クビライの日本侵攻の敗北を鑑みて日本征討を思い止まったという。

⇒漢人であるにもかかわらず、朱元璋の弥生性は大変なものだったわけだが、「朱元璋も当初は白蓮教徒だったが、元を追い落とし皇帝となると一転して白蓮教を危険視し、これを弾圧した<ところ、>朱元璋が最初から白蓮教をただ利用する目的だったのか、あるいは最初は本気で信仰していたが皇帝となって変質したのか、真偽のほどは不明である・・・<。ちなみに、>「明」の国号は、マニ教すなわち「明教」に由来したものだといわれている・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99
といったことから、朱元璋は、白蓮教徒達の狂気と、元朝下において遊牧民上がりから戦争について肌で学んだ劉基(注65)の軍略、からなる弥生性でもって、明の建国、膨張を行った、と見たらどうだろうか。

 (注65)劉基(1311~75年)は、「中国では魔術師的な軍師として崇拝を受けており、三国時代の諸葛亮と並び称され、明初を舞台とする小説、戯曲等に登場することが多い・・・
 元末の科挙に合格して進士となり、行省元帥府都事を努めたが、上司である括州鎮守の石抹宜孫(回鶻系契丹迪烈部出身、石抹也先の後裔)と衝突して辞任して故郷に隠棲した。南京を陥落させて呉国公となった朱元璋は当地の知識人たちを自らの幕下に招聘した[1]。劉基は朱元璋の招聘に応じた知識人の一人であり、以後劉基は朱元璋の軍師として活躍する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%9F%BA
 なお、朱元璋の妻である馬皇后の事績は興味深い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%B4%AA%E6%AD%A6%E5%B8%9D)

 しかし、そんな弥生性など、漢人だけの政府においてはすぐに雲散霧消すてしまうことを、朱元璋の後を継いだ孫である建文帝が如実に示している。↓

 「朱棣は、君側の奸である方孝孺らを殺して朝廷を靖めると称し、軍を起こした(靖難の変)。兵力では燕王軍の数万に対し、南京の官軍は50万超と圧倒的に勝っていた。しかし、燕王軍は漠北で明朝に対峙するタタール(北元)とたびたび戦ってきた実戦経験豊かな朱棣自身が指揮を取ったのに対し、官軍は有能な将軍を欠いていた。これは洪武帝が有力な部下に皇位を簒奪されるのを恐れ、藍玉ら建国以来の有能な将軍を次々に誅殺していたためである。
 しかし指揮官の質だけでは兵力差を覆すには至らず、内乱は長引いた。建文帝はその元号からもわかるように文治政策を重視し、出陣する将軍に対して叔父殺しの汚名を自身に与えぬようにすることと訓示したり、戦闘中に朱棣が死んだという誤報を信じて将軍を南京に召還したりした。このような状態であり、官軍の軍事的な優位は確立しなかったどころか、逆に離反者を招く始末だったとされる。
 ・・・1402年・・・、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混乱により行方不明となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%96%87%E5%B8%9D
 すなわち、北元との戦いを通じて、父親の朱元璋の弥生性を維持し得た朱棣が建文帝から帝位を簒奪し、「世界帝国を目指した永楽帝は積極的な外征を行い、対外進出を中心にした政策を実施した。永楽帝の治世の最たる象徴は積極的な対外政策にあった。領土拡大においては軍略家の本領を発揮して漢人皇帝としては唯一モンゴル方面への親征を行い、5度にわたる出征でタタール部・オイラト部を威圧した。また南方では陳朝滅亡後のベトナムに出兵し胡朝を滅ぼし、交趾布政司による直接支配を実現、東北方面でも女真族の勢力圏、黒竜江河口まで領土を拡大して奴児干郡司を設置、西方でもティムール帝国と国境を接しティムール没後の帝国と国交をもち、チベットの間接統治も実現した。さらに李氏朝鮮、琉球王国や日本からの朝貢を受け冊封し朝貢貿易を許可(日本は所謂勘合貿易)、また宦官鄭和をして7度にわたり大艦隊を南海方面に派遣し(1405年~433年)、東南アジアからアフリカ東海岸に及ぶ30以上の国々に朝貢させ、明朝の威信をアジア中に及ぼした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D
というわけだ。
 「モンゴル側の史料である『アルタン・トブチ』や『蒙古源流』においては、永楽帝の生母は大元ウルスの順帝トゴン・テムルの妃でコンギラト部出身の女性であり、洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、従って永楽帝はトゴン・テムルの子であると記されているが」(上掲)、その真偽はともかく、こういう話が流布したのは、永楽帝の弥生性が漢人離れをしたものだったからだろう。(太田)

