太田述正コラム#11762(2021.1.6)
<亀田俊和『観応の擾乱』を読む(その23)>(2021.3.31公開)
⇒こういう言い方をすると身も蓋もないのですが、足利直義が(実兄の尊氏との比較においては)非教養人であったことを指摘したところですが、細川顕氏は、どうやら武辺一辺倒であったようであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E6%B8%85
密かに、その点で劣等感を抱いていて、直義と直冬、とりわけ直冬
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E5%86%AC
に同類としての親近感を覚えた、ということではなかったかと私は思います。(太田)
「続いて直義が繰り出した妙手が、南朝への降伏である。
直義は南朝の権威と戦力も利用して、尊氏–師直に対抗しようとしたのだ。
直義の降伏の申し出に対して、南朝では激論が交わされたらしい。
南朝にとって、かつて建武政権に対する反乱を主導した直義は尊氏以上に許せない敵であった。
そのため、ただちに軍勢を派遣して直義を殺害すべきだとする強硬論も強かったようである。
だが結局、一度降伏を受け入れて彼の勢力を糾合し、皇統を統一したうえで逆賊を滅ぼすべきだとした北畠親房の意見が採用された。・・・
以降の幕府では、権力抗争に敗北すると南朝方に転じる武将が続出し、南北朝内乱を長期化させる一因ともなった。
直義はその先例となったのである。
ただし南朝降伏以降も、直義は自身の発給文書には北朝の観応年号を使用し続けた。
少なくとも、彼の意識の上では完全に南朝に帰参したわけではなかったのだろう。
それが南朝に不信感を抱かせ、後の講和交渉が決裂する一因となったことにも留意すべきである。
直義の南朝降伏により、近畿地方の南朝方の武士が続々と彼の許に集結した。
また11月21日には近江国で下賀・高山・小原一族<(注41)>が、22日には大和国生駒山で伊勢・志摩守護石塔頼房<(注42)>が、それぞれ直義方として挙兵した。
(注41)調べがつかなかったが、彼らは、足利家係累ないし家臣、以外ではないか。
(注42)「父・義房が陸奥における支配権をめぐって吉良貞家や畠山国氏らと抗争して失脚したため、観応の擾乱・・・では、副将軍・直義に従って尊氏と敵対した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%A1%94%E9%A0%BC%E6%88%BF
「擾乱終結後も頼房は南朝方及び足利直冬方として抵抗を続けたが、・・・1364年・・・頃に足利義詮に降伏、その後出家した。・・・
<なお、>石塔氏<は、>・・・足利泰氏の4男「宰相阿闍梨・薬師寺別当」相義の子、頼茂は祖父泰氏の養子となり、「石塔四郎頼茂」を名乗<ったもの。>・・・
1378年に頼房の子三河守頼世が紀伊国南党橋本正督を攻める細川軍の中に現れ、1399年に応永の乱のときに、将軍義満の馬廻を務めた。しかし、こののち守護家としての石塔氏の存在を見出すことはでき<ない。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%A1%94%E6%B0%8F
⇒石塔頼房は、出家志向の家系の出身であるにもかかわらず、なんとまあ、現世利益にこだわった生き様をしたものだ、という感があります。
彼自身の仏教理解が皮相的なものであったからこそ、カルト信者の直義の側に平気で立てた、ということでしょう。(太田)
室町幕府<は>東北地方に奥州探題という地方統治機関を設置していた・・・。
・・・1345<年>暮から翌2年頃にかけて、吉良貞家と畠山国氏が奥州に赴任し、両探題として奥州を共同統治する体制となる。・・・
擾乱が勃発すると、・・・畠山高国–国氏父子が尊氏–師直派、吉良貞家が直義派に分裂して戦った。
そして・・・1351<年>2月12日、高国–国氏父子は陸奥国岩切城を貞家軍に包囲され、直属被官と配下の国人100人あまりとともに自害した。
東北地方では、直義派が勝利したのである。」(84~85、89~90)
⇒尊氏の足利家係累ないし家臣への優しさが、このような形での係累同士の凄惨な殺し合いをもたらした、ということです。
バランス感覚を持った権力者の出現はいかに稀なことか、と嘆息することしきりです。(太田)
(続く)