太田述正コラム#11760(2021.1.5)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その22)>(2021.3.30公開)
恐らく、本能寺の変が放映される場面でも同様だろう。(太田)
1579年・・・5月、織田信長は安土宗論で日蓮宗が浄土宗に敗れたのを名目に本圀寺などの日蓮宗諸寺を破却しようとしたが、実現しなかった。
⇒これは、その前後の、信長の日蓮宗との良好な関係に照らし、奇異な感じを受けるところ、後日、解明したい。(太田)
1585年・・・、豊臣秀吉から朱印地177石を寄進された。1590年・・・、秀吉の姉の日秀尼が立像堂と大客殿などを建立するなど栄えたが、1591年・・・、本願寺の京都移転のため境内の南側を上地させられた。
1615年・・・徳川家康が寺領を安堵。 1624年・・・本堂再建。 1685年・・・徳川光圀が本圀寺で母の追善を行い、厚く庇護した。「本国寺」から「本圀寺」と改称したのは徳川光圀の帰依によるものと言われるが、それ以前から「本圀寺」と称していたという説もある。」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA
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「直義が南朝と手を組む展開になれば少々厄介であるが、尊氏たちはその可能性を一瞬でも考えなかったのではないだろうか。
というのも、そもそも室町幕府は後醍醐天皇に忠誠を尽くして従順だった尊氏を弟の直義が強引に引っぱって樹立させた経緯があり、南朝でもその事情をよく承知していたからである。
南朝にとって、直義は尊氏以上に不倶戴天の憎むべき宿敵であり、たとえ直義が講和を申し込んだとしても、南朝がこれに応じる可能性はきわめて低いとみなされていたと思われる。・・・」(79)
⇒この辺りで小総括をしておきましょう。
「室町幕府<では、>・・・施政発足に当たって鎌倉幕府の諸制度と吏僚が継承されたほか,前幕府倒壊の一因となった畿内近国の急進的在地武士や供御人(くごにん),神人(じにん)など非農業的商人集団をも懐柔すべく,政庁を京都に定めた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9-14540
というのは、亀田が触れていないところの、室町幕府と鎌倉幕府の支持基盤の違い、についての説明ですが、私は、この説明はもっともらしいと思います。
また、「幕府開創期の権力構造における最大の特色は,尊氏が侍所,恩賞方,政所を管轄して主従制的な支配権を掌握する一方,弟の足利直義が評定,引付,安堵方,問注所などを管轄して統治権的支配権を掌握し,兄弟で二元的政治を行った点である。」(上掲)というのは、亀田も採用している説であるところ、私には違和感がある旨を既に指摘しました。
さて、亀田は、観応の擾乱の背景をこれまで説明していませんが、上掲は、「直義の背後には王朝の本所,荘園領主の利害があり,尊氏や執事高師直のもとには荘園制と対決を余儀なくされた急進的在地領主層の期待が集中し,この両者間に権力抗争を生じて,49‐52年・・・に及ぶ観応の擾乱という紛争を招いた。」としているところ、この説は、上で触れた、室町幕府の支持基盤の話と連動している趣があるものの、直冬自身はともかく、直義と尊氏/師直とは権力抗争を行ったわけではなく、単に、後者が、リスク要因であるところの、直義と直冬、を、穏便な形で「無害化」しようとした親心が直義に通じず、直義が抵抗し、直冬がこの直義の抵抗も利用して権力抗争を行った、というのが観応の擾乱である、と、私は取敢えずは考えている次第です。(太田)
「尊氏–師直は、途中石清水八幡宮に参詣して戦勝を祈願し、11月5日頃に摂津国兵庫に到着した。
<そして、>同月19日には備前国福岡にいたり、ここにしばらく滞在して、諸国の軍勢が集結するのを待った。・・・
<12月>、尊氏–師直軍に従軍していた讃岐守護細川顕氏が離脱し、分国讃岐へ逃れた。・・・
顕氏は失脚した直義を錦小路堀川の自邸に住まわせていた。
当然直義の叛意は承知していたが、尊氏–師直を欺くためにあえて従軍していた。・・・
なお顕氏が直義派となったのは、去る・・・1347<年>に南朝楠木正行軍に大敗した失態から河内・和泉守護職を取り上げられたためであるとされる。
<また、少なくとも11月初頭までには、>畠山国清<も>・・・裏切<った。>・・・
<そして、>11月21日、直義は畠山国清の河内国石川城へ入城した・・・。・・・
<国清は、>戦上手な武将で、「無弐の将軍方」とも評された生粋の尊氏–師直派だったはずである。・・・
<これには、1349>年の足利直冬の紀伊遠征が大きかったのではないかと筆者は考えている。
このとき国清は紀伊守護として直冬軍を側面から支援するにとどまったようだが、直冬の戦いぶりを観察し、十分な力量を持つ武将であると評価したのではないだろうか。
にもかかわらず、直冬を冷遇し続ける尊氏–師直に国清は密かに不満を抱いていたのかもしれない。」(80~84)
(続く)