 (3)日本

 「文永の役後、幕府は石築地の建設や輪番制の異国警固番役<(注66)>の設置など博多湾の防備を強化したが、しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちを不満にしたとされる。竹崎季長は鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている。

 (注66)「守護に従い、一定期間(4番編成・3月勤番)、博多湾など元の襲来が危惧される沿岸を警備する軍役である。本来であれば九州に所領を持つ御家人がその任務にあたる性質のものであったが、後に弘安の役などを踏まえて東国・西国を問わずかつ公領や寺社本所領の荘官など鎌倉幕府との主従関係を有さない非御家人に対しても課された。彼らは、京都や鎌倉での大番役を免除された。しかし、御家人にとっては、負担が重いのには変わらなかった。更に異国警備番役の長期化に伴って、九州に所領を有していた九州以外の地方を本拠地とする御家人の中には現地に土着をしたり、本国もしくは九州における庶流の独立や本国側と九州側による家中分裂などを引き起こす例もあった(例:下総千葉氏と九州千葉氏の分立)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%AD%A6%E5%9B%BA%E7%95%AA%E5%BD%B9
 「長門警固番役(ながとけいごばんやく)とは、鎌倉幕府が元軍の襲来に備えて長門国(特に関門海峡とその周辺の沿岸部)の警固をさせるための命じた番役のこと。九州に置かれた異国警固番役と同様の役割を果たした。
 文永の役を受けて鎌倉幕府は長門国の御家人に警固番役を命じていたが、<1275>年5月12日・・・に長門の御家人のみでは不足として同じ山陽道に属する近隣の周防国・安芸国の御家人にも長門警固の命が下され、更に8日後には備後国に対しても同様の命令が下された。彼らは長門探題などの統轄下に置かれ、結番を編成して交替で海岸などの要地の警固にあたった。更に<1276>年8月24日・・・には山陽道に属する残り4ヶ国(播磨国・備前国・備中国・美作国)及び南海道に属する全6か国に対しても長門警固の命令が出され、更に既に動員されていた長門国などを含めた対象国に所在する公家領や寺社領などいわゆる「本所領」に属している非御家人の武士たちに対しても動員が命じられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80%E8%AD%A6%E5%9B%BA%E7%95%AA%E5%BD%B9

 弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて[鎮西探題<(注67)>を設置する<とともに、>]御家人の統制を進めたが、この戦争に対しても十分な恩賞給与がなされなかった。

 (注67)「元寇の後に設置された。永仁元年(1293年)に9代執権北条貞時のころ北条兼時・名越時家が派遣されたのが創始で、それまで設置されていた鎮西奉行・鎮西談議所は廃止された。永仁4年(1296年)の北条実政から1人体制となった。・・・1299年・・・には評定衆・引付衆が設置され訴訟裁断権を持った<結果、>・・・西国(九州)<の>・・・行政・訴訟(裁判)・軍事などを管轄した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E6%8E%A2%E9%A1%8C

 また、九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は解消されなかった。
 貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。借金が棒引きされた御家人も、後に商人が徳政令を警戒し御家人との取引・融資等を極端に渋るようになったため、結果的に資金繰りに行き詰まり没落の色合いを見せるようになった。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなったのである。
 日蓮は、外国の侵攻という『立正安国論』における自己の予想の的中として元寇を受け止め、『妙法蓮華経(法華経)』の行者としての確信をますます強めた。
 浄土教を民間に広めた一遍の踊念仏にみられる熱狂の背景に、元寇の脅威による緊迫感・終末感があったという見解もある。
 この当時、神仏の国土守護の存在意義が社寺側によって宣伝され布教に利用された。各地の社寺縁起では、朝鮮半島を征服したとされる神功皇后の三韓征伐が想起され、日本の軍事力や神々の力の優越性が主張された。同時に、外国とりわけ元寇で主要な役割を果たした高麗が存在した朝鮮半島は征伐される悪人の地として位置付けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E9%80%A0%E5%96%B6%E6%96%99%E5%94%90%E8%88%B9 ([]内)

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[寺社造営料唐船] 

 「14世紀前半(鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて)に、主要な寺社の造営(修復・増築を含む)費用を獲得することを名目として、幕府の認可の下、日本から元に対して派遣された貿易船群のことである。特に建長寺船・天龍寺船などが有名。日中関係史において、元寇による関係悪化(13世紀)と日明貿易(15世紀)の間の時期をつなぐ、半官半民的な交易船である。・・・
 <その>背景<だが、>
・日元関係
 文永の役・弘安の役の両度に渡る戦い(元寇)で日元関係は決定的に悪化し、その後もクビライ(世祖)は3度目の日本遠征計画を立てていたが、海軍力の弱体化や国内の反乱などの理由により実行に移すことはできなかった。また日本側においても、鎌倉幕府は3度目の襲来に備えて、西国御家人への異国警固番役を解くこともなく、鎮西探題を設置するなど警戒を続けた。しかし、クビライの死後は元側にも厭戦気運が広がり、また当時出没し始めた倭寇による海賊的私貿易を防ぐ意味からも、沿岸部の広州・泉州・慶元(寧波)などに市舶司を置き、日本との平和的な交易を望むようになっていた(日元貿易)。
・寺社造営費の需要
 鎌倉時代後期には、異国警固などの出費が増大しただけでなく、貨幣経済の浸透や分割相続制によって幕府を支える中小御家人の零細化・疲弊が進んでいた。また幕府や本所の支配に従わない悪党や海賊などの横行によって荘園・公領からの収入も滞るだけでなく、悪党討伐のための出費も幕府財政を圧迫していた。しかしその一方で、鎌倉新仏教の普及や、主要寺社の火災による損壊などから、むしろ鎌倉時代後期は、寺社の新築・改築の必要性が増しており、幕府はこれらの莫大な造営費用を確保するために、新たな財源として、貿易船による収入という手段に注目していた。
・禅僧の往来
 元に滅ぼされた南宋(1279年に滅亡)から日本へ渡った蘭渓道隆・兀庵普寧や、北条時宗の招きに応じて来日した無学祖元、元からの国使として来日した一山一寧など、13世紀末から14世紀前半にかけて大陸から日本へ渡来した禅僧は多く、彼らの薫陶を受けた日本の弟子たちは、師が学んだ元への留学を望んでいた。また禅宗に帰依していた幕府の有力者たちも、国家間の緊張関係にもかかわらず、元の高名な禅僧を招来することが多くなった。これらの禅僧の往来の多くは、日元間を交易する商船に便乗することが都合良く、これら僧侶の日記にはしばしば商船にて来日・入元したことが記されている。こういった禅僧の往来にも寺社造営料唐船が用いられていたことが推察される。
 上記のごとく寺社造営料唐船は、幕府や寺社側の必要性から派遣されたというのが通説であったが、近年の研究では、むしろ貿易船の主体は博多などの商人であり、利潤の一部を寺社の造営費用にあてるというのは看板に過ぎなかったとの見方が提唱されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E9%80%A0%E5%96%B6%E6%96%99%E5%94%90%E8%88%B9 上掲

⇒仮に新有力説が正しいとしても、仏教と神道の振興のためならば、「敵国」たる元との間で公的な通商を行うことさえ許された、というわけであり、どうして、鎌倉幕府にせよ、室町幕府にせよ、仏教と神道の振興を唱えなければならなかったのか、が問題になってくる。
 実は、戦国大名さえも同じであり、例えば、伊達政宗の曽祖父の伊達稙宗(1488~1565年)の『塵芥集』も仏教と神道の振興を謳っていた。(近々、有料読者向けコラムで取り上げるかも。)
 そこで、当該部分をこの『塵芥集』が負っているとされているところの、御成敗式目を見てみよう。↓(太田)

<御成敗式目(現代語訳)>

第1条:「神社を修理して祭りを大切にすること」

 神は敬うことによって霊験(れいげん)があらたかになる。神社を修理してお祭りを盛んにすることはとても大切なことである。そうすることによって人々が幸せになるからである。また、供物(くもつ)は絶やさず、昔からの祭りや慣習をおろそかにしてはならない。関東御分国(かんとうごぶんこく)にある国衙領(こくがりょう)や荘園(しょうえん)の地頭と神主はこのことをよく理解しなければならない。神社を修理する際に領地を持つ神社は小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きなものは幕府に報告をすること。内容を調べた上で良い方法をとる。

※(れいげん=神仏にいのってあらわれる不思議なしるし「御利益(ごりやく)」) ※(くもつ=そなえもの) ※(かんとうごぶんこく=将軍の知行国=ちぎょうこく=支配する国) ※(こくがりょう=朝廷に税を納める領地だが、関東御分国のばあいは将軍にも税をおさめる) ※(しょうえん=有力貴族や大寺社の領地だが、鎌倉時代には名目上のものが多かった)  ※(ぜんしょ=うまく、あとしまつすること)

第2条:「寺や塔を修理して、僧侶としてのつとめを行うこと」

 僧侶は寺や塔の管理を正しく行い、日々のおつとめに励(はげ)むこと。寺も神社も人々が敬うべきものであり、建物の修理とおつとめをおろそかにせずに、後のち非難(ひなん)されるようなことがあってはならない。また、寺のものを勝手に使ったり、おつとめをはたさない僧侶は直ちに寺から追放すること。・・・
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html

⇒神道が最初に来ていて、仏教はその次に位置付けられていることが第一に気付く点だ。
 そして、神道の振興は「そうすることによって人々が幸せになる」としているのに対し、仏教の振興についてはその「効果」が書かれていないことが第二に気付く点だ。
 第二点については、私見では、その効果は、毀損された縄文性が回復される、すなわち、「そうすることによって不幸がなくなる」ことなのだが、縄文性を毀損させたのは武士であるところ、縄文性の回復を図る必要性が最も高いのも武士である以上、それらのことを示唆するようなことは書くのが憚られた、ということではなかろうか。
 最後に、この御成敗式目については、「51ヶ条より構成されるが、これは十七条憲法の17の倍数である。大宝律令は17巻より成り、建武式目、禁中並公家諸法度、大日本帝国憲法第一章の条文も17条であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%88%90%E6%95%97%E5%BC%8F%E7%9B%AE
と、形式面における、十七条憲法の影響こそ指摘されるが、内容面における指摘は余りなされない。
 しかし、「御成敗式目<が>・・・鎌倉時代後期以後に公家社会にも受容された背景には幕府・朝廷ともに徳政を通じた徳治主義の実現という共通した政治目標が存在したことも指摘している」(上掲)ところ、十七条憲法も、その第六条が示唆しているように徳治主義(仁政)を前提としている上、十七条憲法同様、御成敗式目の第2条は仏教振興を謳っているのだから、御成敗式目は、形式面、内容面ともに、十七条憲法の影響を大きく受けていると言えよう。
 十七条憲法の条文に直接あたってみよう。↓(太田)

1 和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。そのため君主や父親に従わなかったり、近隣と考えが相違したりもする。しかし、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。・・・
2 仏教の三宝(仏・法・僧)を篤く敬え。仏法は四生(生物)が最終的に帰する処であり、万国にとっての究極の宗教である。いつの時代の誰であろうと仏法を尊べないような者はいない。世の中、極悪人は少なく、大抵は教えによって従えることができるが、三宝(仏教)に依らなければ、曲がった心を直すことはできない。・・・
6 悪を懲らしめ善を勧めること(勧善懲悪)は、古来の良い規範である。このように人の善行は匿(かく)さず、悪行は匡(ただ)せ。諂(へつら)い詐(いつわ)る者は、国家を転覆させる鋭利な武器、人民を滅ぼす尖った剣となる。また佞(おもね)り媚びる者は、好んで上の者に下の者の過失を訴えるし、下の者に逢えば上の者の過失を誹謗する。このような人間は皆、君主に対する忠誠が無く、人民に対する仁愛も無いので、大乱の原因となる。・・・
10 ・・・人には皆心があり、各々のこだわり(執着)があるのだから、・・・自分一人の考えがあったとしても人々の意見を聞き入れて協調して振る舞え。・・・
17 物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95

 気になるのは、この第1条は、御成敗式目と違って、神道振興を謳っていないように見えること、と、それに加えて、上掲ウィキペディアが、この第1条は、儒教に由来するとし、「第1条の「以和爲貴、無忤爲宗。」(和を以て貴しと為す、忤ふること無きを宗とせよ)は、孔子の『論語』第1卷 学而第12「有子曰 禮之用和爲貴」(礼を之れ用ふるには、和を貴しと為す) が典拠である。」としていること、だ。
 しかし、
<一、上出の十七条憲法の>第6条と第17条でも「和」が訴えられていること、
<二、>「古来、日本は「倭」(わ、やまと)の名・表記を自称に用いていたが、7世紀頃から国号を「日本」へと改め、また旧来の呼称である「わ、やまと」の漢字表記として、「和、大和」の表記を用いるようになっていった」こと、
<三、>また、「今日に至るまで、「大和(和)」は<、>「日本(日)」と並ぶ自称として日本人に併用され続けて」おり、「「和」という概念・思想性が日本人の間に普及・浸透し、それをアイデンティティ・拠り所とする日本人を今なお一定数生み出し続ける要因となっている」こと、
<四、>更にまた、「仏教と神仏習合を通して混淆してきた歴史がある神道も、「八百万の神」概念が寛容性を示す概念として提示されつつ、「和の思想」と結び付けられて論じられることが多い」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3
等からして、私は、厩戸皇子が、(彼が十七条憲法を作ったという前提で、)「人間主義」という言葉はもとより概念すら当時にはなかったので、第一条において、この「和」という言葉でもって近似的に「人間主義」を表そうとした、そして、神道はこの意味における「和」を体現しているけれど、神道には、教義も、従って、仏教倫理や儒教倫理的な倫理もないので、神道への直接の言及は避けた、と見るとともに、御成敗式目を北条泰時以下の鎌倉幕府の首脳達が制定した時の彼らの認識もそうだったけれど、十七条憲法の第1条と同じようなものを御成敗式目の第1条に持ってきたのでは、人々に仏教だけ振興すればいいのだとの誤解を与えかねないので、あえて、神/神社(神道)と明記したに違いない、と考えている。
 そうだとすれば、私の言う、聖徳太子コンセンサスに関しては、(桓武天皇構想の方とは違って、)鎌倉幕府が成立するまでには、広く、武士達の間で、その全体像が共有されるに至っていた、ということになろう。(太田)
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太田述正コラム#11922(2021.3.27)
<鍛代敏雄『戦国大名の正体–家中粛清と権威志向』を読む(その29)>

→非公開